第五話 入学式まで、普通でいろ
カレンダーの「4月」の文字が、やけに目に刺さる。
俺の部屋の壁に貼ってある安い月間カレンダーは、三月の余白がもうほとんど残っていない。赤ペンで丸をつけた日付――「入学式」が、すぐそこだ。
高校が始まる。
つまり、俺の“印象操作”が始まる。
俺の能力は、俺を無能力者だと思っている人間が多いほど強くなる。
だから高校生活の最初の一週間が致命的に重要だ。最初に貼られたレッテルは剥がれにくい。最初に「こいつは何もない」と思われれば、その後どれだけ不自然なことが起きても「たまたま」「運がいい」「巻き込まれ体質」で押し通せる可能性が上がる。
逆に、最初に「こいつ怪しい」「隠してる」と思われたら、俺の霧は薄くなる。
疑う人間の数が増えるほど、隠す力が落ちる。
――自分で決めたこの仕様が、ほんとに最悪だ。
(入学式、絶対に目立つな)
(変に賢いと思われるな)
(変に強いと思われるな)
(変に関わるな)
やることはシンプルなのに、難易度が高い。
なのに俺は今、世界規模の謎――天使少女の発生と、その“創造主”捜索に巻き込まれている。
いや、巻き込まれている、じゃない。
巻き込んだ側だ。
自分で「天使」を生み出してしまった以上、責任から逃げ切れるわけがない。綾香のような人間が動けば、いつかは真相に近づく。俺が黙っていても、世界が勝手に俺の首を絞めに来る。
だけど――。
「……協力、無理だろ」
俺はベッドに仰向けのまま、天井に向かって呟いた。
綾香に付き合って捜査ごっこをして、天使の動向を追って、犯人目線で推理して――そんなの、現実的じゃない。
理由は単純だ。
入学式が迫ってる。
高校で「無能力者の印象」を植え付けなきゃいけない。
そして、勉強もしなきゃいけない。
俺は別に天才じゃない。中学だって、ほどほどにやってただけだ。もしこの先、俺の能力が弱体化して、世界に足したルールがどうなるか分からなくなって、それでも生き延びるなら――結局、頼れるのは地力だ。
地力っていうのは、金とか、コネとか、体力とか、そういうの全部。だけど高校生の俺が今から積める地力なんて、まず勉強くらいしかない。
それに。
もし将来、俺が創造主だとバレかけた危機をなんとか乗り切ったとしても、その後の人生が危うい。
逃げるだけじゃ足りない。普通の道を歩けるだけの準備が必要だ。
――なのに。
スマホが震えた。
画面に表示されたのは、元気すぎる通知。
『水野一姫です!!
なるほどなるほど! 昨日はすいませんでした!
今日もお兄さんは普通ですか!?』
普通かどうかを聞くな。
しかも返信しづらい。
“普通です”って返すのも変だし、“普通じゃない”って返したら終わりだし。
俺が既読をつけずに放置していると、続けて通知が来た。
『困ったことがあったらいつでも助けますから言ってください!!
(言わない方がいいことは言いません!!たぶん!!)』
たぶん、って書くな。
その「たぶん」が爆弾なんだよ。
俺は頭を抱えた。
一姫は悪い子じゃない。むしろ善意の塊だ。困ってる人を見ると助けたくなるタイプだ。
……そして、口が軽い。
あの“タグ型の秘密視”能力で、俺の危険な部分をいくつか掴んだ。本人は「なるべく知らないようにする!」とか言ってたが、知った時点で危険だし、うっかり声に出した時点でもう手遅れに近い。
俺が一姫をこのまま自由行動させて、天使調査の場で「あっ、この人能力がバレたら影響が出る秘密の人です!」とか口走ったらどうなる?
終わる。
疑いが増える。
霧が剥がれる。
綾香の検索が通る。
天使が創造主に辿り着く。
世界が俺を見つける。
――詰みだ。
でも俺は、勉強しなきゃいけない。
入学式の準備もしなきゃいけない。
一姫の口を縫うわけにはいかない。
……じゃあどうする?
俺は起き上がって、机に向かった。
開いていた参考書を閉じ、代わりにスマホの連絡先をスクロールする。
そして、ひとつの名前で指が止まった。
幼馴染。
俺が、普段は頼らない相手。
頼らなくても何とかしようとして、結局ひとりで抱え込む相手。
でも今は――。
「……頼るしかないだろ」
俺は息を吐いて、通話ボタンを押した。
「もしもし?」
すぐに出た。声が明るい。なのにちょっと眠そう。
「何、透。こんな時間に」
「今、大丈夫?」
「大丈夫じゃなかったら出ないよ。で、どうしたの」
幼馴染――四月一日 妃愛。
名前からして嘘みたいだけど、嘘じゃない。本人はこの名字をネタにされるのが嫌いで、でも周りが勝手に面白がるせいで、結果的に一番ツッコミに慣れてる。
そして、勉強ができる。俺と違って。
俺が言葉に詰まっていると、妃愛がため息混じりに言った。
「……珍しい。あんたが電話してくるなんて」
「ちょっと頼みがある」
「ほら来た。もっと珍しい」
返事が軽い。軽いのに、逃げる気配がない。この時点で助かる。
「今から会える?」
「今? 忙しいんだけどなあ」
「……お願い」
俺の声が自分でも思ったより真剣だった。
妃愛が一瞬黙ったあと、短く言った。
「場所」
「駅前のカフェ。例のチェーン」
「十分後」
「……ありがとう」
「まだ内容聞いてないんだけど」
そう言いつつ、妃愛は通話を切った。
俺はスマホを握ったまま、少しだけ肩の力を抜いた。
頼った。
誰かに頼るのって、こんなに胃が痛いんだな。
十分後。
妃愛は本当に十分で来た。しかも、来た瞬間に俺の顔を見て眉を寄せた。
「……あんた、疲れてない?」
「気のせい」
「気のせいにしてる時点で疲れてるやつだ、それ」
妃愛は椅子に座る前に、俺の額を指で軽く弾いた。
「で、何。天使? 能力者? どっち」
核心に近いワードをさらっと出すの、やめろ。俺の霧が薄くなる。
俺は咳払いして、できるだけ“普通の悩み”っぽく言った。
「入学式が近いだろ」
「うん」
「そこで変な噂が立つの、嫌なんだ」
妃愛は目を細めた。
「変な噂?」
「……天使の子がさ。俺のこと、能力者だと勘違いしてるっぽい」
「は?」
妃愛の声が一段上がった。
周りの客がちらっとこっちを見る。
俺は小声で続けた。
「声でかい」
「だって……え? 透、無能力者じゃん」
助かる。今それが一番助かる。
妃愛は当然のように、俺を無能力者だと思っている。幼馴染としての“確信”がある。
その確信が、俺の力を支えている部分もある。
俺は頷いて、最小限の説明を続けた。
「そう。だから余計に面倒なんだよ。勘違いって、訂正しないと広がるだろ」
「まあ、広がるね。特に高校ってそういうとこだし」
「それで……その天使、口が軽い」
妃愛が嫌そうな顔をした。
「最悪」
「最悪。だから、お願いがある」
俺は深呼吸して、頭を下げた。
「妃愛。……一緒についてきて」
妃愛が目を丸くした。
俺はさらに頭を下げる。
「その子が俺のことを能力者だって口にしそうで不安なんだ。天使調査とか、そういう場面で。俺は今、忙しくて……入学式前で、勉強もしないとで……」
言い訳が並ぶ。でも本音だ。
妃愛はしばらく黙っていた。
俺が頭を上げられないまま待っていると、妃愛がぽつりと言った。
「……あんたが本気で頭下げて、誰かにお願いするの、珍しい」
その声が少しだけ柔らかい。
「だろ」
「うん。だいぶ珍しい。……よっぽどなんだね」
妃愛は椅子の背にもたれて、ため息をついた。
「私も忙しいんだけどなあ」
「……ごめん」
「でも」
妃愛は俺の額をもう一回、指で弾いた。
「勘違いを正すのは、あとであんたが自分でやりなよ。それくらいはいい」
俺は顔を上げた。
「……いいの?」
「いいよ。口が軽い天使の横で口止めするくらい、できる。入学式前に変な噂が立つのも嫌だし」
妃愛はカップの水を一口飲んで、付け足した。
「それに、あんたが焦ってるの、見てられない」
胸が少し痛くなった。
俺は軽く笑って誤魔化す。
「ありがとう。助かる」
「で、その天使ってどこにいるの?」
妃愛の問いに、俺はスマホを取り出した。
一姫のメッセージは、まだ既読をつけていない。既読をつけると「読んでくれた!」で連投される気がする。
俺は妃愛に画面を見せた。
「こいつ」
「うわ、元気」
「元気すぎる」
妃愛は画面を見ながら、妙に真剣な顔で言った。
「これ、今から呼べる?」
「呼べると思う」
「じゃあ呼ぼう。早めに口の軽さを把握しないと」
妃愛が怖い。頼もしいけど怖い。
俺は観念して、一姫に返信した。
『今から少し話せる? 駅前のカフェに来て』
送信。
既読。
即返信。
『行きます!! なるほどなるほど!!』
なるほどなるほどを禁止しろ。
一姫は五分で来た。走って来たのが分かる勢いで、店のドアを開けて現れた。
「お兄さーーん!!」
声がでかい。
妃愛の眉がぴくっと動いた。
「……まず声を落とせ」
妃愛が低い声で言った瞬間、一姫はその場でぴたっと止まった。
「す、すいません!」
反射で謝った。素直すぎる。
一姫は俺の隣――じゃなく、なぜか俺の真後ろに回り込もうとした。距離感のバグがすごい。
妃愛が椅子をずらして、すっと一姫の進路を塞ぐ。
「そこ、通さない」
「えっ」
一姫がきょとんとする。
俺は慌てて紹介した。
「こ、こいつ、えっと……俺の幼馴染。妃愛」
「わたぬき?」
一姫の目が丸くなる。
妃愛が即座に言った。
「名字で反応しない」
「すいません!」
すぐ謝るな。
一姫は気を取り直すように笑って、妃愛に手を差し出した。
「よろしくお願いします! 握手しましょう!」
妃愛の目が一瞬だけ細くなる。
そして――握手しなかった。
妃愛は手を出す代わりに、軽く会釈した。
「よろしく。握手はしない」
「えっ、どうしてですか?」
「あなた、手加減できないでしょ」
一姫が固まった。
「……えっ、なんで分かるんですか!?」
「透の手、見てれば分かる」
妃愛がさらっと言い、俺の手を顎で示した。まだ少し痛い。地味に恨みがある。
一姫は真っ赤になって頭を下げた。
「すいません!!」
謝りすぎだ。
妃愛は息を吐き、淡々と言った。
「謝るのはいい。けど“言わなくていいこと”を言うのはダメ」
来た。
核心の注意が来た。
一姫はぱちぱち瞬きをして、次の瞬間、ぱあっと笑った。
「なるほどなるほど! それが――」
「それも言わない」
妃愛が即座に被せた。
一姫の口が止まった。止まったが、目はキラキラしてる。言いたいのが顔に出てる。
妃愛は俺を見ずに言った。
「……この子、危ないね」
「だから頼んだ」
「うん。納得」
一姫は俺と妃愛の会話に割り込むように、身を乗り出した。
「えっと! わたし、言わない方がいいこと、言っちゃうタイプです! 自覚あります!」
「自覚あるのにやるな」
妃愛のツッコミが鋭い。
一姫はしゅんとしながらも、すぐに顔を上げた。
「でも! 困ったことがあったらいつでも助けますから言ってください!」
その言葉だけはまっすぐで、嘘がない。
妃愛が一瞬、目を細めた。評価してる顔だ。
「……助けるのはいい。その前に“止まる”を覚えなさい」
「はい!」
返事が良い。返事だけは。
俺はここで本題に入った。
「一姫。俺のこと、能力者だって思ってるっぽいけど」
「はい!」
即答するな。怖い。
妃愛がすっと姿勢を正した。真面目モードだ。
俺は続ける。
「それを、人前で言うのはやめてくれ。入学式前で、変な噂立つと困る」
一姫は両手で口を押さえた。
「はっ……! 言っちゃだめなんですね!」
「そう」
「なるほどなるほど!」
「それも言わない」
妃愛が即座に封殺する。
一姫は涙目になりながら頷いた。
「はい……! わたし、がんばって止まります……!」
妃愛が俺に小声で言った。
「この子、“止まる”の練習が必要だね」
「必要。切実に必要」
妃愛は一姫に向き直ると、指を一本立てた。
「ルール。透のことは“普通の人”として扱う。分かった?」
「普通……」
一姫は俺を見て、にこっと笑った。
「お兄さん、普通です!」
「声がでかい」
妃愛が額を押さえる。
一姫は慌てて小声になる。
「すいません……普通です……!」
俺は苦笑した。だが、少しだけ救われた気がした。
“普通”と言われることが、今は武器になる。
妃愛がもう一本指を立てた。
「ルール二つ目。あなたの能力――秘密のタグが見えるってやつ。人前で読み上げない」
一姫が勢いよく頷く。
「はい! 読み上げません! ……たぶん!」
「たぶん禁止」
「はい! 禁止です!」
妃愛はため息をついて、最後に一言だけ釘を刺した。
「もし口が滑りそうになったら、私が止める。止められたら止まる。止まれなかったら……その場で口を塞ぐ」
「えっ!?」
一姫が怯えた顔をした。
妃愛は笑わずに言った。
「冗談じゃない。私は本気」
その瞬間、一姫はなぜか感動した顔になった。
「……かっこいいです!!」
「褒めなくていい」
「でも褒めたいです!」
天使はすぐ褒める。距離が近い。
俺はそこで、少しだけ現実を思い出した。
(これで、当面の爆発は防げるかもしれない)
妃愛が一姫の横にいて、口を塞ぐ係をしてくれるなら、少なくとも入学式までの“致命傷”は避けられる。
ただし――。
疑いの数が増えるほど、霧が薄くなる。
妃愛に頼ったことで、妃愛の中で「透が何かに巻き込まれてる」という認識は増えた。だが妃愛は俺を無能力者だと思っている。疑いではなく、心配だ。
心配は……疑いとは違う。
たぶん。
その“たぶん”が怖い。
妃愛が俺の顔を覗き込んだ。
「……透。ほんとに大丈夫?」
「大丈夫」
俺は反射で答えてしまった。
妃愛は目を細めた。
「大丈夫じゃないやつの言い方だ、それ」
「……入学式前で、忙しいだけ」
「忙しいだけで頭下げる?」
痛いところを突かれた。
俺が言葉に詰まると、一姫が横から割り込んだ。
「なるほどなるほど! 忙しいってことは秘密が――」
妃愛の手が一姫の口を塞いだ。
「止まれ」
「むぐっ」
完璧な封殺だった。
俺は思わず笑ってしまった。妃愛、強い。能力とかじゃなく、人間力が強い。
妃愛は一姫の口を塞いだまま俺を見て言った。
「……ほら、こういう感じでやるから。安心しな」
俺は頷いた。
「……頼む」
一姫は口を塞がれたまま、親指を立てた。
なんなんだよこの絵面。
解散した帰り道、妃愛が俺の隣を歩きながら言った。
「透」
「ん」
「入学式、ちゃんと行くんだよね」
「当たり前だろ」
「当たり前ができない顔してる」
妃愛の観察眼が鋭すぎる。
俺は空を見上げた。春の空は明るいのに、気分は明るくない。
「……俺さ」
「ん?」
「普通に生きたいんだよ」
口から出た言葉に、自分で少し驚いた。
妃愛は笑わなかった。からかわなかった。代わりに、ゆっくり言った。
「なら、普通に生きなよ」
「それが難しいんだって」
「難しいなら、練習しな」
妃愛は肩をすくめた。
「高校って、練習する場所だよ。普通に生きる練習」
俺は黙った。正しい。正しいから痛い。
妃愛は最後に、少しだけ声を落とした。
「……なんかあったら、今度はちゃんと最初から言いな。あんた、ひとりで抱え込みすぎ」
胸が熱くなりそうで、俺は笑って誤魔化した。
「……うるせえ」
「うるさいのは透」
妃愛は手を振って、家路に分かれた。
俺はアパートに戻り、鍵を閉め、カーテンを閉めた。
机に向かい、参考書を開く。
普通の高校生みたいに。
ページの文字が頭に入らない。
スマホが震えた。
『水野一姫です!
妃愛さん、すごいです! 口を塞ぐのが速いです!
わたしも困ったことがあったらいつでも助けますから言ってください!
なるほどなるほど! (←言っちゃだめでした)』
俺は天を仰いだ。
……止まる練習、必要だな。本当に。
でも。
悪い子じゃない爆弾を、俺は一人で抱え込まなくてよくなった。
それだけで、今日は少しだけ救われた気がした。
入学式まで、普通でいろ。
俺は自分に言い聞かせて、鉛筆を握り直した。
その夜、ニュース速報がまた流れた。
『都内で新たな天使少女、複数確認。発生は同時刻――』
波は増えている。
世界は動いている。
俺は普通のふりをしながら、必死に先のことを考える。
綾香の捜査は止まらない。
天使は創造主を探している。
そして、俺は高校に入る。
普通の高校生として。
――普通でいることが、こんなに難しいなんてな。




