第三話 なるほどなるほど、それがあなたのひみつなんですね!
あの夜――綾香が「もう一度だけソナーを使う」と言い出した瞬間から、俺の生活は“音”が変わった。
静かなはずのワンルームが、やたらうるさいのだ。
冷蔵庫の低い唸り。水道管のきしみ。隣室の足音。遠くの車の走行音。全部が「バレる前兆」に聞こえる。
疑われるほど、隠す力が薄くなる。
その仕様を自分で決めてしまったのが、たぶん致命的に最悪だった。
――隠したい。だから隠す力を足した。
――でも疑われたら、その隠す力が落ちる。
つまり俺は「疑われないために隠す」んじゃなく、「疑われないために“普通”でい続ける」しかない。
……普通ってなんだよ。
そんな哲学みたいな悩みを抱えたまま、俺は布団の中で丸くなっていた。
そして、最悪のタイミングでノックが鳴った。
コンコン。
インターホンじゃない。ノックだ。控えめだ。控えめなのが逆に怖い。
「透くん。起きてる?」
声で分かった。セラだ。
隣の天使は、俺の生活リズムを把握し始めている。最悪だ。
「……起きてる」
ドアを開けると、セラがいた。今日も白い羽を畳んで、手には――またコンビニ袋。
「朝ごはんです」
「……ありがとう。ってか、なんで毎日」
「お兄さんは栄養が不足しています」
「お兄さんって呼ぶな」
「透さん」
呼び替えた。
なんで敬称だけ整うんだよ。根っこは変わってない。
セラは俺の顔をじっと見て、少しだけ眉を寄せた。
「……不安の匂いがします」
「匂いで言うな」
「天使はわかります」
そう言って、セラは廊下の先を見た。昨日と同じ方向だ。
「出生の波が、まだ増えています」
俺は心の中で「やめろ」と叫んだ。
出生。波。中心。創造主。全部、俺の生活に混ぜないでほしい単語たちだ。
「……気のせいじゃない?」
「気ではありません」
即答。
セラは一歩近づいて、妙に真剣な顔をした。
「透さん。昨日の人――綾香さん。彼女は危険です」
その名前が出た瞬間、喉の奥が乾いた。
「……なんで」
「魔力の匂いが強い。強い人は、強い意志を持っています」
「それ、褒めてるのか怖がってるのか分からん」
「両方です」
天使は結論が速い。
セラは少しだけ視線を逸らして、ぽつりと付け足した。
「……創造主に近づく人は、増えます」
俺の背筋が冷えた。
増える。
疑う人間の数が増えるほど、隠す力が落ちる。
増える=終わりが近づく。
俺は笑って誤魔化した。
「創造主とか、俺には関係ないだろ。俺、無能力者だし」
言った瞬間、自分の胸が痛む。俺は「無能力者を演じている」だけなのに、「無能力者だ」と言うと本当にそうなる気がして怖い。
セラは不思議そうに首を傾げた。
「透さんは普通です」
「それ、褒め言葉?」
「はい。普通は希少です」
天使が言うと、だいたい怖い。
セラは袋を俺に押し付けるように渡して、ふわっと笑った。
「では、学校。いってらっしゃい」
「……いってきます」
俺は袋を抱えたまま、部屋に戻った。
普通でい続ける。
そのために、今日は余計なことをしない。
――そう決めたのに。
俺の“普通”は、いつも他人に壊される。
放課後、俺は駅前の人混みに紛れながら歩いていた。
綾香はあのあと、セラの言葉に反応して一瞬だけ「創造主」という単語を咀嚼した。あの目は、明らかに“疑い”の芽だった。
芽が出た時点で、もう俺の霧は薄くなる。
幸い、綾香はすぐにソナーを使わなかった。あの場で魔力を使えば目立つし、天使と揉める可能性もある。たぶん彼女は慎重だ。
でも「慎重な人間」ほど怖い。
慎重な人間は、逃げ道を潰してから踏んでくる。
(……今日は帰って、鍵かけて、カーテン買って、静かに生きよう)
そう思ってコンビニの袋を揺らしながら歩いていると、背後から弾む声が飛んできた。
「わっ! すみません! ちょっといいですか!」
振り向いた瞬間、視界に水色が跳ねた。
水色の髪。
水色の瞳。
そして、背中には白い羽。
「……天使?」
俺が呟くと、相手はにぱっと笑った。
「はいっ! 天使です! 初めまして!」
勢いがすごい。セラの丁寧さとは真逆だ。セラが生活指導の先生なら、この子は学級委員長みたいなテンションで突っ込んでくる。
「わたし、水野一姫って言います!」
水野一姫。名前の響きがやけに現代的で、逆に違和感がある。
俺が言葉を探している間に、一姫は両手を前に出してきた。
「よろしくお願いします! 握手しましょう!」
(いや、それは――)
止める間もなく、俺は反射で手を出してしまった。
次の瞬間。
ぐぎっ。
「――っ!!」
手が、破壊されかけた。
痛みが遅れて脳に届く。骨がきしむ感覚。指が曲がってはいけない方向に曲がりそうな気配。
「すいません!!」
一姫が真っ青になって、両手で俺の手を包むように支えた。
「手加減できなくて!! わたし、ほんとこういうところダメで!!」
「……い、いや……」
声が震えた。俺は必死に表情だけ平然を装う。周りの人が見てる。疑いが増える。霧が薄くなる。
「だ、大丈夫。たぶん折れてない」
「たぶん!? え、骨ってたぶんで判断しちゃだめですよ!?」
正論で怒るな。
俺は手首をそっと動かした。痛い。でも動く。折れてはいない。……セラが毎日持ってくる栄養のおかげかもしれない。いや絶対関係ない。
俺は苦し紛れに聞いた。
「ああいう能力なのか? 握力が強いとか」
「えっ? 違います!」
一姫は勢いよく首を横に振った。
「天使になった時点で、肉体の強さと精神の強さと頭の良さが、だいたい全部、常人よりはるかに良くなるんです!」
「頭の良さも……?」
「はい! だからわたし、今までより賢いです!」
自分で言うな。それって賢くない。
一姫は続けて、さらっと恐ろしいことを言った。
「普通の銃弾くらいなら致命傷になりにくいです! 痛いですけど! 穴あくの嫌ですけど!」
「嫌なのかよ」
「嫌です!」
即答。
その即答が妙に可愛いのが腹立つ。
一姫はやっと俺の手を離して、胸の前で両手を合わせた。
「ほんとにごめんなさい! 最初の印象、最悪ですよね!」
「いや……まあ……」
「でも! わたし、悪い子じゃないです!」
自分で言うな(二回目)。
……でも確かに、悪意はない。距離感がバグってるだけだ。天使はだいたいそうなのかもしれない。
俺が「で、どうしたの」と聞く前に、一姫は目を輝かせた。
「それで! わたし、お兄さん――」
「お兄さん?」
「はい! お兄さん!」
確定するな。
「お兄さんの“ひみつ”が知りたくて話しかけたんです!」
(最悪)
俺の脳内で警報が鳴った。
疑われるほど、霧が薄くなる。
秘密を知る=疑いの芽が出る。
芽が出る=薄くなる。
薄くなる=終わる。
俺が固まっていると、一姫は元気よく宣言した。
「わたしの能力は、話し相手の秘密を知ることができる能力なんです!」
その瞬間、俺の体が軽く硬直した。
……いや、違う。怖いのは能力そのものじゃない。怖いのは、一姫が「知った瞬間に口から出すタイプ」だという確信が、なぜか俺の中で完成してしまったことだ。
そしてその確信は、当たった。
一姫は俺の顔をじっと見つめて、口癖のように言った。
「なるほどなるほど……」
やめろ。その助走はやめろ。
次の瞬間。
「それがあなたのひみつなんですね! 秘密がバレたら能力に影響が出る――それがあなたの能力の秘密なんですね!」
「待て!!」
俺は反射で遮った。声が大きくなった。周囲の視線が一瞬こちらに向いた。
(やめろ! 疑いが増える!)
一姫はビクッとして、両手で口を塞いだ。
「っ、すいません!! 声に出ました!!」
「出すな!!」
「出しちゃいました!!」
反省の仕方が元気すぎる。
俺は頭を抱えたくなったが、ここで取り乱すのも良くない。疑いが増える。霧が薄くなる。俺は深呼吸して、できるだけ冷静に言った。
「……今の、聞かなかったことにして」
「はい! 聞かなかったことにします!」
いい返事だ。だが信用はない。
一姫は申し訳なさそうに眉を下げた。
「えっと……わたし、秘密っていうのは、なんかこう……恋とか! 恥ずかしい趣味とか! そういうのだと思ってて……!」
「……普通はそうだな」
「でもお兄さんのは、ちょっと……すごく……命に関わりそうで……!」
言うなって。
俺は視線だけで「黙れ」を送った。ところが一姫はなぜか、俺の頭上の“何か”を見上げるように目を泳がせた。
「……あれ?」
一姫の目が丸くなる。
「タグが……変です」
「タグ?」
俺が聞き返すと、一姫は自分のこめかみを指で叩いた。
「秘密って、わたしには“見出し”みたいに見えるんです! ほら、動画サイトのタイトルみたいな感じで!」
例えが俗だ。天使なのに。
「普通は、見出しが出て、集中すると中身まで読めるんです。……でも、お兄さんだけ」
嫌な予感がした。
一姫は、読むな。言うな。頼むから。
しかし天使は、頼みを聞かない。
「《能力の中身:閲覧禁止》」
言った。
「《存在の分類:不明》」
言った。
「《ログ:――》……あ、ここも“見えない”です!」
言うなって。
俺は片手で顔を覆った。終わりだ。終わった。少なくとも、俺の平穏は終わった。
一姫はさらに顔を輝かせてしまった。
「すごいです! 閲覧禁止って初めて見ました! なるほどなるほど……!」
「なるほどなるほど、じゃない!」
「えっ! すいません! 口癖です!」
口癖で世界を壊すな。
一姫は慌てて両手をぶんぶん振った。
「でも分かりました! お兄さんの秘密は、聞いちゃいけないタイプです!」
「今さらだよ!」
「はい! 今さらです!」
返事が良すぎる。
俺は周囲を確認した。人混みの中だが、幸い誰もこの会話を真剣に聞いていない。聞いたとしても意味が分からないだろう。俺は必死に自分に言い聞かせた。
(疑われるほど効きが落ちる)
(今のところ、“疑い”は芽のまま)
(芽なら、まだ耐えられる)
だが、一姫本人は芽どころじゃない。今この瞬間、俺に対して「何かがある」と確信してしまっている。
……その確信が“疑い”としてカウントされるなら、俺の霧はもう薄くなり始めている。
俺は一姫に低い声で言った。
「……一姫。頼むから、その話は誰にもしないで」
一姫はきょとんとしたあと、すぐに真剣な顔になった。
「はい!」
即答。
俺は少しだけ安心しかけた。
――しかし、その安心は一秒で砕けた。
「……でも、これって……セラさんに言った方がいいですか?」
「言うな!!!!」
俺の声が裏返った。
一姫はビクッとして、羽をぱたぱたさせた。
「ご、ごめんなさい!! だってセラさん、創造主探してるし! “強い男性能力者”って探してるし! お兄さん、なんかそれっぽいし!」
それっぽいって言うな!! それっぽいって!!
俺は歯を食いしばって、声量を落とした。
「……一姫。セラには、絶対言うな」
「……どうして?」
「……言ったら、困る」
俺は言葉を選んだ。真実を言えない。言えば疑いが増える。霧が薄くなる。
一姫は俺の顔をじっと見た。天使の目は、嘘を見抜くようにまっすぐで、まっすぐすぎて怖い。
そして、突然、ぱっと笑った。
「なるほどなるほど!」
まただ。
「お兄さん、“バレたら困る”んですね!」
「……そう」
「じゃあ、わたし、言いません!」
勢いよく宣言するな。言わない宣言を大声でするな。
一姫は次の瞬間、急に両手で口を押さえて縮こまった。
「……あっ、でも……言わないって言ったら、言いたくなる……!」
「やめろ、天使の告白みたいに言うな」
「だって口が軽いんです……!」
自覚あるのに直らないタイプかよ。
一姫は必死に自分の頬を両手で押さえた。
「えっと……! じゃあ、こうします! なるべく“知らない”ようにします!」
「知った後でそれ言うの、矛盾してない?」
「矛盾です!」
即答。
この子、たぶん本当に頭は良くなってる。良くなってこれなら、元はどうだったんだ。
一姫は真面目な顔で頷いた。
「お兄さんの秘密、知っちゃっただけで影響が出るなら……わたし、なるべく疑わないようにします!」
――その言葉で、俺は一瞬、息が止まった。
疑わないようにする。
それは、俺の新仕様に刺さりすぎている。
疑う人間の数が多いほど、隠蔽が落ちる。
つまり一姫が「疑わないようにする」=俺の隠蔽の維持に協力してくれる、ということになる。
だが同時に、危険でもある。
この子は口が軽い。
疑わないようにしても、口が軽ければ“疑いの芽”を周りに撒き散らす。
芽が増えれば、数が増える。
数が増えれば、霧が薄くなる。
――つまり、一姫は「味方になれる爆弾」だ。
最悪だ。
俺が頭痛をこらえていると、一姫が急に身を乗り出してきた。
「ねえねえ、お兄さん!」
「……何」
「お兄さん、困ってます?」
「困ってる」
「やっぱり!」
やっぱり、って何だよ。
一姫は両手を胸の前でぎゅっと握って、キラキラした顔で言った。
「じゃあ、わたし、助けます!」
「……助ける?」
「はい! 困ったことがあったらいつでも助けますから言ってください!」
その言い方が、妙にまっすぐで。
さっきまで手を潰しかけた天使が言うと説得力があるのかないのか分からない。
俺は思わず笑ってしまった。笑ってはいけない状況なのに、笑ってしまった。
「……お前、本当に悪い子じゃないな」
一姫はぱあっと笑った。
「えへへ! よかった!」
よくない。状況は最悪だ。でもこの子は悪くない。悪いのは俺だ。
俺が作った“天使”という上位存在が、俺の生活圏にどんどん増えている。
そして天使たちは、創造主を探している。
俺が創造主だと確信されれば、俺の力は落ちる。
落ちたら、今まで足したルールがどうなるか分からない。
分からないことだらけだ。
それでも一姫は、最後にもう一度、口癖で締めた。
「なるほどなるほど! それがあなたのひみつなんですね!」
「……それ、もう言わない方がいい」
「はい! 言いません!」
言いそうだな、と思った。
案の定、一姫はくるっと振り返って走り出し――
「……あっ!」
急に足を止めた。
嫌な予感が、背中を冷やした。
一姫の視線の先には、角を曲がってこちらに向かってくる影があった。
細身のスーツ。まとめた髪。落ち着いた歩き方。
藍川綾香。
俺の胃が沈んだ。
一姫は綾香に気づいて、なぜか嬉しそうに手を振りかけ――
「待て!!」
俺は反射で叫んだ。
一姫はびくっとして、両手で口を塞いだ。
「……っ、わたし、いま、喋っちゃだめなやつ!」
自覚したなら止まれ。頼む。
一姫は必死に頷いて、俺に小声で言った。
「お兄さん! 困ったら言ってくださいね!」
言い残して、今度こそ走り去った。
口が軽いくせに、逃げ足だけは速い。
俺はその背中を見送りながら、綾香に気づかれないように表情を整えた。
疑いが増えるほど、霧が薄くなる。
さっき一姫が秘密の一部を口にした。
そして今、綾香が近づいてくる。
――疑いの数が、増える。
俺はコンビニ袋を握りしめて、無能力者の顔を作った。
普通の高校生の顔を作った。
作れるうちに、作らないといけない。
綾香が俺の前に立ち、柔らかく微笑む。
「透くん。偶然ね」
偶然なわけがない。
俺は笑って答えた。
「……偶然ですね」
その瞬間、背中に冷たい汗が流れた。
今の俺の霧は、どれくらい薄くなっている?
そして――一姫がさっき飲み込んだ言葉は、いつ爆発する?
悪い子じゃない爆弾が、俺の生活圏に増えた。
それが、今日の結論だった。




