第二十話 重力と回復、許可の穴――そして目覚め
反省室三十分。
それは罰のはずだったのに、俺の中では完全に「経験値稼ぎ」の枠に分類されてしまっていた。
……いや、違う。
俺はあの部屋で、魔法の才能を見つけた。
もっと正確に言うなら――「自分が得意な魔法の系統」を、ようやく理解した。
神殿の地下。あの湿った石壁の廊下を歩きながら、俺は自分の掌を見つめた。
薄い紋様は、まだ残っている。あの羊皮紙の記号と同じ系統の、丸と線の絡み。
そして手首の腕時計は――今は止まっている。
だけど、あの夜、確かに一回だけ跳ねた。
現実と繋がったノック。
大翔の声。
「約束しただろ⁉」
……守る。
守るために、俺はここから出る。
出るために、必要なのは「力」じゃない。
この世界は許可制だ。壁じゃない。拒否だ。判定だ。
なら、俺がやるべきは――判定の穴を開けること。
穴を開ける鍵を握っているのは誰か。
シスター天使、エリシア。
あの優しい顔で躾をする女だ。
俺は息を吐いて、神殿の回廊を見上げた。
外へ出たいと頼んだだけで、反省室に放り込んだ女に――もう一度、頼みに行く。
普通なら冗談みたいな展開だ。
でも、俺の中では順番が逆になっていた。
頼むために勝つんじゃない。
勝つために頼むんだ。
勝たなければ、そもそも交渉の席にすら座れない。
神殿の裏手、人気の薄い小部屋。
そこは前回、俺が異能を封じられた場所だった。
エリシアは相変わらず、金髪を長く垂らし、修道服のままそこにいた。祈るように手を合わせ、声のない祈りをしている。
俺が入ってきた気配だけで、彼女は振り向いた。
「まあ。透さん」
にこっ。
その笑顔だけで胃が痛くなるの、理不尽じゃないか。
「また来ましたね。今日は反省しに来たのですか?」
「反省って便利な言葉だな」
俺がぼそっと呟くと、エリシアは楽しそうに笑った。
「便利ですよ。心が軽くなります」
「軽くなるのはお前の手のひらの上だけだろ」
ツッコミが止まらない。緊張すると口が回るタイプなんだ俺は。
俺は深呼吸して、まっすぐ言った。
「もう一回、勝負してくれ」
エリシアは瞬きした。
「勝負?」
「前と同じでいい。触れたら俺の勝ち」
エリシアの微笑みが少しだけ鋭くなる。
「……昨日は、透さんが自分で言いましたよね。“次は勝つ”と」
「言った」
「可愛い」
「褒め言葉として受け取らないからな」
エリシアはくすくす笑い、ゆっくり一歩下がった。
「いいでしょう。条件は同じ。私に触れられたら透さんの勝ち」
彼女が指先を軽く上げる。
空気が変わる。
――来た。
異能無効化の圏。
前回は、そこで俺の能力が“無音で不発”になった。
今日もそうだろう。
だから今日の勝ち筋は最初から決めてある。
魔法。
重力魔法と――回復魔法。
昨日の反省室で、俺は重力の感覚を掴んだ。
そして、あの場で一度だけ、気づいてしまった。
魔物の爪が頬を裂いた時、血が出て、熱が走って、痛くて、でも――
「治したい」と思った瞬間、傷が塞がった気がした。
完全に閉じたわけじゃない。だが、痛みが急に引いた。血が止まった。
あれは偶然じゃない。
俺は“回復”の魔法も、使える。
それどころか――得意だ。
超能力でも魔法でも非現実的すぎることほど、なぜか俺のイメージはブレない。
重力を操る。傷を塞ぐ。
「世界のルールがこうならいいのに」と思う感覚に近いからだ。
……俺の異能が“ルールを追加する”能力だから、か。
皮肉だ。
異能は封じられても、魔法で似たことができる。
俺は一歩踏み出した。
エリシアが微笑んだまま言う。
「透さん。異能は通りませんよ?」
「知ってる」
俺は両手を前へ出す。
まず重力。
床ではなく、空気。
一点に落とす。
(落とせ)
空気が沈む感覚。
エリシアの足元が、ほんの一瞬だけ重くなる――はずだった。
だが彼女は平然としている。
当然だ。
天使は身体能力が高い。魔法も使える。俺の一撃程度で止まらない。
彼女は指を軽く弾いた。
俺の体がぐらりと揺れる。
重力が反転したような感覚。膝が浮きそうになる。
「……っ!」
俺は踏ん張り、次の手を打つ。
重力を上げる。
範囲を広げる。
部屋全体。
――俺自身を含めて。
エリシアの眉がわずかに動いた。
分かったか?
これは“相手だけを狙う”戦いじゃない。
俺は自分も巻き込む。
自分の骨が折れても構わない。
動けなくなるまで潰して、回復で無理やり立つ。
それが俺の勝ち筋だ。
(重く、落ちろ)
空気が沈む。
床が軋む。
自分の体が、鉄塊みたいに重くなる。
膝が鳴った。骨が悲鳴を上げる。
痛い。
でも――ここで止まったら終わりだ。
俺は唇を噛み、回復のイメージを掴む。
(戻れ)
(繋がれ)
(治れ)
痛みの芯が熱で包まれ、鈍っていく。
完全には治らない。だが、立てる程度には戻る。
エリシアが初めて、はっきりと驚いた顔をした。
「……透さん。自分を潰しているのに、立つのですか」
「立たないと触れられないからな!」
俺は重力をさらに上げた。
エリシアもさすがに動きが鈍る。無敵の天使でも、重力が味方をしなければ立ち回れない。
彼女は微笑みを消し、真剣な目で言った。
「魔法は……止められません。そうですね。透さんは、学びましたね」
「反省室のおかげでな!」
エリシアが指を動かす。
空気が切れるような音。
真空の刃――いや、真空“破”だ。
目に見えない衝撃が飛び、俺の肩を削った。
血が噴きそうになる。
「――っ!」
俺は息を止め、回復を重ねる。
傷口が熱を持ち、皮膚が引き寄せられる感覚。
痛みは消えない。
だが、動ける。
動けるなら、勝てる。
俺は足を引きずるように一歩、また一歩、前へ出た。
重力で全員が動きづらい。エリシアも例外ではない。
彼女はその場から大きく動けない。
つまり――距離戦になる前に、俺が詰めればいい。
エリシアの周囲には薄い膜がある。
だがそれは異能のように“遠ざける”のではなく、魔法の壁に近い。
なら、力押しで“触れる”だけならいける。
俺はさらに重力を上げた。
自分の足首がまた鳴った。折れたかもしれない。
回復をねじ込む。
立て。
動け。
触れろ。
エリシアが小さく息を吐いた。
そして、穏やかな声で言った。
「……乱暴な子ですね」
その声の直後、俺の頭がぐらりと揺れた。
視界が一瞬ぼやける。
眠気?
いや、違う。
“意識”が引っ張られる感覚。
まるで、どこか遠くへ引きずり込まれるみたいな。
俺は歯を食いしばって耐えた。
――これが許可の判定か?
神殿の中で、俺が“やりすぎた”と判断された?
意識が落ちたら負ける。
俺は叫ぶように自分に命令した。
(起きろ)
回復を、体だけじゃなく頭に回す。
熱で脳を無理やり起こすような感覚。
危険だ。分かってる。だが今は、勝ちが先だ。
俺は最後の一歩を踏み込んだ。
エリシアの目が細くなる。
彼女が避ける。
避けようとする。
だが重力が重い。動きが遅い。
俺は腕を伸ばす。
伸ばした瞬間、肩の筋が切れそうになる。
それでも伸ばす。
――指先が、布に触れた。
修道服の袖。
ほんの一瞬。
確かな接触。
その瞬間、部屋の空気がふっと軽くなった。
重力が抜けたわけじゃない。張り詰めた何かが解けた。
エリシアが、ゆっくり息を吐く。
「……透さんの勝ちです」
俺はその場に膝をついた。
痛みが一気に戻ってくる。
全身が悲鳴。
回復が追いつかない。視界が揺れる。
俺は笑ってしまった。
「……勝った……」
「勝ちましたね。おめでとうございます」
エリシアは、負けたのに穏やかだった。
腹が立つほど穏やかだ。
俺は息を荒くしながら、彼女を見上げる。
「……約束、守れ」
エリシアは少し首を傾げた。
「結界を無効化してほしい、でしたね」
「無効化じゃなくていい」
俺は痛みで声が震えるのを抑えながら、言葉を繋いだ。
「限界まで……一部だけでいい。穴を開けて、俺を通らせてくれるだけでいい」
エリシアの目が細くなる。
「外に出て、どうするのですか」
「繋ぐ」
俺は迷わず言った。
「この世界と現実を繋ぐ。自由に出入りできる扉を作る」
自分でも無茶だと思う。
だが、言わなければ通らない。
ここは許可制。言葉は許可の申請書だ。
俺は続けた。
「そうすれば、ここに閉じ込められる必要がなくなる。帰りたい奴は帰れる。残りたい奴は残れる。……みんなが幸せになれる」
エリシアはしばらく黙っていた。
やがて、困ったように笑った。
「……透さんは、夢見がちですね」
「夢でもいい。夢から出るために夢を言ってる」
エリシアが小さく息を吐いた。
「仕方ありませんね……」
そして、優しい声で告げた。
「負けてしまったんですから」
俺の胸が熱くなる。
エリシアは俺に手を差し出した。
俺はその手を取ろうとして――止まった。
「……その手、罠じゃないよな」
「透さん。今さら何を言っているのですか」
「お前、優しい顔で反省室に放り込むから信用が……」
「では、反省室を延長します?」
「やめろ!」
エリシアはくすっと笑い、俺の腕を支えた。
俺はボロボロのまま立ち上がる。
回復魔法で必死に繋ぎ止めても、体は限界だ。
それでも、行く。
今、外へ出る。
今、現実に戻る。
大翔との約束がある。
神殿から外周へ。
森を抜け、崖へ。
あの海の匂いがする場所。
エリシアは歩きながら、淡々と説明した。
「透さん。外側の拒否は、壁ではありません。許可です」
「分かってる」
「私ができるのは、拒否を“壊す”ことではなく――一時停止することです」
「それでいい」
「時間は短いですよ。数秒。……透さんが戻れなくなっても、私は責任を負いません」
「それはもう自分で負う」
崖の縁。
暗い海。
あの時、俺を押し返した拒否の感触。
エリシアは俺の隣に立ち、祈るように手を合わせた。
声はない。
だが空気が震える。
彼女の周囲から、見えない波が広がる。
拒否の膜が、薄くなる。
――穴が開く。
目の前の空気に、線が走ったように見えた。
裂け目。
許可の裂け目。
エリシアが静かに言う。
「今です」
俺は頷き、前へ踏み出した。
足が――戻されない。
海が俺を拒否しない。
世界が、初めて俺を通した。
その瞬間。
耳元で、あの声がした。
「透!!」
大翔。
今度は数秒じゃない。
はっきり聞こえる。
「透!! 帰れ!! 今だ!!」
俺は叫び返したかった。
でも声が出ない。
視界が白くなる。
足元が消える。
世界が裏返る。
――落ちる。
闇に落ちる。
最後に聞こえたのは、エリシアの穏やかな声だった。
「……約束、守ってくださいね」
そして。
完全な暗転。
「……透! 透!」
誰かが俺の肩を揺らしている。
うるさい。
眠い。
体が重い。
いや、違う。
この匂い。
消毒液。
鼻がつんとする。
俺はゆっくり目を開けた。
白い天井。
蛍光灯。
点滴のスタンド。
機械の電子音。
……病院?
「透! 良かった……!」
視界の端に、見慣れた顔が飛び込んできた。
真宮寺大翔。
髪は少し乱れている。目の下にクマ。だが、いつものまっすぐな目。
「……大翔?」
声が掠れた。
喉が痛い。
大翔が一気に顔を近づける。
「起きた! 看護師さん! 起きました!」
騒ぐな。マジでうるさい。
俺は目を瞬いて、状況を確認した。
腕。
自分の手。
――掌に、薄い紋様が残っている。
丸と線と点。
夢の痕跡が、現実にある。
俺は反射で手首を見た。
腕時計。
止まっていたはずの秒針が――動いていた。
カチ、カチ、と。
確かな音。
俺は息を呑んだ。
大翔が早口で言う。
「透、あれ異世界じゃない。夢の中だ」
「……は?」
「夢の世界を作れる能力者がいる。町ひとつ分だけ“現実と同じ”世界を作れる。でも、文字だけ取り入れられない欠陥がある」
文字。
だから、あっちには文字がなかった。
だからみんな理解が滑った。
だから地図が流通しない。
だから許可制の結界が必要だった。
全部が一本の線で繋がる。
俺は喉を鳴らした。
「……じゃあ……あの島は……」
「町サイズのシミュレーションだ。出られないのがデフォルト。合意があると、ロックされる」
合意。
俺が疲れ切って、ふらふらで。
「夢の席に行ってみたい」なんて、軽く言った瞬間。
それが“合意”扱いになって、檻に入れられた。
俺は歯を食いしばった。
「……誰が」
「分からない。俺も知らない。だけど、目的は二つだ」
大翔は指を二本立てる。
「最初は魔法の概念を現実に反映したらどうなるかのシミュレーション」
「……」
「でも途中で目的が変わった。透が巻き込まれる直前――お前の秘密を確かめるために、夢世界に入れられた」
俺は息が止まった。
俺の秘密。
俺の異能。
疑われるほど弱くなる、あの能力。
夢世界の中でも――俺は“観測”されていた。
魔物の動き。
神殿の検閲。
全部が試験。
俺は震える指で、自分の掌を握った。
「……俺、どれくらい寝てた」
大翔の顔が曇る。
「四日」
四日。
入学式の翌日から、俺は意識不明で寝ていた?
やばい。
学校。
妃愛。
一姫。
ルカ。
全部。
俺がいない間に何が起きた。
大翔が言う。
「俺、約束守りたくてさ。会いに行こうと思った。……そしたらお前、倒れて救急車で運ばれてた」
「……」
「俺の能力で“会う手順”を探したら、この病院に辿り着いた」
大翔は唇を噛む。
「でも、声が届かなくて。回線が掴めない。半径数百メートルにいる相手なら繋げるのに、お前はどこにもいないみたいだった」
だから、数秒だけ。
夢の入口付近でだけ回線が掴めた。
だから「約束だろ!」って叫びが、ノックみたいに届いた。
俺は天井を見上げた。
頭が痛い。
でも、確かめたいことがある。
俺は小さく息を吸って言った。
「……大翔。俺、魔法を覚えた」
「は?」
大翔が固まる。
俺は苦笑した。
「信じなくていい。でも、体が覚えてる。……重力と、回復」
俺は点滴の針が刺さっている腕に意識を向けた。
“治したい”と、思う。
熱が走る。
皮膚の下が、わずかにむず痒くなる。
看護師が慌てて入ってきて、俺の腕を見る。
「えっ……? 点滴の痛み、引いてません? 腫れも……」
俺と大翔は顔を見合わせた。
――夢じゃない。
夢の中で得た感覚が、現実に残っている。
つまり。
夢世界はただの夢じゃない。
現実の能力者の力で作られた、現実に干渉できる“場所”だ。
大翔が喉を鳴らす。
「……透。やばいな、それ」
「やばい」
俺は息を吐き、腕時計を見た。
秒針が動いている。
カチ、カチ。
そして裏蓋の縁に――極小の刻印が、薄く浮かんでいた。
「翔」
俺は目を細めた。
父の名前の一文字。
夢世界の中心にあった神殿責任者の名。
神谷 翔。
大翔が小声で言う。
「……それ、前からあったのか?」
「……知らない」
俺は正直に言った。
前は見えなかった。
今は見える。
見えるようになったのか、浮かび上がったのか。
看護師がカルテを確認しながら言う。
「意識が戻って良かったです。もう少し安静に――」
その言葉の途中で、病室のテレビが勝手に音を上げた。
『――天使少女の発生源は都内某所の可能性が高いと、専門家は……』
俺の背中が冷えた。
現実側も進んでいる。
天使の話題はもう“ネットの噂”じゃない。ニュースになっている。
そして俺は四日寝ていた。
その間、妃愛はどう動いた?
一姫は口を滑らせていないか?
ルカはダンジョンを進めていないか?
俺の“読み込み%”は?
俺は息を吸って、ベッドの上で拳を握った。
大翔が言う。
「透。無理すんな。今のお前、ボロボロだろ」
「ボロボロなのは夢世界の話だ」
「いや、現実もボロボロだよ!」
大翔のツッコミが妙に現実味を持って刺さる。
俺は苦笑した。
「……約束。守れそうだな」
大翔が目を見開く。
「守れ。絶対守れ」
「守る」
俺は頷いた。
その瞬間、耳元で、聞き覚えのある穏やかな声がした気がした。
「……約束、守ってくださいね」
エリシア。
幻聴かもしれない。
でも、腕時計の秒針が――一回だけ、跳ねた。
カチ、ではなく。
強いノックみたいに。
俺は目を閉じた。
夢世界は終わった。
でも、終わっていない。
誰かが俺を試した。
俺はその試験を、勝って抜けた。
なら次は――。
俺が主導権を取り返す番だ。
外から扉を作る。
夢と現実を繋ぐ、許可の穴を広げる。
そして――父の名前の正体を暴く。
俺はゆっくり目を開けて、大翔に言った。
「……大翔。次は協力しろ」
大翔が即答した。
「する。手順書でもなんでも使う」
「死ぬなよ」
「死なねえよ! 俺、ただ友達と遊びたいだけなんだぞ!」
「その“ただ”が重いんだよ」
看護師が呆れた顔で言った。
「元気ならもう少し静かにしてくださいね」
俺と大翔は同時に「あ、はい」と答えた。
病室の空気が、少しだけ軽くなる。
でも俺の胸の奥は、重いままだ。
許可制の世界。
夢世界の町ひとつ分。
文字だけ作れない欠陥。
そして、父の名。
――神谷 翔。
俺は腕時計を握りしめた。
秒針が刻む音が、次の戦いのカウントダウンみたいに聞こえた。




