第十九話 シスター天使と反省室(初回30分)
神殿に行く。
それは俺にとって、もはや“調査”じゃなくて“賭け”に近かった。
十八話の最後――地面に残った文字の形が、一瞬だけこの世界の拒否に勝ったのを見てしまったせいだ。
世界の仕様に穴を開けられる。
その事実は希望で、同時に最悪の危険でもある。
穴は出口になる。穴は監視の的になる。
俺がやるべきことは、穴を大きくすることじゃない。穴の位置を確かめること。鍵穴の形を知ること。最小限で、最大限の成果を取ること。
そして――鍵穴の中心にあるのは神殿だ。
許可制の島。地図の禁制。文字の禁忌。外へ出ようとすると、世界が拒否する。
その“拒否”を発行しているのが神殿なら、神殿に触れずに脱出はありえない。
……問題は、そこが俺にとって一番近づきたくない場所でもあるってことだ。
神殿責任者の札に刻まれていた名前。
神谷 翔。
父の名前。
顔も声も知らない父の名前が、この箱庭の中心にある。
ここが偶然である確率なんて、もう考えるだけ無駄だった。
俺は授業の休憩時間、転入者の集まりで噂を拾った。
「神殿には、シスター様がいる」
誰かが小声で言う。
「シスター様って?」
「金髪で、すごく優しくて……でも逆らうと怖い」
やめろ、情報がふわふわしてる。俺はもう一段深いところを引き出す。
「何がすごいんだ」
別の転入者が、困ったように答えた。
「……異能が効かなくなるって」
異能。
つまり超能力。俺の“ルール追加”も含まれる。
俺は心臓が跳ねるのを抑えた。
「無効化?」
「うん。神殿の中で変なことすると、全部止められるらしい」
その瞬間、頭の中でピースがはまった音がした。
だから神殿は保たれている。
転入者が増えても、強い奴が出ても、神殿の秩序が崩れない理由。
外側結界が“許可”なら、その許可を乱す奴を黙らせる係が必要だ。
……門番。
俺は頷いたふりをして、その場を離れた。
噂が本当なら、俺はそのシスター天使に会わなければならない。
そして、もし本当に“無効化”できるなら――。
外側結界の正体が「魔法」なのか「許可」なのか、確かめられる。
無効化で通るなら、それは魔法だ。
無効化でも通らないなら、それは許可だ。
どちらにせよ、答えが一つ増える。
答えが増えれば、出口に近づく。
神殿は昼でも空気が重かった。
石の壁は冷たく、広場の祈りのざわめきが常に背中に張り付いてくる。祈っている人々は声を出さない。形だけで祈る。言葉がない世界の祈り。
俺は人の流れに紛れて裏手に回り、見張りの目が薄い通路に入った。
――ここを通ったことがある。
十五話のあの日、ユキに連れられて面通しした、あの扉。
扉の紋様が淡く光って、許可で開く仕組み。
今日はあの扉を正面からは開けない。目立つ。見られる。名前に辿り着かれる。
俺は別の入口を探した。
神殿の横、供物が運び込まれる裏口。魔石や食料を運ぶ人間が行き来する場所。
そこは扉ではなく、低いアーチの通路になっていた。通路の上には紋様。許可の印。
俺は一歩踏み出しかけて止まった。
“拒否”の気配がある。
海の結界と同じ、ぬるりとした圧。触れたら戻されるタイプ。
――つまりここも許可制。
俺は息を吸って、心の中で小さなルールを追加した。
(俺は“ここにいるべき存在”として一歩だけ通れる)
世界が嫌がる感触が、わずかに揺らいだ。
足が通る。
たった一歩分だけ、通路の中へ入れた。
俺はすぐに二歩目を踏もうとして――やめた。
今は侵入が目的じゃない。シスター天使に会うのが目的だ。
そして神殿内で下手に能力を使うのは、噂が本当なら自殺行為だ。
俺は一歩だけ通って、通路の陰に身を潜めた。
中は薄暗く、石の床が冷え切っている。遠くで足音。布の擦れる音。
しばらく待つと、誰かがこちらへ近づいてきた。
柔らかな足音。
香りがする。花の匂い。祈りの香のような、甘い匂い。
俺は息を止めた。
現れたのは――金髪の女性だった。
天使。
見間違えようがない。人間と同じ形をしているのに、存在感が違う。背筋が伸びる。視線が勝手にそこへ吸われる。
修道服――シスター服のような黒と白の衣装。頭には白い布。長い金髪が背中に流れている。
表情は穏やかで、お淑やかな微笑み。
でも、その目は澄んでいて、底が見えない。
「こんにちは、転入者さん」
俺は背筋が凍った。
隠れていたのに、気配で分かったのか。あるいは――許可で、この通路に入った時点でバレているのか。
俺は一歩、通路の陰から出た。
「……噂のシスター様?」
女性はにこりと笑った。
「“様”は付けなくていいですよ。私はただの奉仕者です。……エリシアと申します」
名前はエリシア。
俺は頭の中で反芻した。覚えろ。こういう相手は名前が武器になる。
俺は警戒を隠しつつ、単刀直入に言った。
「結界を無効化してほしい」
エリシアは瞬きもせず、優しい声で言った。
「どうしてですか?」
「……帰りたいから」
俺の本音は半分だけだ。
帰りたい。だがそれ以上に、確かめたい。外側結界の正体を。
エリシアは首を傾げた。
「神が与えた土地を捨てる理由がありません」
優しい言い方なのに、内容が硬い。
拒否だ。
俺は一歩踏み込んだ。
「俺はここに来たくて来たわけじゃない。元の場所に戻りたい」
「戻った先で、あなたは幸せですか?」
……来た。
説教の入り口。
エリシアは微笑んだまま続ける。
「ここでは魔法を学べます。食べ物もあります。寮もあります。仲間もできます。外に何があるか分からないのに、どうしてそこまで“帰りたい”のですか?」
分かってる。
これはただの善意じゃない。
“帰りたい”という感情を弱めるための言葉だ。
この島が転入者を馴染ませる仕組みを持っているなら、神殿はその中心だ。
俺は深く息を吸い、頭を下げた。
「……お願いだ」
土下座しそうな勢いで頭を下げた。
プライド? そんなものはとっくに海に沈んだ。
俺は帰りたい。俺には約束がある。大翔との約束。妃愛の顔。ルカのダンジョン。――全部、あっち側にある。
エリシアはしばらく黙っていた。
やがて、くすっと笑った。
「……そういうところ、転入者さんは可愛いですね」
可愛いって何だ。褒めてるのか。からかってるのか。
エリシアはゆっくり言った。
「では、こうしましょう。もし私に勝ったら、あなたのお願いを聞いてあげます」
「勝つ?」
「はい。簡単です。私に“触れられたら”あなたの勝ち。どうですか?」
触れるだけ。
それなら一瞬で終わる。
俺は頷いた。
「いい」
エリシアは一歩下がり、手を胸の前で合わせた。祈りの形。だが声は出さない。
その瞬間、空気が変わった。
俺の皮膚がざわつく。
――範囲。
目に見えない円が広がる気配。通路の空気が少しだけ冷たくなる。
エリシアはにこっと笑った。
「では、どうぞ」
俺は勝ちを急いだ。
ここで余計なことをすると危険だ。俺は能力を使って、最短で終わらせる。
(エリシアの足元の床は、一瞬だけ滑る)
いつもの感覚で、ルールを追加する――はずだった。
だが。
何も起きない。
“手応え”がない。
発動する瞬間の、あの薄い抵抗感も、世界が揺らぐ感じも、ゼロ。
無音。
空振り。
俺は目を見開いた。
(……発動しない?)
エリシアが優しい声で言う。
「ここは神殿です。私が許可しない“異能”は通りません」
許可。
また許可だ。
俺の喉が乾いた。
つまり――この女が門番。
噂は本当だった。
俺の能力は、ここでは封じられる。
じゃあ俺はどうやって勝つ?
触れるだけだ。走って触れれば――。
俺は踏み込んだ。
だが次の瞬間、エリシアの周囲に薄い膜が生まれた気がした。
触れられない。
いや、触れようとすると距離が伸びる感覚。腕が届かない。空気が逃げる。真空の逆版みたいな“遠ざける”圧。
「……っ!」
俺は歯を食いしばった。
異能が封じられても、俺には魔法がある。
授業で一番“悪くなかった”魔法。
重力を上げて、相手の動きを奪う。
俺は両手を前に出し、魔石の温かさを思い出し、イメージを組み立てた。
(重く、落ちろ)
空気が震える。
エリシアの足元の空気が沈む――はずだった。
だが、エリシアはにこっと笑うだけで、何も困っていない。
「知ってます?」
エリシアは指先を軽く上げた。
「私も、魔法使えるんですよ?」
次の瞬間、俺の体が――動かなくなった。
床が重くなったわけじゃない。
俺の筋肉が命令を受け取らない。
手が上がらない。足が動かない。息だけが浅くなる。
エリシアが俺の前に歩いてくる。
余裕の足音。
俺は唇を噛んだ。天使は人間より身体能力も、精神も、頭も上だ。能力も封じられた。魔法も格が違う。
俺は勝てない。
エリシアは俺の頬にそっと手を添え、優しい笑顔のまま言った。
「負けたからには、相応の罰と躾が必要ですよね?」
「……っ、優しい顔で言う内容じゃ……」
声が震える。情けない。
エリシアは可哀想そうに目を細める。
「まあ、初めてなら可哀想です。今回だけ、“反省室”三十分で許してあげます」
「初回特典って何だよ……ガチャか……!」
「はい?」
「……なんでもないです……!」
エリシアは俺の腕を軽く掴んだ。軽く、だ。なのに俺は抵抗できない。人形みたいに引かれる。
通路を抜け、石の階段を降りる。地下へ。
空気が湿る。獣臭が混ざる。
「反省室って、何する場所なんだ……」
俺が震える声で聞くと、エリシアはにこやかに答えた。
「反省する場所です」
「具体性ゼロ!」
やがて鉄の扉が見えた。
扉の向こうから、唸り声が聞こえる。爪で床を引っ掻く音。低い咳みたいな声。
エリシアが扉を開けると――そこは檻だった。
広い部屋。石の床。周囲に柵。天井に薄い光が漂っている。
そして、中には魔物が大量にいた。
ただし、全部が弱っている。
足を引きずる。片目が潰れている。羽が裂けている。牙が折れている。どれも致命傷ではない。だが、動ける。襲える。
俺は息を呑んだ。
「……これ、反省室っていうより処刑室……」
エリシアは首を傾げた。
「死にませんよ。安全結界がありますから」
安全結界。
そう言いながら、彼女は扉の外に砂時計を置いた。三十分の砂。
「三十分、ここで落ち着いてくださいね。心の中で反省して、魔法の練習でもして」
「練習って……!」
エリシアは微笑んだまま、扉を閉めた。
ガチャン、と重い音。
鍵がかかる。
俺は一人。
弱った魔物がうごめく部屋に、一人。
――最悪だ。
魔物がこちらを見た。
目が赤い。理性がない。だが“獲物”は分かる。
数体がじりじり近づく。
俺は動けるようになっていた。さっきの拘束魔法は解除されたらしい。……つまりエリシアは、ここに俺を放り込むために動けなくしただけ。
舐められている。
俺は歯を食いしばった。
(能力は使えるか?)
俺は心の中でルールを追加しようとした。
(魔物は俺を襲えない)
――不発。
また手応えがない。
つまり、この部屋も神殿の敷地内だ。エリシアの許可圏内。異能は止まる。
俺は舌打ちした。
(魔法しかない)
目の前の魔物が飛びかかってくる。
俺は咄嗟に横へ跳び、床を蹴った。
重力魔法。
重くして動きを止める。昨日は“悪くなかった”。今度こそ――。
だが、イメージがぶれる。
床を重くするのか、空気を重くするのか、相手を重くするのか。
考えた瞬間、魔物の爪が頬をかすめた。
熱い。血が出た。
「……っ!」
俺は後退し、壁際に追い詰められる。
弱っているはずの魔物でも、数が多ければ詰む。
俺は必死に呼吸を整えた。
(落ち着け)
(これは殺しじゃない)
(安全結界がある)
(死なない――なら、練習できる)
エリシアの言葉が頭に刺さる。
反省室三十分。
罰と躾。
……くそ、俺は躾けられている。
だが今はそれを飲み込むしかない。
俺は手のひらを見た。
薄い紋様が残っている。羊皮紙の記号。文字の穴。
俺は床に指で線を引いた。
簡単な形――「日」。
すると魔物が、一瞬だけ動きを止めた。
怯えた、というより“理解できないもの”を見たときの硬直。
この世界の人間と同じ反応。
――魔物も文字を認知できない。
つまり魔物も、この箱庭の仕様の中の存在だ。
俺は息を呑みながら、線をすぐ消した。
今は武器にするには弱すぎる。でも、確信が増えた。
(ここは閉じた世界だ)
(魔物も含めて、全部が管理されている)
なら、俺の勝ち筋は――管理の穴を突くこと。
だがまずは目の前。
魔物がまた襲ってくる。
俺は目を閉じ、重力魔法のイメージを“一点”に絞った。
(相手の足元)
(足元の空気を落とす)
(足が沈む)
ぶれるな。余計なことを考えるな。
俺は掌を突き出した。
空気がぎゅ、と沈む感覚。
魔物の足が、ずぶりと床に沈んだように止まった。
「……効いた!」
俺は息を吸い、続けて範囲を広げる。
次の魔物も、次の魔物も、足が止まる。
完全に止めるのは無理でも、動きを鈍らせれば時間が作れる。
俺はその隙に後退し、距離を取る。
汗が背中を流れる。
魔法は消耗する。魔力が減るのが分かる。
だが、昨日よりは明確に“掴めている”。
なぜか。
理由は明白だ。
俺はさっき、エリシアと戦ったとき、魔法が効かなかったと感じた。
違う。
効かなかったんじゃない。
俺が“効かせられなかった”。
俺はあの時、恐怖で魔法を雑に撃った。相手が天使で、格が違うと決めつけて、最初から負ける前提で動いてしまった。
だから負けた。
(敗因は、“魔法無効化”と勘違いしたこと)
(エリシアは能力無効化だ)
(俺の異能は止められた)
(でも魔法は止められてない)
(止められてないのに、俺が止まってた)
それが敗因。
俺は魔物を重力で押さえつけながら、呼吸を整え、もう一度だけイメージを強化した。
(“重く”ではなく、“落とす”)
(落ちろ)
床が沈むような感覚が広がり、数体の魔物がまとめて動きを止めた。
俺は笑いそうになった。
怖いのに、楽しい。
自分で“できる”感覚が戻ってくる。
……これが、この島が転入者に与える快楽なのかもしれない。
成長の快感。
戦える快感。
外を忘れる快感。
俺はそれを噛み殺した。
(忘れるな)
(俺は帰る)
(この魔法は、そのために使う)
砂時計の砂が、だいぶ落ちていた。
三十分は長いようで短い。
魔物は弱っている。だからこそ、終わらない。じりじりと襲ってくる。俺は重力魔法を繰り返し、精度を上げ、範囲を調整し、魔力の配分を学ぶ。
俺の腕が震える。
汗が目に入る。
だが――生きている。
そして、練習できている。
最後の数分、俺は重力魔法をほぼ“意識せず”に出せるようになっていた。
手応えがある。世界が応答する。
異能とは違う。拒否されない。許可されている力。
……許可されている、という言い方が気に食わないが。
砂が落ち切った。
扉が開く。
眩しい光と一緒に、エリシアが入ってきた。
彼女は部屋を見回し、にこっと笑った。
「お疲れ様でした。反省できましたか?」
俺は荒い息のまま言った。
「……反省っていうより、修行」
「似たようなものですよ」
似てねえよ。
俺は立ち上がり、汗だくのまま彼女を睨んだ。
エリシアは少しだけ首を傾げる。
「その顔。反省した人の顔ではありませんね」
「そりゃそうだ」
俺は唇を噛んだ。
「……次は勝つ」
言ってしまった。
言った瞬間、エリシアの目が少しだけ細くなった。
嬉しそうに見えたのが、腹立つ。
「まあ。可愛い」
「可愛いで済ますな」
エリシアは微笑んだまま、俺の頬のかすり傷を見た。
「怪我は大したことありません。……安全結界があると言ったでしょう?」
「だったら最初から言えよ! 心臓止まるかと思った!」
「反省室なので」
「反省って便利な言葉だな……!」
エリシアはくすっと笑った。
そして、俺の手首――腕時計に視線を落とした。
ほんの一瞬。
微笑みが消えた。
俺の背中に冷たいものが走る。
だが次の瞬間、彼女はまた穏やかな笑顔に戻った。
「透さん」
初めて、彼女が俺の名前をはっきり呼んだ。
「神殿で“帰りたい”と叫ぶのは、良い子のすることではありません」
「……俺は良い子じゃない」
「知っています」
さらっと言うな。
エリシアは扉の外へ俺を促す。
「でも、帰りたい気持ちは悪いことではありません。……方法を間違えるのが悪い子です」
方法。
俺は息を吸った。
方法を間違えた。
異能が止まる場所で異能に頼ろうとした。
魔法が使えるのに、魔法を信じなかった。
そして――許可制の世界で、許可を取ろうとせずに殴り込んだ。
俺は拳を握りしめた。
(次は)
(次は、“方法”を変える)
エリシアは扉を閉める前に、にこっと笑って言った。
「次に暴れたら、反省室は三十分では済みませんよ?」
「初回特典、終了かよ……!」
俺のツッコミに、エリシアは本気で楽しそうに笑った。
その笑い声が、神殿の石壁に優しく反響する。
……優しいのに怖い。
この島そのものみたいな女だ。
俺は扉の外に出て、冷たい廊下の空気を吸った。
胸の奥で、約束の声がまた小さく響いた気がした。
――約束しただろ。
俺は目を閉じて、心の中で答えた。
(守る)
(だから待ってろ)
(次は、勝って通る)
そう、決めた。




