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第十六話 地図のない島、出られない海

 あの札に刻まれていた名前――神谷 翔。


 それを見た瞬間から、俺の胸の奥はずっと痛かった。


 痛みは時間が経てば薄れるはずなのに、薄れない。むしろ、呼吸するたびに違う角度で刺さってくる。


 父の顔は知らない。


 声も知らない。


 俺が知っているのは、孤児院に預けられたときに渡された“残しもの”の紙片と、そこに書かれていた名前だけ。


 その名前が、文字のない世界の神殿に、しかも“責任者”として刻まれていた。


 あり得ない。


 あり得ないのに、現実だ。


 俺はその夜、寮の簡素なベッドの上で、何度も天井を見上げた。


 寮は石造りの共同部屋だった。天井は高く、窓は小さい。灯りは魔法の光で、一定の明るさを保っている。電気じゃない。スイッチもない。


 同室には転入者が数人いた。皆、俺と同じように不安そうな顔をしていたが、泣き叫ぶ者はいない。逆に言うと、ここでは“泣き叫ぶ”ことすら珍しくないのかもしれない。


 俺は布団の中でポケットを探り、あの羊皮紙を指でなぞった。


 文字はない。記号だけ。


 だが触れると、凹凸がある。そこに“何か”が書かれている気がする。


 そして――胸元。


 俺は服の下に隠していたものを取り出した。


 腕時計。


 それは孤児院に預けられたとき、紙片と一緒に渡された“残しもの”の一つだ。


 古い。傷だらけ。電池はとっくに切れていて、針は止まっている。デザインも地味で、いかにも“どこにでもある”腕時計だった。


 俺はこれを、ずっと身につけてきた。


 理由は単純だ。これしか父の痕跡がないからだ。


 俺は文字が刻まれていないか、何度も確認した。裏蓋を開けようとしたこともある。だが、特別なものは何もなかった。……少なくとも、今までは。


 神殿で「神谷 翔」を見た瞬間。


 この時計が、ほんの一瞬だけ熱を持った気がした。


 気のせいだと思っていた。


 だが今、暗い寮の中で握っていると――秒針が、微かに震えた。


「……動くのか?」


 俺は息を呑んだ。


 震えるだけだ。進まない。だが“反応”している。


 あり得ない。電池がないのに。ここは魔法の世界だ。なら、魔力に反応している?


 俺は腕時計を握りしめたまま、目を閉じた。


(もしこれが父の仕掛けなら)


(もしこの時計が“鍵”なら)


(俺はこの世界に呼ばれたのか?)


 ――呼ばれた。


 いや、連れてこられた可能性もある。


 頭が冷えていく。


 俺は布団の中で、考えを整理した。


 今考えられる可能性は大きく二つ。


 一つ。


 現代の組織――綾香のような勢力、あるいは妃愛が所属する組織、あるいはもっと別の“能力者を中心に置く”勢力が、俺の能力を見るために強制的にここへ移動させた。


 俺の能力は厄介だ。疑われるほど弱くなる。だから直接鑑定できない。なら鑑定の仕組みが違う場所に連れて行く――そんな発想はあり得る。


 もう一つ。


 父――神谷 翔が残した仕掛けが発動した。


 高校生になった今、何らかの条件を満たしてしまったせいで、腕時計が“転移装置”として働き、俺をこの島へ呼んだ。


 そしてもしそれが本当なら、答えはシンプルだ。


 島の外に出れば帰れる。


 戻れる。


 俺の世界に。


 ルカも一姫も妃愛も、大翔もいる世界に。


 ――そう思った瞬間、心臓が少しだけ軽くなった。


 軽くなると同時に、怖くなる。


 希望は、叩き潰されるためにある。


 俺は自分に言い聞かせた。


(確認する)


(帰れるかどうか)


(帰れるなら、今すぐ帰る)


(帰れないなら……)


 考えない。


 帰れない未来は、今は見ない。


 翌日。


 魔法学園の授業は、相変わらず森だった。


 ユキは真面目に教える。サクラは元気に魔物を倒す。俺は“転入者”として、必死に真似をする。


 俺は昨日の戦い以来、ユキとサクラの中で“意外と動ける転入者”として扱われている気がした。


 それは俺にとって良くない。


 無能力者扱いされるほど強くなる俺の能力にとって、“有能そう”に見えるのはデバフだ。


 だがここでわざと無能を演じると、命に関わる。魔物がいる。バカをやると死ぬ。


 俺はバランスを取るしかなかった。


 授業の合間、ユキが言った。


「透さん、転入者は珍しくありません」


「……そうなのか」


 俺はわざと興味なさそうに返した。興味がある顔をすると疑われる。疑われると霧が薄くなる。……いや、この世界でも霧が薄くなるのか? 分からないが、癖は変えられない。


 ユキは淡々と続ける。


「この島は、転移が多いです。外から来るのは不自然ではありません」


「転移……」


 サクラが元気に言う。


「昨日も三人来ました! 泣いてました!」


「昨日も……」


 俺は喉が鳴るのを感じた。


 つまり俺の転移は特別じゃない。少なくとも表面上は。


 なら、組織が俺だけをここに飛ばしたとしても“転入者の一人”に紛れる。


 逆に言えば、父の仕掛けで俺が来たとしても“普通の転入者”として処理される。


 ……どっちにしても、ここは転入者を飲み込むシステムがある。


 俺は聞いた。


「転入者は、どうやって来るんだ?」


 ユキは一瞬だけ目を伏せた。


「……詳しくは知りません」


 サクラが口を挟む。


「気づいたら来てます!」


 気づいたら来てる。俺と同じだ。


 ユキが付け足す。


「転入者の多くは、島の外を知らないまま馴染みます」


 俺の背筋が冷えた。


「……外に出ないのか?」


 ユキは静かに言った。


「出ようとしても、出られません」


 来た。


 希望を叩く言葉。


 俺は平静を装いながら聞く。


「……どういう意味だ」


 ユキは言葉を選ぶように続けた。


「地図が流通していないんです。だから外への道が分からない。それに――」


 サクラが元気に言う。


「結界があります!」


 結界。


 俺はその単語を聞いて、胸がひゅっと縮んだ。


 ユキが頷く。


「森の奥に結界があります。島の外側にも、結界があると言われています」


 言われています、か。


 つまり見た者は少ない。あるいは、見て戻ってきた者しかいない。


 俺は笑って誤魔化した。


「結界って、そんな簡単に突破できるのか?」


 ユキが真面目に答える。


「簡単ではありません。だから転入者も、多くは諦めます」


 諦める。


 その言葉が、重い。


 俺は手首の腕時計に指を滑らせた。


 秒針が、微かに震えた。


 ……なら俺は、諦めない。


 父の名前がある。


 ここに来た理由がある。


 なら、出る方法もあるはずだ。


 授業が終わった後、俺は街へ向かった。


 目的は一つ。


 地図を買う。


 地図があれば、森の結界の場所が分かる。海までの距離が分かる。島の形が分かる。


 島の外へ出る道筋が描ける。


 俺は市場のような場所を歩き回った。店は絵で区別されている。魚の絵、肉の絵、布の絵、魔石の絵。


 地図の絵がある店を探すが、そんなものはない。


 俺は一軒、巻物の絵が描かれた店に入った。巻物なら地図がありそうだ。


 店主は老人で、目が細い。俺を見るなり言った。


「転入者か」


「……そうだ」


「巻物は絵だ。文字はない」


 俺は喉の奥が痛くなるのを感じた。


「地図は?」


 老人は肩をすくめた。


「地図? 絵なら描けるよ」


 俺は反射で言った。


「違うそうじゃない!」


 店主が目を丸くした。


「……何が違う」


 俺は歯を食いしばって、できるだけ冷静に言った。


「島の全体が分かるやつ。森の位置。海の位置。道の繋がり」


 店主は少し困った顔をした。


「それは神殿の許可がいる」


「許可?」


「地図は禁制品だ。持てば外へ出たくなる。外へ出ようとする者が増える」


 俺の背中が冷えた。


 文字禁止と同じ。


 情報統制。


 逃げ道を塞ぐためのルール。


「じゃあ、神殿に行けば見せてもらえるのか」


 店主は鼻で笑った。


「責任者に気に入られればな」


 責任者。


 神谷 翔。


 俺は拳を握った。


 だが正面から行ってどうなる? 父の名前が刻まれた場所へ、俺が“息子かもしれない”状態で近づくのは危険すぎる。


 俺は店を出た。


 地図が買えないなら――自分で探すしかない。


 森へ。


 結界へ。


 海へ。


 俺は一か八かで動くしかない。


 夕方。


 授業が終わり、ユキとサクラが寮に戻るのを見届けた後、俺は一人で森へ向かった。


 夜の森は危険だ。魔物が増える。だが人の目が減る。誰にも見られずに動ける。


 見られないのは、俺の能力的には良い。無能力者扱いされるのも良い。


 だが死ぬリスクが上がる。


 俺は自分に言い聞かせた。


(死ぬな)


(バレるな)


(出ろ)


 森の中を進む。


 昨日授業で通った道を外れ、さらに奥へ。


 木々が濃くなり、道が消える。


 そこで、腕時計が微かに熱を持った。


 秒針が、わずかに動いた気がした。


 ――方向を示している?


 俺は手首を掲げ、時計の針を見た。


 針が……北を指しているように見える。


 いや、北なんて分からない。だが何か“同じ方向”を指している。


 俺はその方向へ進んだ。


 しばらく歩くと、空気が変わった。


 耳が詰まるような感覚。


 目の前の景色が、ほんの少し揺れている。


 俺は足を止めた。


「……これか」


 透明な壁。


 いや、壁があるように見えるわけじゃない。


 だが、ここから先に進めない気配がある。


 俺は石を拾って投げた。


 石は空中で、ぴたりと止まった。


 止まったまま、揺れている。


 見えない壁に貼り付いた。


 結界。


 俺は息を呑んだ。


 ここを突破すれば、外へ――。


 だが突破する方法が分からない。


 魔法? 俺は使えない。


 なら、俺の能力だ。


 小さなルールを追加する。


 生命体を変えず、環境を変える。


 俺は目を閉じ、心の中で“追加”をイメージした。


(この結界は、俺が触れると一瞬だけ柔らかくなる)


 通れ。


 通れ。


 俺は手を伸ばした。


 指先が、冷たい水の膜に触れる感触。


 ぬるり、と沈む。


 俺は歯を食いしばり、肩まで押し込んだ。


 ――通った。


 結界の向こう側に、俺の腕が出た。


 成功だ。


 俺は一気に体を押し込んだ。


 結界が、背中を撫でるように通過した。


 息が漏れた。


「……行ける」


 希望が、喉の奥まで上がってくる。


 俺は走った。


 森を抜ける。


 木々が薄くなる。


 湿った風が頬を撫でた。


 ――海の匂い。


 俺は崖の上に出た。


 下に広がるのは、暗い海。


 月明かりが波に反射している。


 島の外へ続く海。


 俺は拳を握りしめた。


(帰れる)


(泳げば帰れる)


(腕時計が鍵なら、外へ出れば戻れる)


 無謀だ。夜の海を泳ぐなんて。だが他に手段がない。


 俺は服を脱ぎかけて、止まった。


 海の上に――薄い膜が見えた。


 いや、見えた気がしただけかもしれない。


 だが腕時計が熱くなる。


 俺は確信した。


 ここにもある。


 二つ目の結界。


 それでも、やるしかない。


 俺は服を脱ぎ、崖から海へ降りた。冷たい。息が止まりそうになる。


 俺は泳いだ。


 波が重い。夜の海は怖い。何かに引きずられそうになる。


 それでも腕を動かす。


 前へ。


 前へ。


 だが、しばらく泳いだところで――体が急に重くなった。


 水が鉛みたいに重い。


 腕が動かない。


 足が沈む。


 俺は必死に呼吸しようとして、口に海水が入った。咳き込む。喉が痛い。


「げほっ……!」


 前に進めない。


 いや、進めないだけじゃない。


 進もうとすると、逆に戻される感覚。


 波が同じ方向に押し返してくる。


 俺は必死に泳ぐ。


 だが、気づく。


 景色が変わらない。


 崖の位置が、ずっと同じだ。


 ……戻っている?


 俺は背筋が凍った。


 結界だ。


 透明な壁じゃない。


 “拒否”だ。


 世界が俺を外へ出さない。


 俺は震える腕で、結界に触れた。


 何もないのに、硬い。


 冷たい。


 そして、触れた瞬間に、腕時計が熱を持ち――秒針が激しく震えた。


 俺は歯を食いしばった。


(父の仕掛けなら、出られるはずだろ)


(組織の仕掛けなら、逃がす気がない)


(どっちだ)


 答えは、今は出ない。


 出ないが、結果だけは出た。


 出られない。


 俺は必死に岸へ戻った。体が震える。歯が鳴る。寒さだけじゃない。恐怖だ。


 砂浜に手をつき、咳き込みながら立ち上がった。


 空を見上げる。


 月が冷たい。


 その時、背後から声がした。


「……やっぱり」


 振り返ると、ユキが立っていた。


 彼女の顔は怒っていない。悲しそうだった。


「転入者さん、初めてじゃないです」


 ユキは静かに言う。


「みんな一度は外へ出ようとして、戻ってきます」


 俺の胸が、ぎゅっと潰れた。


 サクラも後ろにいた。心配そうな顔。


「透さん、死ぬところでしたよ!」


「……」


 俺は言葉が出なかった。


 出られない。


 地図も買えない。


 結界は二重。


 つまり、ここは箱庭だ。


 管理された島。


 転入者を受け入れ、学ばせ、祈らせ、魔石を集めさせ、外へは出さない。


 牢獄。


 そしてその牢獄の責任者の名が――神谷 翔。


 俺は濡れた髪をかき上げ、笑って誤魔化そうとした。


 だが笑えなかった。


 ユキが小さく言う。


「……責任者に見つかる前に戻りましょう。透さん」


 責任者。


 その単語が、胸を刺す。


 俺はうなずくしかなかった。


 寮へ戻る道すがら、腕時計は熱を持ったままだった。


 秒針が、微かに動く。


 まるで、何かをカウントしているみたいに。


 俺は手首を見つめた。


 裏蓋の縁に、今まで見えなかった極小の刻印が浮かび上がっている。


 文字じゃない。


 だが――日本語に近い形。


 俺は息を呑んだ。


 刻印は一瞬だけ現れ、すぐに消えた。


 読めたのは、たった一文字。


 「翔」


 俺の喉が鳴った。


 父の名前の一文字。


 腕時計は、父に繋がっている。


 そして俺は、出られない島にいる。


 逃げようとしたのに、世界に拒まれた。


 俺は夜の空を見上げた。


 星は綺麗だった。


 綺麗すぎて、怖かった。


 この世界は、俺を閉じ込めるために作られている。


 そんな気がしてならなかった。

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