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第十五話 文字のない街と、父の名前

目を開けた瞬間、まず鼻に入ってきたのは――土と草の匂いだった。


 次に耳。遠くで人の声がする。ざわざわとした雑踏。風が布をはためかせる音。どこかで鐘のような金属音が鳴った。


 俺は反射で起き上がろうとして、地面が硬いことに気づいた。


「……は?」


 俺がいたのは、ベッドでも机でもない。アパートの床ですらない。石畳だ。体の下に広がっているのは、古い石畳の道。


 空を見上げると、青い。やけに澄んでいる。電線がない。ビルがない。看板の電飾もない。


 代わりに、木造っぽい家、石造りの壁、赤茶色の瓦。屋根の形が違う。路地が狭い。馬車――いや、馬車みたいな荷台を引く何かが通り過ぎた。


 俺は立ち上がり、周囲を見回す。


 ……現代じゃない。


 中世。


 そうとしか言いようがない。


 心臓が嫌な音を立てた。これ、夢か? いや、夢にしては匂いがある。風が冷たい。頬に触れる空気が現実だ。


 俺はポケットをまさぐった。


 制服……じゃない。いつもの服でもない。なぜか、簡素なシャツとズボン。布が荒い。靴も硬い革靴っぽい。


 まるで、最初からこの世界の住人みたいな格好。


 ポケットの感触に、紙が触れた。


 俺は引っ張り出した。


 一枚の紙。


 ……いや、紙というより薄い羊皮紙みたいな質感。端が少し黄ばんでいる。


 そこには、文字が――ない。


 代わりに、奇妙な記号が一つ。


 丸の中に、点と線が絡み合ったみたいな紋様。どこかで見た気がする。


 俺は喉を鳴らした。


(特別実績の……???)


 あの時、スマホに出た「???」の通知。あれも文章じゃなく、何かの“システム感”があった。説明できないが、似ている。


 紙を裏返す。


 裏にも文字はない。


 ただ、指で触れるとほんの少し凹凸がある。目では見えないのに、何かが刻まれている感じがする。


 俺は紙を握りしめた。


(これ、出られるってことか?)


 どこかで読んだ覚えがあるような――いや、読んだことはない。なのに分かる。


 “能力を使え”。


 そう言われている気がした。


 俺は眉をひそめる。


「能力……」


 俺の能力は“無能力者だと思われるほど強くなる”。そして現状は“小さなルールを追加できる程度”。しかも生命体に関わる改変に効きやすい。


 だが今の俺は――誰にも知られていない。ここでは、俺を知る人間はいない。


 つまり、俺は圧倒的に無能力者扱いされる。


 条件は、最高だ。


 ……だからこそ怖い。


 条件が良すぎる時は、罠がある。


 俺は紙をポケットに入れ、歩き出した。まずは情報収集。状況把握。現代の常識で動いたら死ぬ。


 路地を抜けると、広い通りに出た。


 人が多い。


 服装も中世っぽい。布のチュニックみたいなの、マント、革のベルト。肌の色や顔立ちもバラバラで、日本人っぽい人もいれば、西洋っぽい人もいるし、見たことのない混ざり方をしている。


 観光地のコスプレイベントじゃない。空気が違う。視線が違う。


 俺は通りの端に寄り、周囲を観察した。


 そこで、妙なことに気づいた。


 ……文字が、ない。


 店が並んでいるのに、看板がない。いや、ある。あるけど、絵だ。


 パンの絵。剣の絵。薬草の束の絵。樽の絵。すべて絵で“何の店か”を伝えている。


 布の垂れ幕もあるが、そこにも模様しかない。文字の列が一つもない。


 俺は背筋が冷えた。


(世界から消えてる?)


(それとも、誰も使わない?)


(使わないじゃなくて……使えない?)


 俺は無意識に、自分のスマホを探しそうになって、やめた。ない。あるわけがない。


 人の流れに沿って歩くと、広場に出た。


 広場の中央に、巨大な建物がある。神殿。石造りで、柱が太い。上には尖塔。扉が重そう。あの手の建物は現代日本にない。


 そして広場には、膝をついて祈る人々がいた。


 大勢。


 通りを埋めるほど。


 皆、同じ方向を向いて、頭を垂れている。


 祈りの言葉は聞こえない。いや、口は動いているが、言葉が音になっていないような――不思議な祈り方をしている。


 代わりに、彼らは手で形を作っていた。指を組んで、胸の前で紋様をなぞる。言葉ではなく“形”で祈っている。


 俺は立ち尽くした。


「……ここ、日本じゃない」


 当たり前だ。


 街並みが違う。人種も違う。神殿も違う。


 なのに。


 俺が呟いた言葉は――日本語だった。


 そして周りの人間は、俺の言葉に驚かない。


 何だこれ。


 言語が通じてる。


 俺は喉が乾いた。


 その時。


「はじめまして」


 背後から、柔らかい声がした。


 振り返ると、そこにいたのは――天使少女だった。


 銀髪。


 光を反射して白く見える髪。肌も白い。目は薄い青。背中に翼は……見えない。だが、雰囲気が天使だ。空気が違う。


 制服みたいな服を着ている。白と紺のライン。胸元に紋章。しかもその紋章が、俺の紙の記号に似ている。


 少女は首を傾げた。


「転入者ですか?」


 転入者。


 その単語が自然に耳に入るのが怖い。


「……え?」


 少女は同じ言葉を繰り返した。


「転入者。……外から来た人ですよね?」


 俺は口を開き、閉じた。


 外から来た。


 俺は外から来た。


 ここは外だ。


 質問に答えないと不審者になる。不審者になれば疑われる。疑われれば霧が薄くなる。……いや、ここで霧が薄くなると何が起きる? 分からない。


 分からないから怖い。


 俺はとりあえず、頷いた。


「……はい。転入者です」


 嘘ではない。


 少女はぱっと笑った。


「やっぱり。じゃあ寮に案内しますね」


「寮?」


 寮って何だ。転入者用の施設でもあるのか。


 少女は当然のように頷いた。


「はい。転入者はまず寮で手続きをします。……あなた、迷ってますよね?」


 迷ってる。迷ってるに決まってる。


 俺は一瞬だけ迷ってから、少女の後をついていくことにした。ここで一人で動くより、案内役がいた方が生存率が上がる。


 歩きながら、俺は周囲の観察を続ける。


 やはり文字がない。誰も読んでいない。書いていない。祈りも“形”だ。


 俺は耐えきれず、少女に聞いた。


「……ここ、文字がないのか?」


 少女はきょとんとした。


「もじ……?」


 俺の背中に冷たい汗が流れた。


 “もじ”という単語が通じない。


 いや、通じてるのに意味が通じてない。


 俺は言い換えようとして、詰まった。文字を説明するには文字が必要だ。


 俺は仕方なく、別の角度から言った。


「……看板とかに、名前とか書かないのか?」


 少女は首を傾げた。


「なまえ? 書くって……描くことですか?」


 描く。


 その言葉に、俺は一縷の希望を見つけた。


「……描けるのか」


「描けますよ」


 少女はあっさり言って、歩きながらポケットから小さな紙束を取り出した。紙束というより、薄い板に近い。そこに、ペンのような棒を当てる。


 ……インクじゃない。


 光が走った。


 少女が何かを“なぞる”と、板の上に線が浮かび上がる。魔法みたいだ。いや、魔法だ。


 少女はさらさらと線を描いていく。


 数秒で、建物の絵が出来上がった。


 四角い建物。屋根。窓。扉。寮の絵。


 少女は得意げに見せてくる。


「寮はこんな感じです。描けますよ」


「違うそうじゃない!」


 俺のツッコミが飛び出した。


 少女がびくっとする。


「えっ……?」


「いや、俺が言いたいのは……文字だよ文字。ほら、こういう――」


 俺は空中に指で“文字っぽい線”を描こうとして、何も描けない自分に気づいた。俺は普段、文字を書く時に“形”を意識していない。無意識に書いている。


 書けない。


 口で説明できない。


 俺は歯を食いしばった。


 少女は困った顔をしてから、ぽつりと言った。


「……管理者なら、知ってるかも」


「管理者?」


 少女は少し声を落とした。


「文字は禁止されてるんです」


 俺の心臓が跳ねた。


「禁止?」


 少女は頷いた。


「はい。……だから“もじ”って言うのが何か、私はよく知らないです。聞いたことはあるけど、意味までは」


 禁止。


 世界から消えたんじゃない。


 誰かが消した。


 ルールとして消した。


 俺の頭の中に、危険な連想が走る。


(誰が?)


(管理者?)


(管理者が、文字を禁止した?)


(なぜ?)


 少女は何でもないことのように続けた。


「ここでは、魔法しか使えないから」


「……魔法?」


 俺は思わず聞き返した。


 少女は逆に驚いた顔をする。


「え、転入者なのに知らないんですか? 当たり前でしょ。魔法は生活の基本です」


 当たり前。


 当たり前の圧がすごい。


 俺は喉を鳴らしながら、ついていくしかなかった。


 寮、とやらは神殿の裏手にあった。神殿に隣接する施設。石造りの建物。門があり、制服を着た天使少女たちが出入りしている。


 その中に入ると、空気が変わった。


 神殿の外は雑然としていたのに、ここは妙に整っている。清潔。規則。秩序。


 管理されている。


 少女は入口の前で立ち止まり、俺を振り返った。


「私はユキです。……あなたの名前は?」


 ユキ。


 いかにも日本語っぽい名前なのに、この世界に馴染みすぎている。


「透」


 俺は苗字を言わずに答えた。ここでも苗字は危険だ。どこで誰に繋がるか分からない。


 ユキは頷いた。


「透さん。じゃあ、寮の手続きはあとで。魔法学園の授業が始まるから、先に行きます」


「……学園?」


「はい」


 ユキは当然のように言う。


「転入者はまず授業に参加します。基礎を覚えないと危ないから」


「どこで?」


 俺が聞くと、ユキは一言で答えた。


「森で」


「どこに!?」


 俺の声が裏返った。


 ユキは首を傾げる。


「森ですけど」


「授業が森って何だよ!」


 俺のツッコミが止まらない。ここ、真面目にヤバいのに、ツッコミしか出ない。


 ユキは真面目な顔で言った。


「魔物を狩って魔石を集めないと、魔法も上手くならないし、生活もできません。授業は実地です」


「実地ってレベルじゃねえ」


 俺が言った瞬間、後ろから元気な声が飛んできた。


「ユキセンパイ! いきますよ!」


 振り返ると、そこにいたのはもう一人の天使少女。


 髪が白とピンクが混ざった色。ふわっとした髪型。目が大きい。元気がそのまま形になったみたいな子。


 少女はユキを見上げて言った。


「遅刻します! サクラ待ってますから!」


 ユキが苦笑いする。


「分かった、サクラ。今行く」


 サクラ。


 また日本語っぽい名前だ。なのに誰も違和感を持たない。


 サクラは俺を見て、にこっと笑った。


「転入者さんですか?」


 ユキが頷く。


「そう。透さん」


「透さん! よろしくです!」


 距離が近い。


 天使少女は距離が近いのが仕様なのか? 一姫だけじゃなかった。


 俺は反射で距離を取ろうとして、取れない。周りがもう学園のテンポで動いている。


 ユキとサクラに挟まれて、俺は寮の門を出た。


 神殿の裏手の道を進むと、街の外に出る門があった。そこから先は木々が増える。土の匂いが強くなる。


 森。


 本当に森だ。


 ユキが歩きながら言う。


「透さん、魔法は使えますか?」


 俺は一瞬迷った。


 使えるわけがない、と言いたい。だが“転入者が魔法を使えない”のは不自然かもしれない。疑われる。


 疑われれば――。


 俺は喉を鳴らし、曖昧に答えた。


「……まだよく分からない」


 ユキは頷いた。


「じゃあ基礎から。転入者は最初、誰でもそうです」


 助かった。ここでも“初心者枠”がある。


 サクラが元気に言う。


「魔石いっぱい集めましょう! 魔石がないと寮のご飯も増えません!」


「生活直結かよ」


 俺は呟いた。


 森に入ると、空気が一段冷たくなった。木々が視界を遮る。鳥の声。虫の音。遠くで、何かが枝を折る音。


 ユキが手を上げて止まる。


「……来ます」


「何が」


 俺が聞いた瞬間、茂みが揺れた。


 小さな影が飛び出す。


 犬……いや、犬より目が赤い。牙が長い。体が妙に黒い。魔物。


 サクラが先に手を伸ばした。


 指先に光が集まる。


 次の瞬間、火の矢みたいなものが飛んだ。


 魔物が悲鳴を上げて倒れた。


「うわ……」


 俺の声が漏れた。


 本物だ。


 ゲームじゃない。演出じゃない。火の熱が空気を揺らした。焦げた匂いがする。


 ユキは淡々と近づき、魔物の胸元から小さな石を取り出す。


 赤い石。脈打つように光っている。


「魔石」


 ユキが言う。


 サクラが胸を張る。


「これでご飯が増えます!」


 ユキが小さく笑った。


「あと授業の点数も上がる」


「点数!!」


 サクラがさらに燃える。元気すぎる。


 俺は立ち尽くしながら、ふと気づく。


 この世界の人間は、当たり前に魔法を使う。


 当たり前に魔物を狩る。


 当たり前に魔石を集める。


 当たり前に文字がない。


 当たり前に日本語が通じる。


 当たり前の中に、異常が混ざっている。


 俺は自分のポケットの紙を思い出した。


 “能力を使え”。


 ここで能力を使えば出られるのか?


 それとも能力を使わせるのが目的か?


 俺は慎重に周囲を見た。


 ユキとサクラは俺を疑っていない。転入者として扱っている。無能力者扱いに近い。つまり俺の能力条件は満たされやすい。


 ……だから、罠だ。


 俺は口を開いた。


「ユキ。転入者って……他にもいるのか?」


 ユキが頷く。


「います。定期的に来ます。多い時は一日に数十人」


「多いな」


 サクラが口を挟む。


「転入者さんは大体すぐ慣れますよ! たまに泣きますけど!」


 泣く、って軽く言うな。


 俺はさらに聞く。


「転入者は、どこから来るんだ」


 ユキは少しだけ目を逸らした。


「……外から」


 それだけ。


 深掘りは禁物だ。禁物な匂いがする。文字禁止と同じ匂い。


 俺は頷いて話題を切り替えた。


「管理者って、何だ」


 ユキがぴくっと反応した。


「……あまり口にしない方がいいです」


「禁句?」


「はい」


 サクラも真剣な顔で頷いた。


「管理者って言うと、叱られます!」


 叱られる。誰に?


 俺は喉が鳴るのを感じた。


 この世界は、誰かが管理している。


 管理者がいる。


 文字を禁止したのも管理者。


 転入者を受け入れるのも管理者。


 魔法学園を森に連れていくのも管理者。


 俺は、何かの実験に放り込まれた可能性が高い。


 そして、その実験の中心に俺がいる可能性が高い。


 俺は歯を食いしばりながら、歩いた。


 授業は、本当に“森での狩り”だった。


 ユキが魔法の基礎を教え、サクラが補助し、俺は見よう見まねで手を動かす。


 ユキは言う。


「魔法はイメージと代価。代価は魔力。魔力は魔石や祈りで補充できます」


 祈り。


 あの広場の祈りが、魔力補充?


 サクラが元気に言う。


「祈ると元気になります!」


「宗教とバフが直結してるのかよ」


 俺は呟く。誰もツッコまない。


 ユキは俺の手に小さな魔石を握らせた。


「握って、温かさを感じてください」


 俺は握る。石が微かに温かい。心臓みたいに脈打つ。


「それを、指先に流すイメージ」


 俺はイメージする。


 指先に熱が集まる気がする。


 ……集まった気がするだけで終わった。


 何も起きない。


 サクラが首を傾げる。


「あれ? 出ない」


 俺は笑って誤魔化した。


「……まだ慣れてない」


 ユキは真剣に言う。


「焦らなくていいです。転入者には“適応時間”があります」


 適応時間。


 まるでゲームのチュートリアルだ。


 俺は内心で思った。


(これは、俺に魔法を覚えさせるための場所か?)


(でも俺は超能力者だ)


(魔法を覚えたら、何が変わる?)


(俺の能力が、ここで別の形になる?)


 嫌な予感がする。


 その時、森の奥から低い唸り声がした。


 ユキの表情が引き締まる。


「……大きいのが来ます」


「え、やばいやつ?」


 サクラが目を輝かせた。


「やばいやつです! 点数高いです!」


「点数で測るな」


 俺のツッコミが虚しい。


 茂みが割れた。


 出てきたのは、熊みたいな魔物だった。黒い毛皮。目が赤い。口から白い息。筋肉が厚い。


 ユキが手を上げる。


「サクラ、右。透さん、後ろに」


「後ろに、って」


 俺が言った瞬間、熊魔物が突っ込んできた。


 地面が揺れる。


 俺は反射で飛び退いた。運動神経は普通だが、今の身体は軽い。現実より動ける。


 ユキが氷の槍を放つ。サクラが火球を投げる。魔物が吠える。


 ……本当に魔法だ。


 俺は後ろに下がりながら、ポケットの紙に触れた。


 “能力を使え”。


 ここで使えってことか?


 俺が無能力者扱いされている今なら、能力強度は上がる。


 小さなルールを追加できる。


 生命体に関わる改変が効きやすい。


 例えば――この熊魔物に関する小さなルール。


 (こいつは、俺にだけ当たらない)


 そんなルールが追加できたら最高だ。


 だが“生命体に関わる”改変は、世界に与える影響がデカい。ここが実験場なら、なおさら記録される。誰かに見られる。管理者に気づかれる。


 俺は歯を食いしばった。


(使うな)


(でも死ぬ)


(死ぬよりマシって言えない)


 ユキが叫ぶ。


「透さん! 逃げて!」


 逃げて、って。俺は転入者だ。弱い。無力。そう扱われるほど、俺の能力は強くなる。


 ……皮肉だ。


 サクラが叫ぶ。


「ユキセンパイ! 魔力が!」


 魔力切れ。


 やばい。


 俺は決めた。


 小さく、ルールを足す。


 目立たない形で。


 生命体を直接変えず、状況を変える。


 俺は息を吸って、心の中で“追加”をイメージした。


(この森の地面は、俺が踏むと一瞬だけ滑りやすくなる)


 意味不明に見えるが、狙いはある。滑りやすくなれば――魔物の突進の軌道をズラせる。俺が誘導して、転ばせる。


 俺が無能力者扱いされているほど、こういう小さなルールは通る。


 通れ。


 俺は走った。


 魔物の前を横切り、わざと視界に入る。


 熊魔物が俺に向きを変える。突進。


 俺はギリギリで避ける。足裏が一瞬だけ滑った。だがそれが逆に加速になった。体が流れるように横に逃げる。


 熊魔物は止まれず、滑って木に激突した。


 ドン、と鈍い音。木が揺れる。


 ユキが即座に氷槍を刺し、サクラが火球を叩き込む。


 魔物が倒れた。


 森が静かになる。


 俺は息を切らしながら立ち尽くした。


 ……通った。


 ルールが通った。


 誰にも気づかれた気配はない。たぶん。


 ユキが駆け寄ってくる。


「透さん、大丈夫ですか?」


 俺は笑って誤魔化した。


「……なんとか」


 サクラが興奮して言う。


「すごい! 転入者さんなのに、勇気あります!」


 勇気じゃない。必死だ。


 ユキが熊魔物の胸元から大きな魔石を取り出した。青く光る石。


「……これ、神殿に納めましょう。責任者に報告が必要です」


「責任者?」


 俺はつい聞いた。


 ユキは頷く。


「はい。神殿の責任者に魔石を渡して、今日の授業の記録を提出します」


 記録。


 文字がないのに記録?


 俺は喉の奥が冷たくなるのを感じた。


 サクラが元気に言う。


「責任者さん、こわいですよ! でもやさしいです!」


 怖いのに優しい。矛盾が怖い。


 神殿に戻ると、広場はまだ祈りの人々で埋まっていた。


 ユキとサクラは慣れた様子で人をかき分け、神殿の裏手の通路へ俺を連れていく。


 裏は静かだった。空気が重い。石の壁が冷たい。祈りの音が遠い。


 通路の先に、ひとつの扉があった。


 扉には紋様。俺の紙の記号と同じ系統の形。


 ユキが小声で言う。


「ここから先は、責任者の区域です。透さんは本当は入れません」


 俺は足を止めた。


「なら俺は――」


 ユキは首を振る。


「でも、転入者は例外です。初回だけ、責任者が面通しします」


 面通し。


 それはつまり、管理されるということだ。


 俺の背中が冷えた。


 ユキが扉の前で手をかざすと、紋様が淡く光った。鍵が開く音がしたわけではない。扉そのものが“許可”で開く。


 ユキは扉を少しだけ開け、俺に言った。


「……失礼がないように」


 俺は頷いた。


 中に入った瞬間、空気がさらに変わった。


 広い部屋。石の床。天井が高い。中央に祭壇のような台。壁には絵が並んでいる。絵で歴史を伝えているのかもしれない。


 そして――部屋の奥に、人影がある。


 だが距離があって顔は見えない。光の加減で逆光になっている。


 ユキが膝をついた。サクラも膝をついた。


「魔石を納めに参りました」


 ユキが言う。


 奥の人影が、ゆっくり動いた。


「……よい」


 低い声。


 俺は背筋を伸ばした。頭を下げるべきか? でも下げすぎると弱く見える? ここは弱く見えた方がいい? 俺の能力的には弱い方がいいが、弱いと管理される。詰みだ。


 俺は結局、軽く頭を下げた。


 責任者が近づいてくる気配がする。


 その時、俺の視界の端に――小さな板が入った。


 祭壇の横に置かれた、札のようなもの。


 絵じゃない。


 模様でもない。


 そこだけ、何かが違う。


 俺は無意識に目を向けた。


 ……線がある。


 細い線が並んでいる。


 俺は息を呑んだ。


(文字……?)


 禁じられているはずの“文字”。


 俺の目だけが、それを文字として認識している気がした。周りのユキもサクラも、そこを見ていない。気づいていない。


 俺はゆっくり近づく責任者の気配を背中に感じながら、視線だけで札を追った。


 そして、その札に書かれていた“名前らしきもの”を、俺は読んでしまった。


 日本語だった。


 あり得ない。


 この世界で唯一、そこだけ日本語で――


「神谷 翔」


 喉が勝手に音を出しそうになって、俺は噛み殺した。


 神谷 翔。


 その名前は、俺が五歳で孤児院に預けられた時に、父親からの残しものとして渡された紙片に書いてあった名前だ。


 父の名前。


 顔は知らない。


 声も知らない。


 俺が知っているのは、残しものに書かれた“名前”だけ。


 俺の胸が、痛いくらいに締め付けられた。


(なんでここに)


(なんで日本語で)


(なんで……神殿責任者の札に)


 責任者の声が近くで響いた。


「転入者よ」


 俺は弾かれたように顔を上げた。


 逆光の中、責任者の顔はまだ見えない。だが、その声だけは妙に聞き覚えがあるような気がした。


 気のせいだ。俺は父の声を知らない。


 知らないのに。


 俺の心臓は、今にも壊れそうなほど鳴っていた。


 俺のポケットの中で、あの羊皮紙が熱を持った気がした。


 “能力を使え”。


 “出られる”。


 いや、違う。


 これは出られるかどうかじゃない。


 ここは、俺が“入れられた”場所だ。


 誰かが、俺をここに呼んだ。


 禁じられた文字で、父の名前を掲げて。


 俺は唇を噛み、声にならない声で呟いた。


(……嘘だろ)

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