第二章 蟹の子 第三話 蟹澤
剛は南へ戻ることにした。
理由は簡単だった。
ほかに仕事がなかった。
昼前、主任のランドクルーザー70に荷物を放り込んだ。
M4。
弾薬。
着替え。
工具。
それでほとんど全部だった。
「決めたか」
主任が訊いた。
「金がない」
「正直でよろしい」
「仕事は?」
「南へ戻ってからだ」
「ないのかよ」
「探すんだよ」
「俺と同じじゃねえか」
「だから乗せてやるんだろ」
剛は助手席へ乗った。
車は昼前に町を出た。
*
南へ向かう道は、昨日通った道とは違った。
幹線道路と呼ばれているが、舗装が残っているところのほうが少ない。
ところどころに検問所がある。
制服を着た男がいるところもあれば、何の制服か分からない男が立っているところもあった。
主任はそのたびに窓を開けた。
煙草。
水。
紙幣。
相手によって渡すものが違った。
「料金所みたいだな」
剛が言った。
「料金所だよ」
「領収書は?」
「欲しいか?」
「経費で落とせるなら」
「お前、十九だよな?」
「何回訊くんだよ」
主任は笑った。
午後になると、道路は平地へ降りた。
空気がさらに熱くなった。
窓を開けても風が熱い。
車内には砂と煙草の匂いが溜まった。
剛は眠った。
眠れるときに眠る。
それも三年間で覚えた。
*
目を覚ましたとき、車は止まっていた。
「何」
「休憩」
「どこ」
「町」
剛は外を見る。
町というより、道路に建物が集まっただけだった。
給油所。
食堂。
雑貨屋。
タイヤを積み上げた修理工場。
屋根の下に古い冷蔵庫が置いてある。
「何分」
「三十分」
剛は車を降りた。
左腕を伸ばす。
義手の肘が動く。
問題ない。
食堂へ入った。
肉を焼いた匂いがした。
何の肉かは訊かなかった。
訊いても答えが信用できるとは限らない。
パンと肉。
ぬるい水。
食べられればいい。
主任たちは奥のテーブルで何か話していた。
剛は一人で食べた。
食べ終わると、店の外へ出た。
煙草は吸わない。
することがない。
隣の雑貨屋へ入った。
水を二本。
乾燥した果物。
電池。
店主が卓上の古い計算機を叩いた。
剛は金を払った。
紙袋を左手で受け取る。
今度は落とさなかった。
店を出ようとした。
「Kanizawa?」
後ろから声がした。
剛は止まった。
身体が先に反応した。
右手が腰へ動く。
途中で止めた。
振り返る。
店の奥に男がいた。
六十前後。
もっと若いかもしれない。
日に焼けた顔は、年齢を分かりにくくしていた。
薄い灰色のシャツ。
擦り切れたズボン。
店の商品を運び込んでいたらしく、足元に段ボール箱がある。
男は剛の胸元を見ていた。
正確には、その向こうだった。
店の外。
車の助手席に剛の荷物が置いてある。
その上に防弾ベスト。
小さな布片が縫いつけてあった。
KANIZAWA。
GHSCにいたころから使っているものだった。
姓だけ。
「それがどうした」
「日本人?」
男の英語はたどたどしかった。
「ああ」
男の表情がわずかに変わった。
「Makoto?」
剛の右手が止まった。
店の音が遠くなった。
冷蔵庫のコンプレッサー。
外を走る車。
主任たちの笑い声。
「何で、その名前を知ってる」
男は剛を見る。
左腕を見る。
また顔へ戻る。
すぐには答えなかった。
英語でどう言えばいいのか考えているらしい。
「お前……息子か?」
「蟹澤誠の息子だ」
男は黙った。
剛は待った。
三年間で慣れた。
この間にも。
蟹澤。
誠。
その名前を出したあとの、わずかな間。
相手が何を知っているのか考える時間。
あるいは、どういう顔をすればいいのか決める時間。
裏切り者。
汚職。
横流し。
民間人の情報を売った。
会社の金を盗んだ。
仲間を危険に晒した。
剛はいろいろ聞いた。
面と向かって言われたこともある。
聞こえるように囁かれたこともある。
だから先に言うようになった。
蟹澤誠の息子だ。
言いたいなら言え。
そのほうが早い。
男はまだ何も言わなかった。
「それで?」
剛が言った。
少し強い声になった。
「親父が何した」
男の眉が動いた。
「何?」
「知ってるんだろ」
男は剛の言葉を頭の中で組み直すように、少し間を置いた。
「知っている」
「だったら言えよ」
男は剛を見つめた。
敵意はなかった。
それが逆に分からなかった。
「……そうか」
男は言った。
また言葉を探した。
「お前、生きていたか」
「……俺が?」
「そう。死んだと、聞いた」
「誰から」
男は困った顔をした。
「人から」
「誰だよ」
「名前、知らない。聞いた。三年前」
剛は男の左手を見る。
嘘をついているようには見えない。
それだけでは何の証拠にもならない。
「親父は?」
今度は男が訊いた。
「親父は死んだ」
男が目を閉じた。
短く。
本当に短くだった。
「……そうか」
「三年前だ」
「それは知っている」
「俺が死んだってのも?」
「そう聞いた」
「誰から聞いたかは知らない」
「知らない」
男は申し訳なさそうに首を振った。
「話だけ。誠が死んだ。息子も、たぶん死んだ」
剛は左腕を見る。
男も見た。
「だから、驚いた」
「親父を知ってたのか」
「知っていた」
「GHSC?」
男には通じた。
すぐ首を振った。
「違う」
「軍?」
「違う」
「じゃあ何だ」
男は黙った。
店主を見る。
店主は興味がないらしく、古い計算機を叩いている。
男は剛へ顔を戻した。
「友人……」
一度そう言った。
しかし自分で首を振った。
「違う。友人ではない」
「じゃあ?」
「誠は……」
男はそこで止まった。
右手をわずかに動かした。
何かを説明したいらしい。
だが、それに合う英単語が見つからない。
「誠は、私を助けた」
剛は聞き取れなかった。
言葉が分からなかったわけではない。
「何て?」
「誠は、私を助けた」
男は一語ずつ確かめるように繰り返した。
「私を。それから、家族」
剛は何も言わなかった。
男はさらに何か言おうとした。
何度か口を開いた。
結局、簡単な言葉を選んだ。
「誠は、いい人だった」
剛の左手から紙袋が落ちた。
水のボトルが一本、床を転がった。
男が拾おうとした。
「触るな」
思ったより強い声が出た。
男が止まった。
剛はしゃがんだ。
右手でボトルを拾う。
紙袋へ戻す。
左手で持ち直した。
「……悪い」
男は何も言わなかった。
「義手なんだ」
訊かれてもいないのに言った。
「たまに落とす」
男は左腕を見た。
「知っている」
剛は顔を上げた。
「何を知ってる」
男は質問を理解するまでに少し時間がかかった。
「腕?」
「ああ」
「お前、撃たれた」
剛は動かなかった。
「誰に聞いた」
「分からない」
「またそれか」
「本当に、分からない」
男は両手を少し広げた。
「三年前。いろいろ話、来た。誠、死んだ。息子、撃たれた。死んだかもしれない」
「誰の間で」
男は首を傾げた。
剛は言い方を変えた。
「誰と、その話をした?」
今度は通じた。
「人。誠を知る人」
「何人」
「分からない。少し」
「そいつらは今どこにいる」
男は首を振った。
「知らない。いなくなった人、多い」
「死んだ?」
「死んだ人も。逃げた人も」
男は店の外を見た。
それ以上はここで話したくないらしい。
「誠のこと、知りたいか?」
剛はすぐには答えなかった。
「何を知ってる」
「全部は知らない」
「じゃあ何を」
「少し」
男は親指と人差し指をわずかに開いた。
「少しだけ」
「ここで話せ」
「ここ、駄目」
「なんで」
男は言葉を探した。
「人、多い」
「それだけ?」
男は剛を見る。
「それで十分」
今度の英語だけは、妙にはっきりしていた。
剛は男を見る。
知らない男について行く。
馬鹿がやることだった。
それも、父親の名前を出した知らない男に。
「どこへ行く」
「私の家」
「遠い?」
「車で十分くらい」
「車?」
男は店の裏を指した。
古いカローラが停まっている。
「嫌なら、来なくていい」
「俺を呼び止めたのに?」
男は質問の意味を考えた。
「名前を見た」
店の外にある防弾ベストを指す。
「Kanizawa」
「それだけ?」
「それだけ」
剛は黙った。
三年間。
その名前は、剛にとって先に殴られるための名前だった。
名乗れば相手の目が変わる。
誠の息子だと分かれば、もっと変わる。
だから殴られる前に構えた。
構えることには慣れた。
殴り返すことにも。
だが。
「誠は、いい人だった」
そんな言葉への構え方だけは、
剛は知らなかった。




