第二章 蟹の子 第四話 PERSIMMON
主任は嫌な顔をした。
「知らない男について行く?」
「ああ」
「十九歳ってのは、もっと賢いと思ってた」
「俺もそう思ってた」
「誰なんだ」
「知らない」
「なお悪い」
剛はランドクルーザー70からM4を取った。
弾倉を確認する。
防弾ベストを着る。
「十分で戻る」
「戻らなかったら?」
「三十分待ってくれ」
「十分じゃないのか」
「片道十分だ」
主任は少し考えた。
「三十分過ぎたら?」
「先に行っていい」
「荷物は?」
「持ってっていい」
「安い遺産だな」
「全部合わせても大した金にならない」
「M4はもらう」
「勝手にしろ」
主任は煙草を咥えた。
「一時間待つ」
「三十分でいい」
「俺が決める」
剛は何も言わなかった。
男の古いカローラへ向かった。
*
十分というのは、この土地では距離の単位だった。
実際には十五分かかった。
舗装路を外れ、土の道を走る。
カローラは何度か腹を擦った。
剛は助手席に座っていた。
M4は膝の上。
男は一度それを見たが、何も言わなかった。
集落を抜けた。
家が減った。
畑が増えた。
乾いた土地に、低い木が並んでいる。
男は土壁と石を組んだ古い家の前で車を止めた。
「ここ」
剛は降りなかった。
周囲を見る。
家。
小屋。
錆びた農機具。
鶏が二羽。
人影はない。
「家族は?」
「いない」
「どこにいる」
「遠い」
「どこ」
男は答えなかった。
剛はドアを開けた。
*
家の中は涼しかった。
窓が小さい。
壁が厚い。
古いテーブル。
椅子が四脚。
一脚だけ種類が違う。
男は水を出した。
剛は飲まなかった。
男も勧めなかった。
「それで」
剛はM4を壁へ立てかけた。
手を伸ばせば届く場所だった。
「親父の何を知ってる」
男は椅子へ座った。
剛は座らなかった。
「誠は、何度も来た」
「ここに?」
「ここも」
「何しに」
男は考えた。
「話を聞く」
「何の」
「いろいろ」
「それじゃ分からない」
男は困った顔をした。
「銃。荷物。人」
「誰の?」
「分からない」
「親父は何を調べてた」
「それも、全部知らない」
剛は舌打ちしそうになった。
男はそれに気づいたらしい。
「誠、全部は話さない」
「秘密だったから?」
「たぶん」
「GHSCの仕事か」
男は首を振った。
「会社に秘密」
剛は初めて椅子を引いた。
座った。
「会社に?」
「そう言った」
「親父が?」
「そう」
「何て」
男は目を細めた。
三年前よりさらに前の言葉を、別の言語から掘り出しているようだった。
「会社の中に……悪い人いる」
「悪い人?」
「それだけじゃない」
男は首を振った。
言葉が足りないらしい。
「危ない人」
「同じだろ」
「違う」
男は少し苛立った。
自分の英語に。
「力ある人。会社の上」
「上層部?」
男はその単語を知らなかった。
剛は言い換えた。
「偉い奴か」
「そう。偉い人」
「誰だ」
「知らない」
「名前は?」
「知らない」
「猿田伸吾は?」
男の顔を見た。
何も起きなかった。
「誰?」
「……知らないならいい」
剛は背もたれへ身体を預けた。
三年前。
猿田は父親を撃った。
PERSIMMONを奪った。
そして父親は裏切り者になった。
それだけなら、話は簡単だった。
猿田が誠を裏切った。
だが、目の前の男の話では、それ以前から誠は会社の中を調べていたことになる。
「何を見つけた」
「分からない」
「またそれか」
「私は、聞かれた人」
男は自分の胸を指した。
「答えた。それだけ」
「何を聞かれた」
「車。夜、走る車。武器」
「武器を運んでた?」
「たぶん」
「誰が」
「知らない」
「GHSC?」
「車は、そう」
剛は黙った。
「ほかは」
「人」
「どんな」
「村から、いなくなった人」
「死んだ?」
「分からない」
「親父はそれを調べてた?」
「聞いた」
男はテーブルへ指を置いた。
一つ。
二つ。
三つ。
場所を示すように離して置く。
「私だけ違う。ほかにも聞いた」
「証言を集めてたのか」
通じなかった。
「いろんな人から話を聞いてた?」
「そう」
「何年」
男は考えた。
「長い」
「一年?」
首を振る。
「二年?」
「もっと」
剛は男を見る。
「何のために」
「分からない」
「会社を告発するため?」
通じなかった。
剛は少し考えた。
「悪いことを、外に出すためか」
「たぶん」
「たぶんばっかりだな」
「誠、私に全部言わない」
「信用されてなかったんじゃないか」
男は少し笑った。
「それが正しい」
剛も、わずかに口元を動かした。
初めてだった。
「親父らしいな」
「慎重だった」
「そうでもない」
「慎重だった」
男は珍しく強く言った。
「私の家族、逃がした」
剛の顔から笑いが消えた。
「何から」
「ここから」
「何で」
「私、話したから」
男はテーブルの上の指を握った。
「誠に話した。そのあと、人、来た」
「誰が」
「知らない」
「何された」
「質問。脅し」
「家族も?」
「そう」
「親父が逃がした?」
「そう」
「どこへ」
男は答えなかった。
剛はそれ以上訊かなかった。
三年経っても言わない。
それなら、生きている可能性がある。
「親父は金を出したのか」
「金。車。場所」
「会社の金?」
「知らない」
剛は息を吐いた。
会社の金を盗んだ。
三年間、何度も聞いた言葉だった。
もし誠が証人やその家族を逃がすために会社の金を使っていたなら。
横領という記録だけなら作れる。
いや。
まだ何も分からない。
都合よく考えるな。
「証拠は?」
男は分からなかった。
「親父が調べてた証拠」
剛は言い換えた。
「紙。写真。データ。何か残ってる?」
男は剛を見た。
今度は長かった。
「ある」
剛は身体を起こした。
「どこ」
男は立った。
隣の部屋へ入った。
剛の右手がM4へ伸びた。
触れない。
待つ。
男が戻ってきた。
手には何も持っていない。
「来て」
家の裏へ出た。
*
小屋があった。
工具。
燃料缶。
農具。
古いタイヤ。
男は棚を動かした。
壁の一部に、色の違う石がある。
一本抜いた。
中からビニール袋を取り出した。
さらに布。
さらにビニール。
「ずいぶん大事にしてるな」
「燃える。濡れる。鼠、食べる」
「最後のは嫌だな」
男は包みを開いた。
小さな金属箱だった。
錆びている。
鍵はなかった。
男が蓋を開ける。
中に紙があった。
写真。
古いメモ。
封筒。
小さな記憶媒体。
剛は手を出さなかった。
「親父の?」
「一部」
「なんでお前が持ってる」
「誠が置いた」
「いつ」
「最後に会ったとき」
剛は男を見る。
「三年前?」
「もっと前。少し」
「何て言った」
男は考えた。
「持っていてくれ」
「それだけ?」
「もし、何かあったら……」
男は止まった。
英語を探した。
「捨てるな」
「誰かに渡せとは?」
「言わない」
「俺にも?」
「お前のこと、言った」
剛の目が細くなった。
「何て」
「息子がいる」
「それだけ?」
「まだ若い」
男は少し笑った。
「頭、固い」
「……親父が言ったのか」
「たぶん、冗談」
「笑えねえ」
剛は箱の中を見る。
一枚の紙を取った。
義手ではなく、右手で。
英語。
数字。
地名。
車両番号らしいもの。
人名。
いくつかは黒く塗られている。
誠の字を、剛は知っていた。
几帳面でもない。
汚くもない。
速く書く人間の字だった。
その字がある。
三年ぶりだった。
紙の上に。
父親の手が残っていた。
「これ、親父が書いた」
「そう」
剛は次の紙を見る。
別の筆跡。
写真。
暗い道路。
トラック。
倉庫。
何かを運ぶ男たち。
GHSCの車両。
「これだけ?」
「私が持つのは」
「ほかにもある?」
「たぶん」
「どこに」
「知らない」
剛は箱を調べた。
封筒の一つに、文字があった。
大文字。
誠の筆跡。
剛の指が止まった。
PERSIMMON.
時間が止まった。
暑い小屋が消えた。
乾いた土地も。
男も。
三年前。
湿った丘陵の空気。
古い農家。
庭に立つ一本の木。
まだ硬い実。
猿田が撃った。
落ちた。
父親が拾った。
『青いぞ』
『見りゃ分かる』
『食えない』
『食うために撃ったんじゃない』
左手。
まだあった左手。
投げられた柿を受け取った。
『熟すまで待てば甘くなる』
『待ってたら誰かに取られる』
そして。
血の中。
父親の目。
『……青いな』
『何が』
視線の先。
『柿?』
『……まだ』
『……青い』
剛は封筒を握っていた。
「これ、何だ」
声が低くなった。
男は封筒を見る。
「知らない」
「読めるだろ」
「言葉は」
「意味だよ」
「知らない」
「親父から聞いてないのか」
男は首を振った。
「一度だけ」
「何を」
「その言葉」
「PERSIMMON?」
「そう」
「何て言った」
男は記憶を探した。
「仕事の名前……違う」
首を振る。
「調べるもの。全部」
「作戦名?」
「たぶん」
「親父は何て」
男は額に手を当てた。
しばらくして言った。
「まだ、終わらない」
剛は動かなかった。
「それだけ?」
「あと……」
男は考えた。
「まだ早い」
小屋の中で、何かが鳴いた。
虫だった。
剛は封筒を見る。
三年前。
猿田は言った。
『まだ足りないんだろ』
誠は答えた。
『ああ』
『待つのか』
『待つ』
PERSIMMON.
柿。
まだ青い。
剛は封筒を箱へ戻した。
「これ、借りる」
男は首を振った。
「駄目」
剛の目が上がった。
「親父のだ」
「今は、私が守る」
「俺は息子だ」
「知っている」
「だったら」
「誠は、息子に渡せと言ってない」
剛は黙った。
男も黙った。
たどたどしい英語だった。
だが、意味は明瞭だった。
「じゃあ、何で見せた」
「お前が、誠を知りたいと言った」
「持って帰らせる気はない?」
「ない」
「コピーは」
男はその単語を理解した。
少し考えた。
「紙は、いい」
「データは?」
「駄目」
「何で」
「分からないもの、渡さない」
「慎重だな」
男は剛を見た。
「誠が教えた」
剛は何も言えなかった。
箱の中をもう一度見る。
封筒。
写真。
メモ。
その一番下に、二つ折りになった紙があった。
「これは?」
男が見る。
「知らない」
剛は開いた。
名前が並んでいた。
英字。
電話番号。
地名。
いくつかは線で消されている。
その中に、一つだけ見覚えのない名前があった。
長かった。
子音が多かった。
剛は読むのを試みた。
「ブズ……」
止まった。
「何だこれ」
もう一度見る。
Brzîeřa Řehořczyk.
「……読めねえ」
その横に、誠の字で短く書かれていた。
BEE.
剛は黙った。
「……蜂?」
三年前。
無線の声が蘇った。
『BEE、応答しろ』
返事はなかった。
剛は紙から目を離さなかった。
「こいつを知ってる」
男は剛を見る。
「誰?」
剛は紙を指した。
「蜂だ」
「蜂?」
「ああ」
男には意味が分からない。
それでよかった。
剛には分かった。
PERSIMMONについて知っている人間。
父親を知っている人間。
そして。
猿田伸吾を知っている人間。
少なくとも一人。
まだ生きているかもしれない。
剛は紙を見つめた。
三年間止まっていたものが、
初めて動いた。




