第二章 蟹の子 第二話 左腕
翌朝。
剛は金属のカップを落とした。
乾いた音がした。
床を転がる。
「……またか」
左手を見る。
五本の指。
黒い義手。
開く。
閉じる。
もう一度。
動く。
剛はカップを拾った。
左手で持つ。
持てる。
少し強く握る。
問題ない。
義手そのものが壊れているわけではなかった。
問題は、分からないことだった。
握っているのか。
どれくらい強く握っているのか。
重いのか。
軽いのか。
滑っているのか。
見なければ分からない。
靴紐は結べる。
ボタンも留められる。
M4の弾倉も交換できる。
銃を支えることもできる。
熱くない。
痛くない。
擦りむかない。
撃たれても、壊れるだけだ。
修理すればいい。
人間の腕より優れているところもある。
そう考えることにしていた。
剛は義手を外した。
ベッドへ置く。
左の上腕。
途中で終わっている。
右手で触る。
皮膚の感触がある。
右手に。
左手で触ることはできない。
*
三年前。
目が覚めたとき、左手はあった。
少なくとも、剛にはそう感じられた。
指を開く。
閉じる。
また開く。
動く。
ちゃんと動く。
そう思った。
だから最初、何がおかしいのか分からなかった。
白い天井。
薬品の匂い。
機械の音。
身体が重い。
左肩が痛い。
左腕が痛い。
左手が痺れている。
指を動かす。
動く。
布団を見る。
右腕がある。
左側。
平らだった。
剛はしばらく見ていた。
意味が分からなかった。
もう一度、左手を開いた。
開いた。
感覚はある。
だが、そこには何もなかった。
「……腕」
声が出なかった。
喉が乾いていた。
「俺の腕」
人が来た。
看護師。
医師。
何か言われた。
剛は聞いていなかった。
「腕は?」
医師が説明した。
血管。
骨。
筋肉。
神経。
感染。
壊死。
命を優先した。
残せなかった。
言葉だけが並んだ。
「動くんだけど」
医師が黙った。
「指、動くんだけど」
「そう感じることはある」
「分かってる」
剛は言った。
分かっていなかった。
左手を握った。
握れた。
爪が掌に食い込む感覚まである。
ない指の。
ない掌に。
剛は目を閉じた。
父親のことは訊かなかった。
訊けば答えが返ってくる。
答えが返ってくれば、本当になる。
十六歳の剛には、それを訊かないくらいのことしかできなかった。
*
あとになって調べた。
自分を撃った弾。
正確には。
父親を撃ち、そのあと自分の左腕へ入った弾。
SAKO TRG M10。
7.62×51ミリ。
ボルトアクションの精密射撃用ライフル。
5.56ミリより大きい。
強い。
そこまでは簡単だった。
数字も出てきた。
弾頭重量。
初速。
エネルギー。
いくらでも出てきた。
だが、数字を並べても左腕がなぜああなったのかは分からなかった。
使われていたのは普通の軍用弾だった。
被甲弾。
撃ったあと大きく膨らむように作られた弾ではない。
そういう弾は戦争では禁止されている。
ジュネーブ条約。
そう書いてある記事も多かった。
調べると、厳密には話が違った。
十九世紀末のハーグ宣言。
どうでもよかった。
剛が知りたいのは国際法ではない。
自分の左腕だった。
父親の身体を抜けたときに弾が傷んだのかもしれない。
形が変わったのかもしれない。
姿勢が崩れたのかもしれない。
腕の骨に当たったからかもしれない。
全部だったのかもしれない。
医師にも訊いた。
「父親を貫通した弾だったんです」
「ああ」
「それで俺の腕に入った」
「そう聞いている」
「弾が変形してた?」
「可能性はある」
「横向いた?」
「それもある」
「骨に当たったから?」
「それもある」
「じゃあ、どれですか」
医師は剛を見た。
「分からない」
「医者なのに?」
「医者だからだ」
剛は黙った。
「撃たれた瞬間の弾の状態を見た人間はいない。身体の中で何が起きたか、全部を再現することもできない。分かるのは結果だ」
それが一番正確な答えだった。
分かっているのは事実だけだった。
弾は誠の身体を抜けた。
剛の左上腕へ入った。
骨を壊した。
血管を壊した。
肉を壊した。
腕は残せなかった。
それだけだった。
*
剛は義手をつけた。
固定する。
肘を曲げる。
指を開く。
カップを持つ。
今度は落ちなかった。
部屋を出た。
*
宿の裏で主任がランドクルーザー70の下に潜っていた。
「十七」
車の下から声がした。
「何」
「十七ミリ」
工具箱を見る。
剛はレンチを取った。
左手で。
車の下へ差し出す。
主任の手が出てきた。
受け取る。
「ありがとよ」
剛は車の横へ座った。
「南までどれくらい」
「今日いっぱい」
「途中で仕事ある?」
「お前、本当に金ないんだな」
「あるけど減る」
「正常だ」
主任が車の下で何かを回した。
「M4だったな」
「ああ」
「5.56なら腐るほどある」
「だから使ってる」
「好きなのか」
「別に」
主任の手が止まった。
「別に?」
「ああ」
「じゃあなんでM4なんだ」
「弾があるから」
「それだけ?」
「部品もある」
「ほかは」
「ない」
主任が笑った。
「銃は選ばねえくせに仕事は選ぶんだな」
「撃てればいい」
「若いのに夢がない」
「銃に夢持ってどうする」
「それもそうか」
主任はまた作業を始めた。
剛は左手を見る。
五本の指。
開く。
閉じる。
三年前とは逆だった。
あのころは、左手にも温度があった。
重さがあった。
父親から投げられた青い柿の硬さも分かった。
今は何も分からない。
それでも銃は持てる。
仕事もできる。
金も稼げる。
生きていける。
それで十分だった。
十分だと思っていた。




