第六章 LEFTOVER 第五話 蜂
撃ってこない。
猿田は分かっていた。
外しているのではない。
待っている。
「そう、教えたな」
壁に背中を預けたまま、猿田が小さく言った。
手にはSAKO TRG M10。
7.62×51mm NATO。
長いサプレッサーをつけた、一丁のボルトアクションライフル。
北。
蜂は、あちらにいる。
正確な位置までは、今のところ分からない。
*
十六歳だった。
伏せた蜂の横で、猿田は標的を見ていた。
弾着はまとまっている。
十分だった。
「射場で的を撃つだけなら、お前は十分だ」
蜂が顔を上げた。
「でも、お前がこれから撃とうとしているものはなんだ?」
「人」
「そうだ。だから当てるだけじゃ足りない」
猿田は標的を見た。
「射撃は当てる技術だ。狙撃は、撃つべき時まで待つ仕事だ」
*
剛は蜂の隣を離れた。
斜面の裏へ下がり、施設から見えない窪地を伝って高台を降りていく。
蜂も位置を変えた。
少し離れた場所へ伏せ直し、SSG 08のスコープへ目を戻した。
*
猿田が壁の端から外を見る。
北側の斜面。
岩。
低い草。
乾いた土。
隠れられる場所はいくつもある。
身体を出した。
一瞬。
猿田の知っている蜂なら、撃ちたくなるはずの長さだった。
だが、そこでは当たらない。
猿田自身がそう確信できる位置と時間だった。
銃声はない。
猿田が引く。
別の場所へ移る。
もう一度。
肩を見せる。
脚を出す。
遮蔽物へ入る直前、わずかに速度を落とす。
蜂は撃たない。
「撃たないか」
返事はなかった。
当然だった。
*
遠くでBenelli M4が吠えた。
別の方向で軽機の連射。
誰かが叫んだ。
また銃声。
施設の中では戦闘が続いている。
それでも、猿田と蜂の間では何も起きなかった。
蜂はSSG 08のスコープ越しに猿田を追っていた。
猿田が壁から壁へ移る。
撃てる。
今も。
その前も。
蜂の右手の人差し指はトリガーに触れている。
動かない。
*
「撃ちたいときに撃つな」
十六歳の蜂が猿田を見た。
「いつ撃つの」
「当たるときだ」
蜂は標的へ視線を戻した。
*
猿田はTRG M10のストックを右肩へ押し当てた。
左手でフォアエンドを支える。
頬をチークピースへ落とした。
Schmidt & Benderのスコープの中へ、北側の斜面を入れる。
岩。
低い草。
乾いた土。
蜂がいる可能性の高い範囲は、すでにかなり狭まっていた。
猿田が照準を止めた。
一発。
サプレッサーが発射音を削った。
北側で土が跳ねた。
蜂は少し離れた場所から見ていた。
弾は、蜂が少し前までいた場所へ入った。
猿田はボルトを操作した。
待った。
返ってこない。
「そうか」
猿田が言った。
蜂は撃たなかった。
*
一分。
さらに一分。
遠くで銃声が響く。
軽機が短く咳き込む。
そのたび施設の別の場所で人が動く。
蜂は動かなかった。
猿田も動かなかった。
時間だけが減っていく。
猿田は腕時計を見なかった。
見る必要はなかった。
分かっている。
栗は中にいる。
南は使えない。
人間は減っている。
管理棟には、まだ残り物がいる。
ここで蜂といつまでも付き合うわけにはいかない。
猿田が動いた。
*
一つ先の遮蔽物へ。
走る。
入る。
蜂は撃たない。
猿田が息を整えた。
次。
低いコンクリート壁。
走った。
入った。
まだ撃たない。
猿田は北を見た。
撃ってこない。
その事実自体が、少しずつ猿田の行動範囲を広げていた。
次も行ける。
そう思わせる。
猿田自身、その危険を知っていた。
それでも動かなければならない。
*
低い壁の陰で、猿田はTRG M10を構えた。
北を一度きちんと潰す。
そうしなければ、これ以上は動けない。
右手がグリップへ。
ストックを肩へ。
左手が前へ出た。
銃を支える。
蜂のスコープの中に、左肩が現れた。
上腕。
胴体は壁の向こう。
頭部は安定しない。
左上腕だけが残った。
動きが止まる。
蜂は撃った。
*
猿田の身体が横へ崩れた。
TRG M10が地面へ落ちた。
左上腕に衝撃。
次に熱。
それから痛み。
猿田はその場にしゃがみ込んだ。
頭も肩も壁の陰へ沈む。
左腕を見た。
腕はついている。
だが動かない。
袖が急速に濡れていく。
「……やるな」
口元がわずかに緩んだ。
右手でメディカルポーチを開ける。
止血処置を済ませた。
使えなくなった左腕を身体へ寄せ、動かないよう固定する。
フェンタニルのロゼンジを出し、頬の内側へ押し込んだ。
壁へ背中を預けた。
すぐには立たなかった。
呼吸を整える。
フェンタニルが効いてくるのを待った。
*
十六歳の蜂は、伏せたままだった。
長い時間だった。
「いつまで待つの」
猿田は双眼鏡を覗いていた。
「相手が動くまで」
「動かなかったら?」
「もっと待つ」
蜂が猿田を見た。
猿田は笑った。
「向こうにも都合がある」
*
猿田は目を開けた。
「そうだったな」
自分にも都合があった。
だから動いた。
そして撃たれた。
フェンタニルが効き始めていた。
痛みは消えてはいない。
ただ、遠くなった。
猿田は右手でTRG M10を拾い上げた。
立った。
手の中の銃を見る。
一丁。
十年以上使ってきた。
各地の戦場を共に巡った。
手に馴染んでいる。
しかし左腕は使えない。片腕で扱いきれる銃ではない。
この銃を持っていっても、もう仕事にならない。
猿田はTRG M10を置いた。
腰のUSP9を抜く。
右手だけで持った。
作業棟へ向かう。
二歩。
猿田は振り返った。
TRG M10が地面にあった。
それだけ見た。
前を向いた。
途中。
一人倒れていた。
猿田直属の男だった。
その脇に、FN SCAR-Lが落ちている。
5.56mm。
猿田は一瞥して通り過ぎた。
*
蜂はスコープ越しに見ていた。
猿田が立った。
TRG M10を置いた。
USP9を右手に持った。
作業棟へ戻っていく。
左腕は身体へ固定されている。
追撃しなかった。
地面にTRG M10が残っていた。
その先に血が続いている。
作業棟の中へ。
蜂は無線を入れた。
「剛」
『何』
「猿田は作業棟へ戻った」
少し間があった。
『分かった』




