第一章 青い柿 第二話 未熟
三人は農家を出ると、北へ向かった。
道は使わなかった。
畑の縁を縫う未舗装の農道は、農家からも見えていた。車なら早い。歩くにも楽だったが、周囲からもよく見える。
誠はその西側、放棄された果樹畑と雑木の間を選んだ。
沿ドニエストルの農村部には、緩い起伏が続いている。
耕作地。
葡萄畑。
ところどころに残る防風林。
その間を細い農道が通っていた。
先頭は猿田。
二十メートルほど後ろに誠。
剛は最後尾だった。
訓練生だから後ろなのではない。
少なくとも誠はそう言っていた。
先頭には先頭の仕事があり、最後尾には最後尾の仕事がある。隊列のどこに置かれても、自分が見るべき場所を見ろ。
そう教えられていた。
剛はときどき振り返った。
誰もいない。
農家はすぐに防風林の向こうへ消えた。
さっきまで三人で馬鹿な話をしていた庭も、柿の木も見えなくなった。
足元には乾いた枝が多かった。
踏めば音が出る。
剛はなるべく土の出ている場所を選んだ。
M4A1を身体の前へ寄せ、枝に引っ掛けないよう歩く。
前を行く誠のH&K G36はほとんど揺れなかった。
猿田はもっと静かだった。
長いSAKO TRG M10を持っているくせに、枝にも草にも触れない。
腹が立つ。
剛は二人の足の置き方を見ながら歩いた。
十分ほど進んだところで、猿田が左拳を上げた。
剛は止まった。
誠も止まっている。
猿田がしゃがんだ。
三人とも声を出さない。
剛はM4A1を構え、右側の低い斜面を見た。
何もいない。
風で草が動いている。
虫が鳴いている。
遠くで鳥の声がした。
一分。
二分。
長い。
猿田がようやく右手を開いた。
そのまま立ち上がる。
誠が近づいた。
「何だ」
「鹿」
「鹿?」
「たぶん」
剛が思わず言った。
「また動物かよ」
猿田が振り返った。
「じゃあ確認してこい」
「いいよ」
「鹿じゃなかったら?」
「……何なんだよ」
「知らん。だから止まった」
誠が剛を見た。
「今のは猿田が正しい」
「分かってるよ」
「分かってない顔してる」
「顔は関係ねえだろ」
「顔に出る奴は長生きしないぞ」
猿田が言った。
「お前、撃たれたらまず『痛え』って顔しそうだもんな」
「撃たれたら誰でもするだろ」
「俺はしない」
「嘘つけ」
猿田は笑って歩き出した。
剛はその背中に中指を立てた。
誠が見ていた。
「見えてるぞ」
「猿田さんには見えてない」
「俺には見えてる」
「親父はいいんだよ」
「隊長と呼べ」
「今それ関係あるか?」
「ある」
誠は先へ行った。
剛は小さく舌打ちして後を追った。
*
GHSCがこの地域で請け負っている仕事は、書類上では民間施設の安全確保と輸送路の調査だった。
実際、それもやっていた。
通信会社の技術者を運び、倉庫や中継施設を警備し、道路に爆発物が仕掛けられていないか確認する。必要なら現地の警備員に銃の扱いも教えた。
農産物や燃料を運ぶトラックが通る道路も、仕事の対象だった。
国境。
検問所。
政治的には存在することになっている線と、現場で実際に人間を止める線は、必ずしも同じではない。
この土地では珍しいことではなかった。
契約書に書かれていない仕事もあった。
剛は、その全部を知らされているわけではなかった。
訓練生だからだ。
それも腹が立った。
一時間ほど歩いて、三人は緩い丘陵の肩で止まった。
猿田が地面へ伏せた。
誠も伏せる。
剛は少し遅れて二人の横へ身体を沈めた。
眼下には浅い谷筋が走っている。
谷底を細い舗装路が通り、その脇に小さな集落が見えた。
屋根の半分がなくなった家。
黒く焼けた家。
まだ人が住んでいる家。
同じ集落の中に三種類が混じっていた。
道路脇には古いGAZ-53トラックが一台停まっている。
青い塗装は褪せ、荷台の木枠には補修跡がいくつもあった。
人影が二つ。
誠が双眼鏡で集落を見ていた。
しばらくして、それを剛へ渡した。
「見てみろ」
剛は受け取った。
道路。
GAZ-53。
家並み。
その向こうの畑。
剛は中央の人影へ視線を寄せた。
倍率を上げる。
「上げるな」
猿田が言った。
TRG M10のスコープから目を離していない。
「何が」
「倍率」
「見えるほうがいいだろ」
「一人だけ見てどうする」
「周りも見えるよ」
「見えてないから言ってる」
剛は双眼鏡を覗いたまま黙った。
「下げろ」
誠が言った。
「どこまで」
「全体が入るところまで」
剛は倍率を戻した。
人影は小さくなった。
代わりに、道路の入口と出口。
トラック。
家の陰。
畑へ抜ける細い道。
集落の外れまで一緒に見える。
「人を見るんじゃない」
誠が言った。
「場所を見ろ」
剛はもう一度、人影へ目をやった。
倍率は上げなかった。
それがまた腹立たしい。
誠は双眼鏡を受け取った。
しばらく集落を観察してから、腕時計を見る。
「十一分」
猿田が言った。
「来るかね」
「来る」
「ずいぶん信用してるな」
「三回使った」
「四回目で売られるかもしれない」
「そのときは猿田さんが撃つの?」
猿田がわずかに顔を向けた。
「何で俺が」
「得意だろ」
誠が言った。
「料金は別だぞ」
剛は二人の会話を聞きながら道路を見ていた。
「誰が来るんだ?」
返事はなかった。
「親父」
誠が双眼鏡を下ろした。
「隊長」
剛は言い直した。
「誰が来るんだ」
「人だ」
「見りゃ分かるよ」
「なら聞くな」
「そういう意味じゃねえ」
「お前が知る必要のある相手なら、先に教えてる」
剛は口を閉じた。
またそれだ。
必要がある。
必要がない。
何かを訊くたび、そこに線を引かれる。
十六歳という数字が線になっているような気がした。
剛はそれが嫌いだった。
「拗ねるな」
猿田が言った。
「拗ねてねえ」
「その顔だよ」
「顔の話ばっかすんな」
「お前は分かりやすいからな」
猿田はTRG M10のスコープから目を離さなかった。
「隠したいことがあるなら、まず顔から練習しろ」
「猿田」
誠が静かに言った。
「何だよ」
「余計なこと教えるな」
「必要だろ」
「こいつにはまだ早い」
「またそれかよ」
剛が言った。
二人が同時に剛を見た。
「何だよ」
猿田が先に笑った。
「ほら、顔」
「うるせえ」
*
十一分後、一台の乗用車が谷筋へ入ってきた。
銀色のLada 2107だった。
角張った三ボックスの車体。
古い。
だが、このあたりではまだ珍しくもない。
舗装の継ぎ目を拾うたび、車体が小さく上下する。
速度を落とし、集落の手前で停まった。
運転席から男が降りた。
一人。
五十代くらいに見えた。
ジャケットを着ている。
武器は見えない。
男は周囲を見回してから、Ladaの屋根に片手を置いた。
誠が双眼鏡を下ろした。
「俺が行く」
猿田が頷いた。
「ここで見る」
「五分」
「十分待つ」
「五分だ」
「隊長が戻らなかったら?」
「剛を連れて戻れ」
剛が顔を上げた。
「は?」
誠はもう立ち上がっていた。
「何でだよ」
「命令だ」
「だったら俺も行く」
「駄目だ」
「護衛なら人数いたほうが」
「猿田」
誠は剛ではなく猿田を見た。
「了解」
猿田が答えた。
それで話は終わった。
剛は歯を噛んだ。
誠は斜面を降りていった。
姿勢を低くし、防風林の端を抜ける。
やがて低木の向こうへ消えた。
剛はM4A1を握った。
「何なんだよ」
「何が」
「俺だけ何も知らねえ」
「訓練生だからな」
「それで済ますなよ」
「じゃあ聞くな」
猿田はTRG M10を道路へ向けたまま言った。
「知らなくていいことを知らないのも技術だ」
「猿田さんも知ってるんだろ」
「知ってる」
「じゃあ教えろよ」
「嫌だ」
「なんで」
「隊長が教えるなって言ったから」
あっさりした答えだった。
剛は黙った。
猿田はそれ以上何も言わない。
谷底では誠が道路へ出た。
銀色のLadaの男が近づいてくる。
二人は握手をしなかった。
何か話している。
距離がありすぎて声は聞こえない。
男がジャケットの内側へ手を入れた。
剛の身体が硬くなった。
「動くな」
猿田が言った。
「でも」
「見てろ」
男が取り出したのは拳銃ではなかった。
小さな封筒だった。
誠が受け取る。
中を確認する。
何か入っている。
紙ではない。
剛にはそれ以上分からなかった。
誠が何か言った。
男が頷く。
それだけだった。
三分もしないうちに二人は離れた。
男はLadaへ戻った。
誠は斜面へ向かう。
銀色の2107が走り去るまで、猿田はスコープで追っていた。
「何だった?」
剛が訊いた。
「人」
「それはもういい」
猿田が笑った。
数分後、誠が戻ってきた。
「問題なし」
猿田が訊いた。
「本物?」
「ああ」
「中身は」
「ここでは見ない」
誠は胸元のポケットを軽く叩いた。
「次へ行く」
剛は立ち上がった。
「それ何?」
「仕事道具」
「だから何の」
「剛」
誠の声が少し変わった。
剛は黙った。
怒鳴られたわけではない。
それでも、それ以上訊いてはいけない声だと分かった。
猿田が立ち上がり、TRG M10を背負った。
「行くぞ、ガキ」
「ガキじゃねえ」
「だったら命令くらい聞け」
剛は猿田を睨んだ。
猿田はもう歩き出していた。
*
午後四時を過ぎると、丘陵の影が長くなった。
三人はさらに北へ進んだ。
畑と葡萄畑の間を抜ける。
ときどき未舗装路を横切り、また防風林へ入る。
舗装道路を走る車の音が遠くから聞こえることもあった。
予定では日没前に別の地点で車両と合流することになっていた。
剛はそう聞かされていた。
それ以上は知らない。
無線が入った。
誠が足を止める。
イヤーピースへ手を当てた。
「KANIZAWA」
短い沈黙。
「了解」
また沈黙。
「予定どおりだ」
猿田が振り返った。
誠は答えず、無線機を操作した。
「BEE、KANIZAWA」
雑音。
女の声が返った。
『BEE』
「位置は」
『予定地点。動きなし』
「そのまま待機」
『了解』
通信が切れた。
剛が訊いた。
「蜂、近いの?」
「遠い」
「どっちだよ」
「お前が行く場所じゃない」
また線を引かれた。
次の通信。
「CHESTNUT、KANIZAWA」
『聞こえてる』
男の声だった。
「予定変更なし」
『了解。暇なんだけど』
「寝てろ」
『寝ていいのか?』
「駄目だ」
『じゃあ言うなよ』
通信が切れた。
猿田が鼻で笑った。
「相変わらずだな」
「静かな栗なんて気味悪いだろ」
誠が答えた。
次。
「MORTAR、KANIZAWA」
今度は少し間があった。
『……MORTAR』
「そっちは」
『問題ない』
「了解」
それだけ。
剛は笑った。
「臼、相変わらず喋んねえな」
「必要なことは喋ってる」
誠が言った。
「必要なこと二語かよ」
「お前は不要なことを喋りすぎる」
猿田が言った。
「猿田さんもだろ」
誠はもう一つのチャンネルを開いた。
「BULLSHIT、KANIZAWA」
返事がない。
もう一度。
「BULLSHIT」
数秒後、低い男の声が返った。
『その呼び方をやめろ』
剛が吹き出した。
猿田も笑った。
誠だけが平然としている。
「状況は」
『俺は工兵だ』
「状況を聞いてる」
『工兵であって牛の糞じゃない』
「状況」
『予定どおりだ。車も生きてる』
「了解」
『あと今度その名前で呼んだら』
誠は通信を切った。
「ひでえ」
剛が笑った。
「最後まで聞いてやれよ」
「長い」
「誰がつけたんだよ、その名前」
誠と猿田が一瞬だけ顔を見合わせた。
「昔の話だ」
誠が言った。
「教えろよ」
「嫌だ」
「なんでだよ」
「長い」
猿田が横から言った。
「しかもくだらない」
「だったらいいじゃん」
「だから話したくない」
「何だそれ」
三人は歩き出した。
剛はまだ笑っていた。
そのときは、何も不自然だと思わなかった。
蜂が別の場所にいることも。
栗が別の場所にいることも。
臼が別の場所にいることも。
牛の糞が車両と一緒にいることも。
任務では珍しくない。
必要な人間を、必要な場所へ置く。
それだけのことだった。
日が傾いていた。
西側の丘陵を越えて吹いてくる風が少し冷たくなった。
誠の無線機が、もう一度鳴った。
今度は短い電子音だった。
誠は表示を見た。
猿田も見た。
「来たか」
猿田が言った。
「ああ」
誠は胸元から、さきほど受け取った封筒を出した。
中から小さな記録媒体を取り出した。
親指ほどの黒い塊だった。
剛には何の変哲もないものに見えた。
誠はそれを掌の上で一度だけ見た。
それから猿田に言った。
「これで三つ目だ」
猿田の表情から、さっきまでの笑いが消えた。
「まだ足りない」
「ああ」
「待つのか」
「待つ」
猿田は何も言わなかった。
誠は記録媒体をしまった。
剛が訊いた。
「何の話?」
誠は歩き出した。
「仕事の話だ」
「だから何の仕事だよ」
答えたのは猿田だった。
「PERSIMMON」
剛は眉を寄せた。
「……柿?」
猿田は笑った。
「英語くらい分かるようになったじゃねえか」
「馬鹿にすんな」
誠は振り返らなかった。
ただ一言だけ言った。
「まだ青い」
三人は丘陵を北へ歩き続けた。




