第五章 PERSIMMON 第六話 蜂
何も言えなかった。
私はグラスを持ったまま、剛を見ていた。
栗が笑っている。
牛も笑っている。
剛は不機嫌そうに椅子へ座っている。
「全員死ね」
また笑いが起きた。
私は笑えなかった。
初めて。
十九歳。
二年間、一人で武装契約の仕事をしていた。
街を渡った。
国を渡った。
人を撃った。
左腕を失っても、銃を持って生きてきた。
だから。
女だって知っただろう。
私はそう思っていた。
思っていただけだった。
*
剛が私を見ていることには気づいていた。
そこは間違っていない。
水を飲めば喉を見る。
しゃがめば腰を見る。
伏せれば身体の線を見る。
気づけば逸らす。
また見る。
分かりやすかった。
私は男の視線を読み違えることは少ない。
剛が私を見ていたことも、読み違えてはいなかった。
読み違えていたのは、その意味だった。
数日前の射撃場を思い出した。
剛が伏せていた。
私は左側へ伏せた。
義手とハンドガードへ手を伸ばした。
そこまではよかった。
右腕を肩越しに伸ばした。
身体を重ねた。
胸を背中へ当てた。
必要はなかった。
分かってやった。
少し、試してみたかった。
剛の身体が硬くなった。
呼吸が変わった。
私は面白がった。
十九歳なら、こんなものなのだろう。
そう思った。
違った。
十九歳の男が、ああだったわけではない。
十九歳の剛が、ああだった。
それも。
私が思っていたより、ずっと別の意味で。
「蜂?」
剛が見ていた。
「何」
「いや。ずっと見てるから」
「見てない」
「見てるだろ」
「気のせい」
「お前までそれ言うのかよ」
剛がワインを飲んだ。
私はグラスへ目を落とした。
数日前までなら、剛のほうが先に逸らしていた。
*
翌朝、訓練施設へ戻った。
ランドクルーザー100を降りる。
荷物を置く。
着替える。
銃を出す。
いつもの日課に戻った。
私も、いつもどおりに戻った。
そのつもりだった。
髪を後ろでまとめる。
視線を感じた。
剛。
昨日までなら振り向いた。
振り向かなかった。
M4の弾倉を確認する。
また視線。
放っておいた。
水を飲む。
来る。
喉。
たぶん。
見なかった。
剛の視線が消えた。
妙な感じがした。
嫌になったわけではない。
見られることが不快になったわけでもない。
剛を怖がらせたいわけでもない。
ただ、もう試す気にはならなかった。
知らないものを、知っているつもりで扱うのはよくない。
それだけだった。
*
初めて。
その言葉が残っていた。
私にも、最初はあった。
当たり前だ。
忘れていたわけではない。
ただ、普段思い出す必要がなかった。
猿田だった。
十八歳のときだった。
そのころには、私はもう二年ほどSARUKANIにいた。
猿田を知っていた。
猿田も私を知っていた。
射撃を教わった。
狙撃を教わった。
人間を見ることを教わった。
撃ちたいときに撃つな。
当たるときに撃て。
射撃は当てる技術だ。
狙撃は、撃つべき時まで待つ仕事だ。
何度も聞いた。
腹が立つほど聞いた。
猿田は、私がSARUKANIへ来たころから変わらなかった。
軽かった。
よく笑った。
人の懐へ入るのが上手かった。
隊長とは違った。
蟹澤は、黙ってそこにいる人だった。
猿田は、自分から隣へ来る人だった。
私は猿田を信頼していた。
憧れてもいた。
たぶん。
それ以上だったのかもしれない。
当時は、区別できなかった。
*
一度だけだった。
何か劇的な夜だったわけではない。
任務が終わった。
酒を飲んだ。
話をした。
いつもより長く。
距離が近くなった。
猿田が私を見た。
私も猿田を見た。
どちらが最初だったのかは、もう覚えていない。
逃げなかった。
嫌ではなかった。
猿田は急がなかった。
私も止めなかった。
それだけだった。
翌朝になっても、世界は変わっていなかった。
猿田は猿田だった。
私は蜂だった。
恋人にはならなかった。
もう一度する約束もしなかった。
仕事では、今までどおりだった。
あれで何かが始まったわけではない。
何かが終わったわけでもない。
ただ。
最初だった。
猿田は、私に最初の扉を開けた。
そこから先を歩いたのは私だ。
その後、別の男も知った。
付き合ったこともある。
別れたこともある。
男の身体も、男が女を見る目も、特別なものではなくなった。
だから剛も、同じだと思った。
十九歳。
二年間、一人で生きてきた。
経験くらいある。
勝手にそう決めた。
そして、そのつもりで触った。
「…………」
M4を持ったまま、少し考えた。
私。
思っていたより、だいぶ酷いことをしたんじゃないだろうか。
*
「蜂」
栗だった。
「何」
「始めるぞ」
「分かってる」
「ぼうっとしてた?」
「してない」
「珍しいな」
「してない」
「二回言ったな」
「撃つ?」
「俺を?」
「うん」
「ごめんなさい」
栗が離れた。
私は照準器を確認した。
仕事をする。
考えるのはあとでいい。
*
訓練中の剛は変わらなかった。
右肩へM4を入れる。
左義手で支える。
撃つ。
動く。
見る。
自分の正面だけではない。
栗が入れば、その後ろ。
臼が止まれば、その理由。
私が見ていないところ。
「蜂、上」
見る。
標的。
撃つ。
「クリア」
剛が手を上げる。
それだけ。
仕事をしているときは、何も変わらない。
変わったのは私のほうだった。
休憩。
水を飲む。
視線。
来る。
分かる。
でも捕まえない。
少し経つ。
また来る。
捕まえない。
何度か繰り返した。
そのうち、剛のほうが不思議そうな顔をした。
どうして今日は見ない。
そう思っているのかもしれない。
知らない。
訊かれても困る。
*
午後、牛が剛を呼んだ。
「剛! ちょっと来んさい!」
「またかよ!」
「ええけぇ来い!」
工場棟へ入っていく。
私も少し遅れて入った。
SSG 08のケースを置いていたからだ。
中では牛が作業台を片づけていた。
「脱げ」
「何で毎回その言い方なんだよ」
「服着たままじゃ測れんじゃろ」
「せめてシャツ脱げって言え」
「同じじゃ」
「違う」
剛がTシャツを脱いだ。
私は足を止めた。
見ようとしたわけではない。
そこにいたから見えた。
そう思った。
剛の背中。
肩。
胸。
腹。
十六歳の身体ではなかった。
細い。
だが弱くはない。
余計な肉がない。
右肩から背中へ筋肉がついている。
右腕も太くなった。
左側は違う。
左上腕は途中で終わっている。
断端。
手術の痕。
皮膚の色が変わっているところ。
義手のソケットが当たる場所には、擦れた跡もあった。
脇腹に小さな傷。
右肩にも古い傷。
知らない傷だった。
剛は、長い間「男」ではなかった。
近所の子供。
親戚の子供。
そんな距離だった。
私は剛を知っている。
八歳の剛を知っている。
十歳も。
十二歳も。
十六歳も知っている。
そのあとの剛を知らない。
父親を撃たれた。
同じ弾で左腕を壊された。
手術。
切断。
リハビリ。
GHSCを辞めた。
一人で仕事を始めた。
十九歳になった。
言葉では知っている。
その三年間を、私は見ていない。
私の知っている剛と違う。
当たり前だった。
私はこいつの、この三年間を知らない。
牛が断端の周囲を測っている。
剛が何か文句を言っている。
声は昔から知っている剛だった。
身体は違った。
少年ではない。
雄として、成熟していた。
そう考えてから、自分で少し引っかかった。
雄。
そんな見方をしたことはなかった。
男である前に、剛だった。
ずっとそうだった。
「何?」
剛がこちらを見ていた。
目が合った。
「何でもない」
視線を逸らした。
遅い。
狙撃なら死んでいる。
唇をわずかに歪めて、苦笑した。
「何だよ」
「何が」
「今、笑っただろ」
「笑ってない」
「笑った」
「気のせい」
「それ俺に何回言った?」
「知らない」
「絶対笑った」
「牛」
「なんじゃ」
「早く測って」
「お前が邪魔しとるんじゃろうが」
「俺!?」
牛が測定具を持ったまま笑った。
*
外へ出た。
日が傾いていた。
工場の壁が赤くなっている。
剛はいつもの義手を手に取った。
断端をソケットへ収める。
位置を合わせる。
身体へ固定する。
その上からTシャツを着た。
慣れた動作だった。
私は見ていた。
今度は少し離れたところから。
剛は気づかなかった。
十九歳。
そう思えば簡単だった。
八歳から知っている剛。
そう思えば、もっと簡単だった。
どちらも間違ってはいない。
ただ。
どちらだけでも、もう足りなかった。




