第五章 PERSIMMON 第三話 剛
四日目から、訓練は日課になった。
朝は射撃。
日が高くなる前に長い距離を済ませ、昼からは建物を使った近接戦闘。夕方には車両を動かした。
ルスタヴィの東に広がる乾いた土地は、朝と昼で別の場所になる。
朝は冷える。
昼になると、岩とコンクリートが熱を持った。
空は相変わらず広かった。
日陰は相変わらずなかった。
そして工場棟からは、相変わらず音がしていた。
ギィィィン。
ガン。
ギィィィィン。
「……あいつ、本当に訓練しないな」
剛が言った。
栗がM4の弾倉を交換した。
「牛が銃撃ってる状況になったら、俺らが悪い」
「本人も似たようなこと言ってたな」
「だから働かせとけ」
その牛が、工場から顔を出した。
「剛!」
「何だ!」
「来い!」
「今かよ!」
「今じゃ!」
剛はM4を栗へ渡した。
「行ってこい」
「なんで俺だけ」
「お前の腕作ってんだから、お前以外呼んでもしょうがねえだろ」
正論だった。
*
工場棟の一角に、牛の仕事場ができていた。
小型の旋盤。
フライス盤。
ボール盤。
万力。
溶接機。
グラインダー。
工具箱。
金属材。
樹脂材。
義肢用らしい部品。
車両用の部品も混じっている。
何を作る場所なのか、一目では分からない。
牛には分かっているらしい。
「外せや」
剛は左腕の義手を外した。
左上腕の断端が露出した。
牛は測った。
紙へ数字を書く。
肩を動かさせる。
前。
横。
後ろ。
「痛いか」
「そこまでなら」
「ここは」
「平気」
「これは」
「ちょっと来る」
「ほうか」
牛がまた書いた。
作業台の上には、昨日までなかった金属の骨組みがある。
腕に見えなくもない。
腕には見えないとも言える。
「何作ってる」
「まだわからん」
「またそれか」
「作っとる途中なんじゃけぇ、分かるわけなかろうが」
「作ってる本人だろ」
「作りながら決めるんじゃ」
牛は剛の義手を返した。
「つけぇや」
「もういいのか」
「今日はの」
「今日は?」
「また呼ぶけぇ」
「いつ」
「知らん」
剛は義手を装着した。
工場を出た。
背後で旋盤が回り始めた。
*
栗は近距離では速かった。
単純に動作が速いのではない。
迷う時間が短い。
廃工場の事務棟を使った訓練で、剛が角の向こうを確認したときには、栗はもう次の入口を見ていた。
「遅い」
「分かってる」
「分かってんなら早くしろ」
「うるせえ」
二人が入れ替わる。
剛が前。
栗が後ろ。
標的。
剛が撃つ。
次。
右。
撃つ。
栗が止めた。
「もう一回」
「何が悪かった」
「悪くない」
「じゃあ何だ」
「もう一回見たい」
同じことをした。
今度は少し速く。
終わる。
栗が剛のM4を見た。
「……普通に使えるじゃねえか」
「二年これで飯食ってんだぞ」
「片腕でよくやったな」
「片腕しかないんだからしょうがないだろ」
「そういう意味じゃねえよ」
栗は自分のM4を肩へ掛けた。
「一人でやる動きとしては、もうできてる」
「褒めてんのか」
「珍しくな」
「気持ち悪いな」
「じゃあ取り消す」
臼はもっと単純だった。
組めば負ける。
剛が何をしようが、最後には地面にいた。
三度目に背中から落とされたところで、剛は仰向けのまま言った。
「お前、人間じゃないだろ」
「人間だ」
「百二十キロあるゴリラは、人間に入れていいのか」
「知らん」
「なんでお前までそれ言うんだよ」
臼が手を差し出した。
剛は右手で掴んだ。
引き起こされた。
勝てない。
それでいい。
蜂ほど撃てない。
栗ほど近くで迷わないわけでもない。
臼ほど強くない。
牛ほど機械も爆薬も分からない。
それでも二年間、剛は一人で生きてきた。
自分が何をできないかは知っていた。
できないことを、できるつもりになるほうが危ない。
*
五人で動くと、別のものが見えた。
廃工場の一階。
栗が左を取った。
臼が正面へ入る。
蜂は外から二階の開口部を見ている。
剛は右側へ回った。
それぞれが正しい。
それぞれが自分の仕事をしている。
なのに、一か所だけ空いていた。
「そこ、誰も見てない」
三人が一瞬止まった。
栗が振り返る。
「どこ」
「階段の裏」
栗が身体をずらした。
隠れていた標的が見えた。
「……ほんとだな」
次の日にもあった。
採石場跡の斜面。
蜂が遠距離。
栗と臼が下。
剛は右側を移動していた。
何かが引っかかった。
自分の正面ではない。
「蜂、右」
蜂のSSG 08が動いた。
一秒ほどして、遠くで標的が倒れた。
蜂がこちらを見た。
剛は手を上げた。
それだけだった。
指示したつもりはない。
見えたから言った。
栗だけが、少し長く剛を見ていた。
*
見えることが、全部いいとは限らなかった。
蜂が水を飲んでいた。
ペットボトルを傾ける。
顎が上がった。
日差しの下で、白い喉が伸びた。
一度、嚥下する。
その動きが首筋から鎖骨へ落ちていく。
剛は見ていた。
途中で気づいた。
ペットボトルへ視線を移した。
遅かった。
何が遅いのか、自分でも分からなかった。
蜂は何も言わない。
別の日。
空になった弾倉が地面へ落ちた。
蜂がしゃがんで拾う。
腰が沈んだ。
薄いTシャツの裾が少し持ち上がった。
背中から腰へ移る境目が、一瞬だけ覗いた。
剛の目がそこへ落ちた。
落ちてから気づいた。
何見てんだ、俺は。
顔を上げた。
蜂は弾倉をポーチへ戻している。
見ていない。
たぶん。
射撃ではもっと困った。
蜂が地面へ伏せる。
SSG 08を肩へ入れる。
脚を開き、身体を地面へ預ける。
以前なら、剛が見るのは姿勢だった。
肩。
肘。
頬。
銃床。
銃身。
今は、それ以外まで見えた。
Tシャツの布が背中へ沿う。
腰で細くなる。
そこからまた身体の線が変わる。
剛は視線を外した。
蜂は金髪だった。
蜂は射撃が上手かった。
蜂は美人だった。
剛にとっては、どれも昔から知っていることだった。
剛が八歳のころには、もう蜂がいた。
正確には、そのころからSARUKANIにいた。
血はつながっていない。
一緒に育ったわけでもない。
それでも、親戚の姉ちゃんに近かった。
近所にいる年上の幼馴染にも似ていた。
家族より少し遠い。
他人よりずっと近い。
だから蜂は、蜂だった。
女である前に、蜂だった。
その順番が、最近おかしい。
*
性的な欲求を知らないわけではない。
十九歳だった。
身体がどう反応するかくらい、とっくに知っている。
一人で処理したこともある。
だが、それは剛にとって、ひどく機械的なものだった。
身体が求める。
右手で刺激する。
済む。
終わる。
誰かの顔を思い浮かべる必要はなかった。
誰かの身体を借りる必要もなかった。
十六歳から十九歳までの三年間に、剛は左腕を失った。
父親を失った。
手術を受けた。
リハビリをした。
義手を覚えた。
GHSCを辞めた。
銃を持って飯を食うようになった。
それだけで三年が埋まった。
だから知らなかった。
身体の欲求に、特定の人間の顔がつくと、こんなに面倒になることを。
しかも。
なんで蜂なんだ。
*
「伏せて」
蜂の声。
M4を持って地面へ伏せる。
乾いた土が右肘に当たった。
右肩へ銃床。
左の義手でハンドガードを支える。
照準。
撃つ。
中央近く。
もう一発。
少し右。
三発目。
中央。
「肩、力抜いて」
後ろから声がした。
「抜いてる」
「抜けてない」
右肩を少し動かす。
撃つ。
中央。
「まだ硬い」
どこがだ。
二年間これで撃ってる。
これ以上抜いたら銃落とすぞ。
「これで硬いなら、どうしろってんだ」
「そのまま」
声が近くなった。
横で土が鳴る。
蜂が伏せた。
「違う。こう」
左側から腕が伸びてきた。
義手とハンドガードの位置を動かされる。
そのまま蜂の上体が背中へ被さってきた。
右腕が剛の肩越しに伸びてくる。
身体の角度が変わる。
近い。
近すぎる。
背中に何かが触れた。
柔らかい。
何だ。
構えを動かされる。
背中の感触も動く。
胸だ。
考えるまでもない。
胸だ。
匂いがする。
汗だ。
朝からこんなところで動いている。蜂だって汗くらいかく。
香水じゃない。
石鹸でもない。
汗だ。
なのに、なんで甘い。
甘ったるい。
息を吸う。
頭の芯が痺れる。
なんだこれ。
「肩、力抜いて」
耳のすぐそば。
吐息まで近い。
「……抜いてる」
「抜けてない」
また身体が寄った。
背中へ柔らかな圧がかかる。
匂いが濃くなる。
照準器を見ろ。
標的を見ろ。
蜂を見るな。
そもそも見えない背中にいる。
撃つ。
中央。
もう一発。
中央。
「そう。いい感じね」
何が。
射撃だ。
分かってる。
身体が離れた。
匂いが薄くなる。
「次」
動けない。
「剛?」
「待て」
「何?」
「……ちょっと待て」
視線が左腕へ落ちた。
「腕?」
「違う」
「じゃあ何?」
「…………」
地面を見る。
乾いた土。
小石。
空薬莢。
「地面を見てる」
蜂も地面を見た。
「…………?」
「いいから、ちょっと待て」
見る。
地面を見る。
今はそれでいい。
いや、地面しか見られない。
何なんだこれ。
小石。
空薬莢。
土。
全部どうでもいい。
どうでもいいから見てろ。
少し待つ。
もう少し。
ようやく身体を起こす。
「もういい?」
「いい」
「何だったの」
「何でもない」
蜂を見る。
まずい。
標的を見る。
「次やるぞ」
「そう」
それ以上は訊いてこなかった。
助かった。
たぶん。
*
眠れない。
目を閉じる。
蜂がいる。
目を開ける。
暗い天井。
寝ろ。
もう一度、目を閉じる。
白い喉。
違う。
消せ。
栗との建物。
明日は二階から入る。
臼との近接。
牛の義手。
PERSIMMON。
蜂。
しゃがんだときの腰。
違う。
消せ。
消える。
伏せた背中。
やめろ。
耳元の声。
肩、力抜いて。
寝返りを打つ。
忘れろ。
汗だ。
ただの汗の匂いだ。
分かってる。
なのに甘い。
また匂いがする。
いるわけがない。
蜂は別の部屋だ。
記憶だ。
分かってる。
なのに昼間より甘い。
頭の芯が痺れる。
背中に感触が戻る。
柔らかい。
体温。
声。
吐息。
匂い。
「……くそ」
目を開ける。
暗い天井。
身体のほうは、とっくに別の結論を出している。
無視する。
目を閉じる。
蜂がいる。
消せ。
消えない。
喉。
腰。
背中。
胸。
匂い。
声。
やめろ。
右手が伸びる。
いつもと同じだ。
刺激する。
済ませる。
終わる。
それで寝ろ。
目を閉じる。
蜂がいる。
違う。
これは昼間だ。
昼間の蜂だ。
蜂が近づく。
違う。
こんなことはなかった。
近い。
あの匂いがする。
触れる。
違う。
記憶じゃない。
分かってる。
蜂も触れてくる。
そんなことはなかった。
分かってる。
声がする。
身体が近い。
近すぎる。
昼間より近い。
これは記憶じゃない。
分かってる。
分かってるのに、続きを見ている。
止めろ。
止まらない。
蜂を消せ。
消えない。
右手を止めろ。
止まらない。
だったら。
もう。
いい。
*
蜂が消えた。
暗い天井があった。
受け止めたティッシュが、ずっしりと重くなっていた。
「…………最悪だ」
何やってんだ。
これまでとは違う。
身体を処理しただけじゃない。
蜂を抱くことを想像した。
蜂だった。
*
「おはよう」
「……おう」
パンを取る。
「何?」
「何が」
「顔」
「顔が何だよ」
「こっち見ないから」
「見てるだろ」
見る。
蜂と目が合う。
昨日の匂い。
馬鹿。
パンを見る。
「見てない」
「見たでしょ」
「今はな」
「変なの」
「うるさい」
蜂がコーヒーを飲む。
顎が上がる。
喉。
見るな。
パンを見る。
パンは安全だ。
*
訓練が始まれば問題ない。
撃つ。
動く。
見る。
考える。
栗が前へ出る。
後ろを見る。
臼が止まる。
理由を見る。
蜂が右。
右を使う。
仕事ならできる。
終わると駄目だ。
蜂が髪を結び直す。
見るな。
見る。
白い襟足。
馬鹿。
目を逸らす。
少し経つ。
また見る。
蜂がSSG 08を地面へ置いた。
スコープを確認している。
プラチナブロンドの髪が低い位置で揺れる。
見るな。
M4を見る。
見る。
蜂が顔を上げる。
M4の照準器を覗く。
間に合った。
蜂には気づかれていない。
たぶん。




