第四章 SARUKANI 第四話 臼
翌日の昼前。
牛の家の前に、一台の車が止まった。
濃紺のメルセデス・ベンツEクラス・エステート。
現行型ではない。
少し古い。
だが、手入れはされているようだ。
エンジンが止まる。
運転席のドアが開いた。
男が降りた。
大きかった。
決して小さくはないEクラスの運転席側が、はっきりと持ち上がった。
剛は窓越しに見て、それだけで分かった。
「臼」
栗が言った。
「見れば分かる」
蜂が言った。
「お前が言うな」
剛が返した。
玄関のチャイムは鳴らなかった。
三秒後。
ガレージ側のドアが開いた。
「勝手に入るなや」
牛が言った。
「開いていた」
臼が答えた。
「開いとっても入るなや」
「閉めておけ」
「ここはわしの家じゃ」
「知っている」
臼は旅行鞄を一つ持っていた。
黒いジャケット。
濃い灰色のシャツ。
ジーンズ。
それだけだった。
戦闘装備はない。
武器も見えない。
それでも、狭いガレージへ入ると空間が一段小さくなった。
百九十センチを超える身長。
百二十キロを超える身体。
三年前より少し髪が短くなった以外、ほとんど変わっていなかった。
臼が栗を見る。
「生きていたな」
「電話で言っただろ」
「確認した」
「そういう確認かよ」
蜂を見る。
「蜂」
「久しぶり」
「変わらないな」
「あなたも」
「嘘を言うな」
「少し老けた」
「それなら正しい」
最後に剛を見る。
数秒。
「大きくなったな」
「お前に言われると腹立つな」
臼の視線が下がった。
左腕。
「小さくなったな」
「どっちだよ」
「両方だ」
栗が笑った。
臼は笑わなかった。
剛の左上腕を見た。
「いつだ」
「三年前」
臼の顔が変わった。
「……あの日か」
「ああ」
「弾か」
「ああ」
「誰の」
「猿田」
臼は黙った。
剛が続ける。
「親父を抜けた弾だ」
臼の目が剛へ戻った。
「隊長を撃ったのは知っている」
「そこじゃない」
臼は眉をわずかに動かした。
「親父が猿田を襲ったって話だ」
「公式にはそうなっている」
「違う。親父は猿田に銃を向けてもいない」
臼は黙った。
「猿田が先に撃った。親父を抜けた同じ弾が、そのまま俺の左腕に入った」
臼の視線が、剛の義手へ落ちた。
*
全員が座った。
臼だけは立っていた。
「座れよ」
栗が言った。
「椅子が小さい」
「壊すなよ」
「座らなければ壊れない」
「そういう問題か」
牛が作業台の端を叩いた。
「ここならええじゃろ」
臼はそこへ腰を掛けた。
作業台が軋んだ。
全員が見た。
「大丈夫だ」
臼が言った。
「わしの台が言う台詞じゃ」
牛は嫌そうな顔をした。
剛が話した。
三年前のこと。
誠と猿田。
PERSIMMON。
銃声。
一発。
誠を抜けた七・六二ミリ弾。
左上腕。
意識を失ったこと。
目覚めたあと、公式には誠が腐敗した指揮官とされたこと。
猿田は誠を射殺したこと自体は認めていた。
ただし理由が違った。
誠が武装して抵抗したため。
正当防衛。
臼は一度も口を挟まなかった。
全部聞いた。
最後に剛が言った。
「親父は猿田を襲ってない」
「そうか」
「俺は見た」
「そうか」
「それだけ?」
栗が訊いた。
臼は栗を見る。
「何と言えばいい」
「普通もう少しあるだろ」
「ない」
蜂が言った。
「帰る?」
「帰らない」
栗が口を閉じた。
牛が小さく笑った。
「十分じゃろ」
*
「で」
臼が言った。
「何を調べている」
牛が資料を出した。
「PERSIMMONじゃ」
臼が紙を見る。
「名前は知っている」
「中身は?」
「知らない」
「お前もか」
栗が言った。
「隊長と猿田が何かやっていた。それだけだ」
牛が前日の資料を開いた。
「ほいじゃぁ、こりょお見てくれ」
三台の車両。
撤収時刻。
旧資料。
二二時四十分。
現行版。
二一時五十五分。
臼の目が止まった。
「違う」
牛が顔を上げた。
「何がじゃ」
「二一時五十五分ではない」
「覚えとるんか」
「覚えている」
「なんで」
「待たされたからだ」
栗が笑った。
「そういうのは覚えてるよな」
臼は続けた。
「三台で入った」
「うん」
「二台は先に出した」
「何時」
「正確には覚えていない。二十二時前だ」
牛が頷く。
「三台目は?」
「残った」
「誰と」
臼は参加者一覧を見る。
指で一人ずつ追った。
「俺」
次。
「隊長」
次。
「猿田」
それから別の二人。
「この二人」
牛が剛を見る。
「隊長は三台目じゃ」
剛は何も言わなかった。
牛が現行版を開いた。
「こっちじゃ、三台とも二一時五十五分に出とる」
「違う」
「三台目は?」
「二十二時半は過ぎていた」
「四十分?」
「そのくらいだ」
牛は椅子へ深く座った。
「ほぼ旧資料どおりじゃ」
蜂が訊いた。
「何を待ってたの?」
「人」
「回収対象?」
「ああ」
「誰?」
臼が少し考えた。
「男と、その家族」
剛が顔を上げた。
「家族?」
「妻と子供が二人」
牛が現行版を見る。
「こっちじゃ仲介人一人じゃ」
「違う」
「何者だった」
「知らない」
「隊長は何て言っとった」
「保護対象」
牛の指が止まった。
「保護?」
「そう言った」
臼は淡々と答えた。
「現地協力者ではなかった?」
蜂が訊いた。
「協力者ではあったと思う」
「何をしてた人?」
「知らない」
「猿田は?」
「知っていた」
全員が臼を見る。
「分かるのか」
剛が訊いた。
「隊長と話していた」
「何を」
「聞いていない」
「近くにいたんじゃないのか」
「いた」
「なら」
「聞く必要がなかった」
栗が言った。
「お前、本当に昔からそうだな」
臼は気にしなかった。
「隊長が運べと言った。だから運んだ」
牛が資料を見る。
「どこへ」
「国境近くの民間施設」
「GHSC?」
「違う」
「誰の施設」
「知らない」
「ほんま何も知らんの」
「必要なことは知っていた」
「それ以外を知らんのじゃ」
「そうだ」
牛が頭を掻いた。
*
「整理するで」
牛が言った。
今度は臼もいる。
三枚。
四枚。
五枚。
机の上へ並べる。
「旧資料じゃ、三台目は二二時四十分まで現場におった」
「実際そうだった」
臼が言った。
「隊長もおった」
「いた」
「猿田も」
「いた」
「回収したんは一人じゃない」
「家族四人だ」
牛が現行版を指した。
「こっちじゃ、回収対象は不正取引の仲介人一人」
「違う」
「ほんで、三台とも二一時五十五分に現場を出たことになっとる」
「違う」
「そうすると」
牛は次の報告書を置いた。
二二時十分。
別地点。
誠による指示。
「隊長はここに行ける」
臼が見る。
「行っていない」
「分かる?」
「俺と一緒にいた」
剛が臼を見る。
「ずっと?」
「少なくとも二十二時四十分までは」
「間違いない?」
「間違いない」
牛がパイプを咥えた。
火は入っていなかった。
「ほいじゃぁ一個潰れた」
「何がじゃ」
「この記録じゃ」
現行版の報告書を指した。
「隊長は二二時十分にここへおれん」
蜂が言った。
「つまり、この指示は出してない」
「少なくとも現地で直接は出しとらん」
「通信は?」
栗が訊いた。
「記録は?」
牛が探す。
無線。
衛星電話。
内部通信。
「ない」
「じゃあ?」
「この一行そのものが怪しいのぉ」
剛が言った。
「親父がやったことにするために作った?」
「そう見えるのぉ」
牛は旧資料を指した。
「でも面白いのはこっちじゃ」
「何がじゃ」
「家族四人を逃がしとる」
「逃がした?」
蜂が訊いた。
「臼の話じゃ保護じゃ」
「同じことじゃない?」
「意味が違う」
牛は現行版を開く。
「ここじゃ、その男は隊長の不正に関わっとった仲介人になっとる」
「うん」
「なら、隊長がそいつを逃がしたらどう見える」
剛が答えた。
「口封じ」
「それか」
栗が言った。
「共犯者を逃がした」
「そうじゃ」
蜂が静かに言った。
「でも実際は」
臼を見る。
「保護した」
「隊長はそう言った」
牛は机を指で叩いた。
「同じ移動じゃ」
一度。
「同じ人間」
二度。
「同じ車」
三度。
「同じ夜」
そして現行版を指す。
「意味だけ逆じゃ」
剛は何も言わなかった。
昨日よりさらに分かりやすかった。
父親が人を逃がした。
その事実だけなら同じだ。
だが。
誰から逃がしたのか。
なぜ逃がしたのか。
そこだけを変える。
証人を守った行為が。
共犯者を逃がした行為になる。
「これ」
栗が言った。
「かなり悪質だな」
「今さらか」
牛が返した。
「いや、そうじゃなくて」
栗は資料を指した。
「全部嘘にするとバレる」
「そうじゃ」
「でも本当にあったことを使えば」
「崩れにくい」
蜂が言った。
「しかも、実際に不正をしていた人間もいる」
「そうじゃ」
「その人たちは処分されてる」
「そうじゃ」
「会社は不正を摘発したことになる」
「そうじゃ」
「その中心が誠だったことにすれば」
蜂が止まった。
牛を見る。
「会社にとっても都合がいい」
牛は答えなかった。
数秒。
「会社だけかの」
臼が初めて牛を見る。
「何が言いたい」
「まだ言わん」
「なぜ」
「証拠が足らん」
「分かった」
栗が笑った。
「相性いいな、お前ら」
「よくない」
「そがぁなこたぁない」
また二人の声が重なった。
今度は臼まで少しだけ口元を動かした。
*
午後。
臼の記憶を使って、さらに三件を潰した。
一件。
現行版では誠が現場責任者。
実際には猿田が指揮していた。
二件目。
現行版では誠の承認で車両が動いた。
実際には現地管理部の別の責任者が許可していた。
三件目。
現行版では誠の指示で武器庫が開かれた。
臼はその場にいた。
「隊長はいなかった」
「誰がおった」
「猿田」
牛の手が止まる。
「また猿田か」
栗が言った。
「まだ決めんな」
牛が返した。
「俺まだ何も決めてないぞ」
「顔が決めとる」
「顔に文句言うな」
牛は記録を見る。
猿田。
現地管理部。
調達責任者。
輸送担当。
警備責任者。
名前が増える。
その中には事件後に切られた者がいた。
残った者もいた。
昇進した者もいた。
「これ」
蜂が言った。
名前を一つ指した。
「この人、今は地域統括」
牛が確認する。
「ほんまじゃ」
「こっちは?」
「調達部門の副責任者」
「事件後に昇進してる」
栗が言った。
「で、切られた連中は」
「下から中くらいが多いの」
牛が答えた。
「上は?」
「全部じゃない」
剛が訊いた。
「偶然?」
「それを調べるんじゃ」
「またそれか」
「便利じゃろ」
臼が資料を見る。
「猿田は」
誰も答えなかった。
牛が別の一覧を開く。
三年前。
SPU-3副長。
事件後。
特別調査協力。
内部監査案件への参加。
その後。
現場運用部門。
特別事業部門。
管理職。
現在。
より広い権限。
剛が画面を見る。
「上がってる」
「ああ」
「早い?」
「早いの」
「功績?」
「公式には」
牛が表示を拡大した。
「隊長の不正を発見」
次。
「調査へ協力」
次。
「武装抵抗を受け、射殺」
次。
「事件収束後も内部調査へ協力」
栗が低く言った。
「全部、あいつの手柄になってる」
蜂が言った。
「本当に不正だった人たちも処分されてる」
「ああ」
「なら会社から見れば」
剛が続ける。
「猿田は不正を暴いた側だ」
牛は何も言わなかった。
剛が画面を見る。
少し前まで。
猿田は裏切った。
父親を殺した。
それだけだった。
だが、形が変わり始めていた。
猿田はただ逃げたのではない。
事件のあとも会社に残った。
それどころか。
事件を使って上へ行った。
「なあ」
剛が言った。
「もしかして猿田は」
「まだ言うな」
牛が遮った。
「でも」
「まだじゃ」
牛は画面を閉じた。
「今分かっとるのは三つ」
指を一本立てた。
「不正は本当にあった」
二本。
「隊長は、その不正の中心に見えるよう記録を変えられた」
三本。
「その事件を処理した側に、猿田がおる」
剛が言った。
「それで十分だろ」
「十分じゃなぁ」
「何が足りない」
「順番じゃ」
「順番?」
「隊長が何をしよったか」
牛は古いPERSIMMONを指した。
「これが分からん」
蜂が言った。
「不正を調べてた」
「そう見えるのぉ」
「まだ?」
「まだじゃ」
牛は頑固だった。
「隊長が何を見つけた」
「誰を追っとった」
「どこまで届いとった」
「そのとき猿田は何を知っとった」
そして。
「いつ、猿田が向こう側へ回った」
誰も喋らなかった。
臼が言った。
「向こう側とは限らない」
全員が臼を見る。
「何?」
剛が訊いた。
「猿田は、誰かの下につくのが嫌いだった」
栗が鼻で笑った。
「それはそうだな」
「隊長の下にはいた」
蜂が言った。
「隊長だったからだ」
臼はそれだけ言った。
牛が臼を見る。
しばらくして、笑った。
「あんたぁ、たまにゃあええこと言うの」
「たまにとは何だ」
「そのままじゃ」
*
夕方。
資料は机だけでは足りなくなり、壁まで埋めていた。
車。
人間。
金。
武器。
作戦。
処分者。
残留者。
昇進者。
誠。
猿田。
線が増えた。
まだ一本にはならない。
だが、昨日まで見えなかった形があった。
剛が壁を見る。
「親父は、これ全部調べてたのか」
「たぶん」
蜂が言った。
「一人で?」
「猿田もいた」
栗が答えた。
剛はその名前を見る。
猿田伸吾。
三年前。
父親の隣にいた男。
父親を撃った男。
事件を処理した男。
そして。
そのあと上へ行った男。
臼が立ち上がった。
作業台が少し戻った。
「何だ」
栗が訊いた。
「腹が減った」
「そこ?」
「昼から何も食ってない」
「言えよ」
「今言った」
牛が時計を見る。
「七時か」
蜂が言った。
「何か頼む?」
「量が要るぞ」
栗が臼を見る。
「お前基準にするな」
「俺は普通だ」
「その身体で言うな」
臼は剛を見る。
「お前も食え」
「なんで俺」
「大きくなる」
「もう十九だぞ」
「まだ足りない」
「何がじゃ」
臼は剛の左腕を見た。
「全体が」
「だからどっちだよ」
蜂が笑った。
牛も笑った。
栗まで笑った。
臼だけが真顔だった。
三年前。
SARUKANIは散った。
いま。
栗がいた。
蜂がいた。
牛がいた。
臼がいた。
剛は壁に貼られた資料を見る。
まだ何も戻ってはいない。
父親も戻らない。
三年前も戻らない。
それでも。
散ったものが、一つずつ同じ場所へ集まり始めていた。




