第69話 生きていたアリス
声の主は、間違いなくアリスのものだった。
だが、いつもの滑らかな響きではない。
言葉の終わりに、息を継ぐような短い間があった。
「……ご無事でしたか。流石です」
『無事……ですか』
その一言だけが、妙に早く返ってきた。
水晶の向こうで、小さく何かが触れ合う音がした。
『……ええ。生きていますよ。今のところは』
笑い声が添えられる。
しかし、それは長く続かなかった。
『接続を切るのが遅ければ、こちらまで巻き込まれていたかもしれません』
「向こうへ出ていた肉体だけではなく……?」
『はい』
即答だった。
『魔力を奪われたのではありません。術を組んでいる繋がりそのものを、解かれていました。修復を始めても、元の形を作る前に引き離される。転移先へ繋ごうとしても、その線を辿られる』
アリスの声が、僅かに速くなる。
『何を作っても、間に合わなかったんです。あの中では……』
言葉が途切れ、ミリウスは水晶を見つめる。
ひび割れた表面の奥で、紫紺の光が大きく揺れた。
『切り離した後も、こちらの魔力が引かれていました。ほんの一瞬、もう少し判断が遅れていたら、わたしは──』
不自然な沈黙に、ミリウスは何も問い返せなかった。
あのアリスが、恐れている。
──あの怪物が。
何をされても笑い、傷つけられることさえ喜びへ変えていた彼女が、先ほどの数秒を語る言葉に詰まっている。
『……ふふ』
ようやく、笑い声がした。
『……本当に、驚かせてくださいますね。あんなものまで用意しているなんて』
いつもの声音へ戻そうとしている。
そのことが、嫌でも分かってしまった。
『わたしを消すために、あそこまで……』
声が細くなる。
すぐに言い直すように、明るい響きが重なった。
『それほど、わたしのことを考えてくださっていたんですね。嬉しいです。本当に』
ミリウスは、何も答えなかった。
嬉しいと語る声の下に、別の感情が残っている。
あの魔力塊の中で、何を見たのか、何を感じたのか、尋ねる気にはなれなかった。
少し間を置いて、アリスが続ける。
「おそらく、吸血鬼の力が関係していると思われます。ただ、あれを自在に扱えるのかは、まだ分かりません」
『まだ使い慣れていない、ということですか?』
「願望もありますが……」
そこまで言って、ミリウスは口を閉じた。
水晶の光が、また揺れる。
『……そうですか』
先ほどより、長い沈黙だった。
ミリウスは反射的に通路の奥を見る。
まだ距離はある。
こちらへ近づく気配もない。
それなのに、背筋の冷たさが消えなかった。
「加えて、ミナト様はあの術を使用している間も、周囲への障壁を維持されていました」
『ええ、見ていました』
「医務室を守る障壁も、そのままです。消化と呼ぶべきあの処理へ、全ての力を回していたわけではありません」
自分で口にして、喉が乾いた。
ミナトは、怒りに任せて全てを壊そうとしていたのではない。
守るものを残し、外への被害を抑えたうえで、アリスだけは消そうとしていた。
『……ふぅん。よく、見てるんだ』
アリスの声が落ちる。
ミリウスは思わず全身に震えが走った。
『ふふっ……失礼。では、引き続き確かめてください。彼が、どこまで変わったのか』
「……引き続き、ですか」
思わず言葉が漏れると、ミリウス自身がその響きに驚く。
『何か問題が?』
「いえ。ただ……」
握った指を、ゆっくりと開く。
「今のミナト様に、これ以上不自然な動きを見せるのは危険です。もし、こちらとの繋がりを疑われれば──」
『分かっています。ですが……』
『次にお会いするまでに、準備を整えなければなりません』
水晶の声が、僅かに震えた。
『もう二度と彼に会えなくなるなんて……そんなこと、許されませんから』
誰が許さないのか。
その言葉を、誰へ向けているのか、ミリウスには分からなかった。
ただ一つ、以前とは違うものが混じっている。
──彼に近づくためなら何でもするという執着。
その中へ、自分が本当に消されるかもしれないという恐怖が入り込んでいた。
『……採取の方は?』
その言葉に、ミリウスは袖口へ手を入れる。
取り出されたのは、銀糸で保護された二本の細い硝子管。
どちらにも、ごく少量の赤い液体が収められている。
眷属の男の視線が、その二本へ吸い寄せられた。
「まさか、それは……」
「セラ様と、カナデ様の血です」
男が息を呑む。
ミリウスは構わず、二本を水晶の前へ並べた。
「量はごく僅かですが、それぞれ別に保管しております。魔力の反応も残っています」
『……両方とも、確保できたのですね』
「はい。カナデ様の分は、医務室で治療に使われた布から。セラ様の分は、先ほど防御に使用された血から採取しました」
水晶の奥で、紫紺の光が緩やかに揺れる。
小さく息を吐く音がした。
『よくやってくれました。少なくとも、何も得ずに終わったわけではありませんね』
明確な安堵の声を聞くと同時に、眷属の男が顔を上げる。
「……あの騒ぎは、血を手に入れるためだったのか?あれだけのことをして……これだけを?」
『量の問題ではありませんよ、純血吸血鬼の血です。必要だからとお願いして、分けていただけるものでもないでしょう?』
男が口を閉じる。
ミリウスは水晶へ僅かに頭を下げた。
「可能であれば、私の方で身柄を確保する手筈でした。お手を煩わせることになり、申し訳ございません」
『気にすることはありません。彼がいる状況で、セラさんたちの拘束は難しかったでしょう』
「……はい」
本来なら、自分だけで済ませるはずだった任務。
アリスという切り札まで投入した挙げ句、得られたのは僅かな血液だけ。
結果だけを見れば、本当に最低限の成果しか残せなかった。
『今回のような接近は、当面控えましょう。得られたものを調べる方が先です。あの力へ、何の備えもなく触れるわけにはいきません』
「……仰る通りです」
ミリウスは答える。
同じ場面を、同じようにやり直すことはできない。
「純血と、繁栄の巫女の血か……」
男が唇を湿らせる。
その声には、畏怖と期待が入り交じっていた。
「これで本当に、始祖様を復活させられるのか?」
『可能性は大きく上がりました。もっとも、血を手に入れただけでは足りません。肝心の“核”がなければ、どれほど優れた血を集めても意味はありませんから』
「……セラ様と繁栄の巫女か?」
『それが最適だったのは確かですが、代わりがないわけでもありません』
男の表情が強張る。
しばし躊躇した後、外套の内側へ手を差し入れた。
取り出されたのは、両手で抱えられるほどの黒い箱。
表面には幾重もの古びた術式が刻まれ、鎖のような封印が巻き付いていた。
ミリウスの肌が粟立った。
「これが……」
封印されているにもかかわらず、明らかに異質な魔力を感じる。
セラのそれとも違う。
カナデが暴走した際の膨大な力とも違う。
ただそこに存在するだけで、本能が近づくことを拒絶するような圧迫感。
「約束の品だ」
男は慎重に箱を地面へ置いた。
「始祖の……心臓」
ミリウスはすぐには手を伸ばさず、ゆっくりと視線で追う。
あのアルドルフさえ恐れ、復活すれば全てが終わるとまで危惧する存在。
その核が、今、目の前にある。
『その反応だけで本物だと分かります。封印には触れないでください』
「よく持ち出せたものですね」
「里がこの有様だからな。長老は巫女に付きっきり。他の連中も救助で手一杯だ。封印庫なんて見張ってる余裕はない」
男は自嘲するように笑った。
「皮肉なもんだ。セラ様が守ろうとしてきた里が壊されたおかげで、俺たちは始祖様を取り戻せた」
「随分な言い草ですね」
「綺麗事じゃ寿命は延びない」
男は即座に返す。
「セラ様は何百年も同じことを繰り返してきた。眷属を作って、死なせて、また次を作る。今度は繁栄の巫女がいるから大丈夫だと言うが……」
男が自らの手を見る。
白い皮膚には、薄い亀裂のような模様が走っていた。
「俺には、その“今度”を待つ時間がない」
ミリウスは彼の魔力は確かに弱っているのを感じた。
眷属としての寿命が終わりに近づいている証拠だった。
「約束だったな。始祖様の心臓を渡す。その代わり──俺を死から解放する」
「ええ、もちろんです」
ミリウスは懐へ手を伸ばし、手のひらほどの薄い金属板を取り出す。
その表面には、エルドリックが使用していたものと酷似した紫紺の紋章が刻まれている。
男の紅い瞳が、大きく見開かれた。
「それが……?」
「試作型ではありますが、“不死の紋章”と呼ばれているものです」
「不死……」
男が呆然と繰り返す。
「正確には、永遠に死ななくなるわけではありません。肉体の損傷を自動的に修復し、生命活動を紋章そのものが補助するものです」
説明しながら、ミリウスの視線が紋章へ落ちた。
つい先ほど、再構築されるより早く解かれていった紫色の光が、脳裏を掠める。
「じゃあ、俺の寿命も……?」
「消えます」
ミリウスが即答すると、男の表情が明るくなる。
「ただし、現在あなたに残されている寿命は、紋章を肉体へ定着させる際に全て消化されます」
「……どういう意味だ?」
「今の身体で生きる時間を代価にして、紋章によって維持される新しい身体へ移行する、ということです」
男はしばらく黙り込んだ。
「……戻れないのか?」
「一度定着すれば、セラ様の眷属としての身体には戻れません」
遠くから、誰かの名前を呼ぶ声が聞こえた。
仲間を救出したのか、安堵の歓声も混じっている。
男は僅かにそちらを振り返った。
「…………」
長い沈黙の後、左腕を差し出す。
「やってくれ」
「よろしいのですか?」
「今更何を迷う。俺は死にたくない。それだけだ」
ミリウスは金属板を手の甲へ押し当てた。
「では、動かないでください」
紫紺の紋様が輝く。
「ぐっ……!?」
男の全身が大きく震え、紋章が皮膚へ沈み込む。
手の甲から腕へ。
腕から胸へ。
血管を這うように、紫色の光が全身へ広がっていく。
「ぐ……あああああっ!!」
男が膝をつく。
ミリウスはすぐに周囲へ銀糸を走らせた。
薄く編まれた膜が二人を囲み、叫び声が外へ広がるのを抑える。
「声を抑えて。まだ終わっていません」
「ぐ……っ、何を……!」
体内に残されていた魔力が、一気に失われていく。
否、吸い上げられている。
眷属として残されていた生命力そのものが、紋章の糧として消化されているのだ。
「耐えてください。ここで意識を失えば定着に失敗します」
「簡単に……言うな……!」
男が歯を食いしばる。
ミリウスは紋章へ意識を集中させながらも、通路の奥へ注意を向け続けていた。
誰かが来れば、説明はできない。
ましてや、ミナトが来れば……。
金属板を押さえる指に、余計な力が入った。
やがて、最後の紫紺の光が男の胸元へ収束する。
身体から力が抜け、一瞬だが呼吸さえ止まった。
そして──。
「──っ、はぁっ!!」
大きく息を吸い込み、男は自分の胸を押さえる。
「……痛く、ない」
荒れていた呼吸が徐々に落ち着いていき、手の甲に刻まれていた亀裂も消えている。
先ほどまで弱々しかった魔力反応も、別種のものへ変化していた。
「これが……不死……」
「定着は成功です」
ミリウスが金属板を離すと、板に刻まれていた紋章は消え、代わりに男の手の甲で淡く輝いていた。
『おめでとうございます。これで少なくとも、眷属としての寿命を恐れる必要はありません』
「アリス……様……」
『ただし、定期的な調整は必要です。帝国へ来てください。あなたの身体を詳しく調べさせていただきます』
「帝国に……?」
『住居も身分も用意しますよ。今後は協力者として、正式にお迎えします』
男が一瞬だけ迷う。
だが、すぐに手の甲へ視線を落とした。
死の恐怖から解放された証。
それだけで答えは決まった。
「……分かった。行こう」
『ありがとうございます。始祖の心臓、純血吸血鬼と繁栄の巫女の血。負け戦ではありましたが、最重要品は入手できました。ようやく次の段階へ進めますね』
水晶の紫紺の光がゆっくりと強まると同時に、ミリウスは始祖の心臓が入った箱へ手を伸ばした。
「では、確かに受け取ります」
「ああ」
箱を持ち上げる。
封印越しに、どくん──と、確かに、何かが脈打った。
「……まだ、生きているのですね」
『だからこそ価値があるんですよ。死体を蘇らせるのではありません。眠っているものを──目覚めさせるだけですから』
ミリウスは箱を見下ろした。
この中に眠るものが、どれほどの力を持つのか。
それを手中に収めた時、何が起きるのか。
以前なら、期待の方が大きかっただろう。
しかし今、頭から離れないのは別の光景だった。
紫黒い魔力塊──そこへ引き込まれ、形を失っていく術式。
そして、最後まで手を緩めなかった少年。
『……ミリウスさん、彼はこれからも強くなるでしょう。わたしたちが次の一手を考えている間にも』
水晶の光が、不規則に揺れた。
『同じ備えで、もう一度あれを受けるわけにはいきません』
「……承知しております」
『あなたも、くれぐれも慎重に。彼の傍へ戻った後は、いつも通りに振る舞ってください』
いつも通り──ミリウスは、自分の手を見た。
皮肉を言う、苦言を呈する。余裕のある顔で彼の行動を咎める。
あの力を見た後で、自分が何を隠しているのかを知ったまま。
『ミリウスさん、お願いしますね?』
その言葉には、以前のような圧迫感だけではないものがあった。
命令する彼女もまた、余裕を失いかけている。
「……全ては、アリス様の御心のままに」
ミリウスは一礼し、水晶の光が弱まっていく。
完全に途切れる、その直前──。
『……次は、間に合わせないと』
ほとんど独り言のような声が聞こえた。
笑い声も、添えられてはいなかった。
やがて水晶は光を失い、回廊へ静寂が戻ると同時に男が安堵したように息を吐く。
ミリウスは箱を慎重に下ろし、袖口を整え、襟を直し、呼吸をゆっくりと平常へ戻していく。
あとは、いつも通りの顔を作ればいい。
そうして視線を上げた時、遠くから聞き慣れた声が届いた。
──救助の指示を出す、ミナトの声だ。
「…………」
整えたばかりの呼吸が、一瞬だけ止まる。
ミリウスは誰にも見られない位置で、震える右手を押さえ込んだ。




