第68話 ミリウスの怯え
フレイアは、息をすることを思い出した。
目の前を隔てていた筒状の障壁が、静かに消えていく。
その中心には、ミナトだけが立っていた。
右腕を下ろしたまま、何もない空間を見つめている。
「終わった……の?」
問いかけた声が、思ったより小さくなった。
ミナトは自分の掌を見下ろす。
指を開き、一度だけ握り直した。
「……ここにいた奴は、消した」
「ここにいた……って、どういう意味だよ」
ニアが尋ねる。
ミナトはしばらく黙っていた。
「最後に、魔力の繋がりが切れた」
「繋がり?」
「どこかへ続いてた。それが何なのかまでは分からない」
疲労の滲む声だった。
だが、それ以上に伝わってくるのは、納得していないという感情だった。
「……殺せたとは、思えない」
ニアが言葉を失う。
あれほどの攻撃を受けても何一つ残さず消されても、まだ終わっていないというのか。
フレイアもすぐには返事ができなかった。
隣でミリウスが右の袖口を押さえている。
視線は、ミナトへ向けられたままだった。
「どこまで辿れたのですか?」
「何が?」
「……魔力の繋がりです」
説明が、一拍遅れた。
いつもの彼女なら、こうした言い淀みはほとんど見せない。
「途中までだ。切られた先は分からない」
「……そうですか」
ミリウスの指が袖口から離れる。
だが、下ろした手はすぐに握り込まれた。
何を、そこまで気にしているのだろう。
フレイアが口を開きかけた時、崩れた家屋の向こうから声が聞こえた。
「……誰か……」
「……生きてる?」
セラの顔が上がった。
ニアの肩から腕を離し、一度は足元を揺らがせながらも踏み留まる。
「あそこ。梁の下だ」
ミナトも顔を向ける。
次の瞬間には、もう身体が動いていた。
「ニア、手を貸せ。俺が瓦礫を浮かせる」
「お、おう!」
フレイアも後に続いた。
ミナトの魔力が倒壊した屋根を支え、重なった木材を持ち上げていく。
その隙間へ、ニアが身体を滑り込ませた。
「いた!二人……いや、奥にもう一人いる!」
「無理に引っ張るな。上をどかす」
「分かってる!」
二人の後ろで、セラが膝をつく。
瓦礫の下から伸びた手を、両手で包み込んだ。
「……ここにいる。今、助けるから」
その声は震えていた。
返事は弱い呻き声だけ。
それでもセラは、その手を離さなかった。
「フレイア。出てきたら、出血を止めてくれ。その後に治療する」
「ええ!」
彼の右手は、まだ震えていた。
アリスを取り込んだ時とは違い、今は重い瓦礫を支えるために開かれている。
どれほど心を乱されても、殺せなかったという思いに囚われていても、助けを求める声を聞き流すことはできない。
「ミリウスさん、そっちの梁を──」
振り向いた時、ミリウスはまだミナトの右腕を見ていた。
「……ミリウスさん?」
「わかっていますよ」
銀糸が走る。
折れかけた梁へ幾重にも巻きつき、近くの岩へ固定された。
「これでしばらくは持ちます」
「助かるわ」
ニアが最初の一人を抱えて出てきた。
「フレイアさん、頼む!」
「ここへ寝かせて!」
フレイアは膝をつき、傷口へ手をかざした。
別の場所からも、救助を求める声が上がる。
動ける眷属たちが集まり、互いに名前を呼び合いながら手を伸ばしていた。
その時、少し先で石材の崩れる音がした。
担架を運んでいた眷属たちが立ち止まる。
通路に傾いた柱を、ミリウスの銀糸が受け止めた。
「……このままでは、負傷者を運べませんね」
彼女は崩れた通路を見渡した。
「セラ様、医務室へは外側の回廊から回れますか?」
「ん。奥の分岐を曲がれば。でも、そっちも傷んでる」
「では、私が先に確認して参ります。補強しながらなら、通せる場所もあるでしょう」
ミナトが回廊へ視線を向けた。
次いで、固定された柱と、足止めされた担架を見る。
「分かった。頼む。異変があればすぐに呼んでくれ」
「承知しました」
フレイアは彼女の横顔を見上げた。
先ほどの視線と、右の袖口。
引っかかっていることは、まだある。
だが、搬送路の確保も、目の前の出血を止めることも、後回しにはできなかった。
「ミリウスさん。分岐まで確認したら戻ってきて。次の搬送を始めたいから」
「ええ。通れる区間からお知らせします」
ミリウスは頷き、待機する眷属たちへ声を掛けた。
担架を安全な場所へ寄せさせ、進路を塞ぐ瓦礫へ銀糸を伸ばす。
その作業を見届け、フレイアは負傷者へ向き直った。
◇
里の外縁へ続く回廊で、ミリウスは補強を続けていた。
亀裂の走った柱へ糸を渡し、足元の石材を脇へ寄せる。
運搬役の眷属へ通れる区間を伝え、その先へ進んだ。
仕事を装うだけでは、すぐに綻びが出る。
搬送路は、実際に使える状態にしておかなければならない。
表情も、呼吸も、意識して普段通りに整えていた。
だが、次の糸を繰り出す指先が震えた。
「…………」
掌を開くと、爪の痕が白く残っていた。
アルドルフとの決闘を目撃した時も、ミナトに直接制圧された時も、彼が自分の手に負える相手ではないことは理解していた。
それでも、どこかで線を引いていたのだ。
あの少年は、簡単には人を殺さない。
王家との関係を考える。
周囲への被害を気にする。
自分を排除した後の面倒まで、余計なほど考える。
だから、口答えができた。
条件を突きつけることも、わざと怒らせることもできた。
殺せるものなら殺してみろと、言えた。
だが──先ほどの右手が、脳裏に浮かぶ。
「……全く」
ミナトは、自分を殺せなかったのではなく、殺さずにいた。
その違いが、今になってひどく重い。
もし、彼にアリスとの繋がりを知られたら?
里の襲撃に、自分がどこまで関わっているかを知られたら?
──彼が自分を、あの少女と同じ側の人間だと判断したら。
「………」
ミリウスは息を吐き、次の柱へ糸を掛けた。
怯えている暇はない。
戻るまでに使える時間も、限られていた。
背後では、補強を終えた場所を最初の担架が通っていた。
いずれ次の経路を聞きに来る。長居をすれば、フレイアの方から迎えが来るだろう。
分岐の手前、崩れた魔力灯の傍らで足を止める。
補強する手は止めず、岩陰へ声を落とした。
「……出てきなさい」
衣擦れの音がした。
黒い外套を纏った男が、一人姿を現す。
白い髪と紅い瞳──間違いなく、セラの眷属だった。
だが、その手首には、里の正規の装いにはない紋様が刻まれていた。
「随分と派手にやってくれたな。話が違うぞ」
男が低く吐き捨てる。
「危うく我々まで巻き込まれるところだった」
「声を落としなさい」
「こっちは言われた通りに──」
「聞こえませんでしたか」
ミリウスの声音が冷える。
男が口を噤んだ。
「用件だけにしてください」
男は外套の内側に抱えたものを庇うように、僅かに身を引いた。
「……持ち出せたようですね」
「約束の品だ。だが、その前に確認させろ。本当に、取引は続いているんだろうな?」
「何が言いたいのです?」
「あの女は消された。お前も見ただろう。なのに、まだ──」
「アリス様は?」
ミリウスは男の言葉を遮った。
男は眉を寄せ、懐から小さな水晶を取り出す。
「……これか」
その表面には、細い亀裂が走っていた。
内部に灯る紫紺の光も弱い。
明滅の間隔は不規則で、今にも消えそうだった。
ミリウスが手を伸ばすより先に、そこから声が響く。
『……想定していたより、随分と危険でしたね』
消えたはずの少女の声だった。




