第67話 アリスの消化
「……ミナト様、まさかっ」
背後から、ミリウスの声が聞こえる。
俺の右手の上で、魔力が形を持ち始めた。
歪な球体。
幾重にも圧縮された力が、隕石のような塊となって膨れ上がる。
紫黒い表面を、細い光が亀裂のように走っていた。
「アルドルフ様との決闘で……!」
ミリウスの声音が変わった。
いつもの皮肉も、取り繕った余裕もない。
「ミナト様!その規模では──」
「大丈夫だ。外には出さない」
短く答える。
親父と戦った時は、まだ未完成だった。
引き寄せるだけで精一杯。
取り込んだものを処理しようとすれば、制御まで失いかねなかった。
だが、あれから何もしてこなかったわけじゃない。
吸血鬼の力を取り込んだ今の身体が、どこまで耐えられるか。
確かめるには、最悪の場所だ。
それでも──使う。
「ご希望通り見せてやるよ」
アリスを見る。
彼女の笑みが、僅かに薄くなった。
「本気をな」
右手の指を曲げる。
直後、障壁の内側へ凄まじい吸引力が広がった。
砂が舞い、砕けた石が宙へ浮く。
頭上の紋章陣から剥がれた瘴気が、細い筋となって魔力塊へ引かれる。
アリスの髪が、大きく靡いた。
「……なるほど」
踏ん張った靴が、土を削る。
彼女は魔力鎌を生成し、切先を地面へ突き立てた。
同時に背後へ紋章が浮かび、吸引に抗うように紫色の光が広がる。
だが、その光さえ引き剥がされた。
「っ……」
アリスの瞳が、僅かに見開かれる。
魔力塊に触れた瘴気が消えた。
もちろん、吸い込まれただけではない。
形を保つ繋がりを解かれ、幾筋もの流れへ分かれながら、アリスの魔力としての性質を失っていく。
「……あれは、何をしているの?」
「少なくとも、以前に私が見た時は引き寄せるだけでした」
フレイアの問いに、ミリウスが答えるのが聞こえた。
僅かな沈黙の後、アリスの鎌に亀裂が走る。
刃を構成する魔力が細い帯となって引き出され、魔力塊へ流れ込む。
支えを失った彼女の身体が、宙へ浮いた。
「捕まえたぞ」
その時、アリスの足元に小さな紋章が生じた。
吸引とは逆向きに、光が伸びる。
転移か?
俺は左手を向け、その輪郭へ魔力を叩きつけた。
紋章が閉じる直前、紫色の線が途切れた。
砕けた光が魔力塊へ吸い込まれていく。
「……せっかちな方ですね」
アリスが笑う。
だが、その視線は指先から離れなかった。
何度も紋章を作っては、生じた端から吸い取られていく。
そのたびに、指を動かす速度が増していった。
『あはは……少しだけ、待ってくれないかなぁ、兄さん』
耳元へ届く声に、初めて焦りが滲んだ。
「待つと思うか?」
出力を上げる。
腕の内側を、灼けるような痛みが走った。
外側の障壁が軋む。そちらへも魔力を分け、崩さず支える。
ここで制御を失えば、背後の連中まで巻き込む。
──怒りに任せるな。
──見失うな。
目の前にいる悪魔だけを、確実に。
アリスの身体が、魔力塊へ引き上げられていく。
伸ばした手が、その表面へ触れた。
「……っ!」
紫色の光が弾ける。
触れた場所から、彼女の輪郭が細かく崩れ始めた。
再生のために集まる魔力も、形を取り戻す前に引き離されていく。
腕が沈む。
続いて、肩が。
アリスは一度だけ、笑みを消して俺を見た。
それから、ゆっくりと笑った。
「……本当に、驚きました」
誰にでも聞こえる、丁寧な声。
「お見事です、ミナト様」
その直後──。
『──ここまでわたしのことを考えてくれてたんだね、兄さん♪』
俺にだけ届く声が、重なった。
背筋が冷える。
それでも、手は緩めなかった。
「……今度こそ、消えろ」
魔力塊が、アリスを呑み込んだ。
最後に残った微笑みも、紫黒い表面の向こうへ消えていく。
耳元に触れていた魔力の震えが途切れた。
静かになった。
だが、まだ終わりじゃない。
内部に意識を集中する。
取り込んだ力は、まだ幾つもの形へ戻ろうとしていた。
肉体を戻そうとする流れ。
紋章を作ろうとする流れ。
どこかへ伸びようとする、細い魔力の筋。
その全てを、圧縮した俺の魔力で包む。
一つずつ、解く。
繋がりを断ち、形を崩し、再び同じ術を組み上げられないところまで。
親父との決闘では使わなかった、この技の本来の用途。
──消化。
「…………っ」
眉を寄せる。
内部の魔力が、突然乱れた。
抵抗が強くなったわけではない。
むしろ逆だ。
奥へ奥へと伸びていた細い流れが、不意に途切れた。
張り詰めていた糸が、向こう側から切られたように。
(……何だ?)
切れた先を探る。だが、もう辿れない。
残るのは、魔力塊の内側に閉じ込めた力だけだった。
俺は歯を食いしばり、その構造を一つずつ崩す。
アリスの気配が薄れる。
魔術の構造がほどける。
再生しようとする動きが、完全に止まった。
巨大な魔力塊が、少しずつ縮んでいく。
内側に残ったのが、性質を失った魔力だけだと確かめてから、俺は開いていた指を閉じた。
もうそこには──何も残っていない。
アリスの姿も。
魔力鎌も。
頭上の紋章陣も。
今度は、再び集まり始める欠片すらなかった。




