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第65話 今度は──逃げないでくださいね?

 フレイアが駆けつけた時、セラは、砕かれたアリスの残骸を前に立ち尽くしていた。


 頬には返り血が付着している。

 それを拭おうともせず、ただ地面を見つめていた。


 頭上では、巨大な龍が輪郭を失いつつあった。

 操る者を失ったかのように、その身体は紫色の瘴気へと崩れていく。


 背後に浮かぶ紋章陣も、次第に光を弱めていた。


「セラ様!ニアくん!」


 フレイアは二人のもとへ駆け寄った。

 すぐ後ろには、ミリウスも続いている。


「二人とも無事!?一体、何が――」


 問いかけた声が途切れた。


 丘の向こうに広がる里は、つい先ほどまでとは別の場所になっていた。


 倒壊した家屋。

 焼け焦げた木々。

 瓦礫の間に横たわる、幾つもの人影。


 風に運ばれた灰が頬に触れ、焼けた木材の臭いが鼻を突いた。


「……何が、あったの」

「帝国の女だ」


 ニアが歯を食いしばる。


「交流戦でミナトと戦った、アリスって奴だよ。いきなりゲートから現れて、あの龍を……!」

「アリス・ルノワールが……?」


 忘れられるはずのない名前だった。


 ――あのアリスとかいう娘から授けられた、この力がある。


 かつて父と呼んでいた男が、確かに口にした名。

 エルドリックへ魔術紋章を与え、あの惨劇に関わっていた少女が、今度はこの里にまで現れたというのか。


 隣のミリウスは、何も言わなかった。


 地面に散らばる残骸へ目を向け、僅かに目を細めている。


「それより、カナデは?」


 ニアの問いに、フレイアは我に返った。


「医務室は無事よ。カナデちゃんも、まだ眠ってる。長老様たちが付き添ってくれてるし、ミナトくんの障壁にも異常はないわ」

「……そうか」


 ニアの肩から、僅かに力が抜けた。


「セラ様、お怪我は?」


 ミリウスが尋ねる。


 セラはしばらく答えなかったが、乾いた唇を小さく動かす。


「……平気。それより、救助を」


 里へ向けて、一歩を踏み出す。


 直後、その膝が崩れた。


「おい!」


 ニアが咄嗟に身体を支える。

 フレイアも反対側から肩へ手を回した。


「無理すんな。まともに立ててもねぇだろうが」

「でも……早く行かないと。まだ、生きてる子がいるかもしれない」

「分かってる。だから、オレたちにも手伝わせろ」


 セラは何か言いかけて、唇を噛んだ。


「……お願い」


 その声は、ひどく小さかった。


「ニアくん、セラ様をお願い。あたしが先に道を確認するわ」


 フレイアは周囲を見渡す。


 まだ終わっていない。

 瓦礫の下に、生存者が残されているかもしれない。


 もう救えない者がいたとしても、今生きている者まで諦めるわけにはいかなかった。


「……ミナトは?」


 ニアが頭上を仰いだ。


 ミナトは、静かに宙へ留まっていた。

 視線を地面へ落としたまま、動こうとしない。


「おーい、ミナト!下りてこいよ!まだ助けられる奴がいる!」


 返事はなかった。


 数秒後、ようやくミナトが降下する。

 地面に足をつけても、その視線はアリスの残骸から離れなかった。


「……なんつーか、今回はマジで助かった。けど、お前……」


 ニアの言葉が止まる。


 フレイアも、思わず息を呑んだ。


 ミナトの顔には、何も浮かんでいなかった。


 怒りも、憎しみも、安堵さえも。

 いつものぶっきらぼうな表情とは違う。目の前にいるのに、どこか遠くを見ているようだった。


「……ミナトくん?」


 呼びかけても、こちらを見ない。


 やがて、掠れた声が落ちた。


「……離れろ」

「は?」

「みんな、ここから下がってくれ」

「何言ってんだよ。あいつなら、もう――」

「まだ死んでない」


 断言と同時に、頭上で光が脈打った。


 消えかけていた紋章陣が、再び紫紺の輝きを取り戻す。


「な、何だよ……!?」


 紋章陣が逆向きに回転を始めた。


 周囲に漂っていた瘴気が吸い寄せられ、地面へと降り注ぐ。

 その光の中で、散らばっていた残骸が動いた。


「ふ……ふふ……」


 嗤い声がした。


 もう聞こえるはずのない声だった。


「嘘……」


 フレイアの喉から、かすかな声が漏れた。


 紫の光に引かれるように、残骸が一か所へ集まっていく。

 崩れていた輪郭が繋がり、腕が、脚が、顔が形を取り戻す。


 血に濡れていた髪さえ、何事もなかったかのように輝き始めた。


 セラが、フレイアの腕の中で小さく震える。


 僅か数秒──そこにはもう、黒いドレスを纏った少女が立っていた。


「はーい!アリスちゃんの復活で〜す♪」


 アリスは両腕を広げ、楽しげに笑った。


 アッシュブロンドの長髪。

 白い肌。

 エメラルドグリーンの瞳。


 先ほどまでの傷は、一つも残っていない。


「ふざけんなよ……不死身なのか、こいつ……!」


 ニアの声が震える。


 フレイアの脳裏には、エルドリックの傷が塞がっていった光景が蘇っていた。


 あの時も、紋章が輝いた直後だった。


 だが、これは傷を治すという範囲ではない。

 人の形さえ失っていたものが、元に戻ったのだ。


「……皆様、下がってください」


 最初に動いたのは、ミリウスだった。


 袖口から銀糸を伸ばし、アリスと自分たちの間へ張り巡らせる。


「ミリウスさん、あれが何なのか分かるの?」

「少なくとも、通常の治療とは違います。単に斬り伏せるだけでは、止められないのでしょう」

「そんなことは見りゃ分かる!」

「ですから、まずは距離を。ここで立ち尽くしていても状況は変わりません」


 いつもなら続きそうな皮肉はなかった。


 ミリウスはアリスから目を離さず、銀糸の位置を調整している。


 フレイアは頷き、ニアへセラを預け直した。


「ニアくん、ゆっくりでいいから下がって。あたしたちが間に入るわ」

「あ、ああ。ほら、セラ。掴まれ」


 二人が里へ下る道に向けて動き出す。

 フレイアも防御の魔力を練りながら、一歩ずつ後退した。


 その時だった。


 アリスの視線が、ふとミナトから外れた。


 彼の肩越しに、こちらを見る。

 正確には、フレイアの隣に立つミリウスを。


「…………」


 ミリウスも、アリスを見ていた。


 ほんの一瞬、銀糸を操る指が止まる。

 空いている左手が右の袖口に触れ、僅かに引き下げた。


 アリスの目が、その手元へ落ちる。


 そして、すぐにミナトへ戻った。


(……今の)


 胸に、小さな違和感が残った。


 言葉は交わしていない。

 頷いたわけでも、明確な合図を送ったわけでもない。


 それでも今の一瞬だけは、二人が何かを確かめ合ったように見えた。


「ふふっ……やっぱり、来てくれたんですね」


 アリスの声に、フレイアは意識を引き戻される。


「本当なら、もう少し落ち着いてお話ししたかったのですが。随分と手荒なご挨拶でしたね、ミナト様?」


 ミナトは答えなかった。


 アリスが一歩近づく。


 直後、二人の間へ魔力刃が突き刺さった。

 乾いた破裂音と共に、土が跳ねる。


「近づくな。殺すぞ」


 低い声だった。

 怒鳴ってはいない。


 それなのに、フレイアは背筋まで冷たくなった。


 アリスは足を止め、地面に突き立つ刃を眺める。


「そんなに警戒しなくてもいいのに」

「……寄るな」

「聞こえていますよ?ちゃんと、聞いてます」


 穏やかな返答だった。


 だが、言葉を受け入れた様子はない。

 拒絶を向けられているというのに、アリスは嬉しそうにミナトを見つめていた。


 ミナトの左手が、僅かに震える。


 視線だけが、アリスの顔から頭上の紋章陣へと動いた。

 構えた魔力刃は下げない。


「……おや」


 不意に、アリスがこちらを向いた。


「フレイア・エアハート様もいらしたんですね」


 名前を呼ばれ、足が止まる。


 アリスは胸元へ手を添え、丁寧に会釈した。


「お父様には、大変お世話になりました」


 指先が冷たくなった。


 あまりにも場違いな挨拶だった。

 社交の場で交わすような、穏やかで礼儀正しい笑顔。


「……あの人に、力を与えたのはあなたね」

「ええ、ご本人が強く望まれましたので」

「……その結果、どれだけの人が傷ついたと思ってるの」

「使い方をお決めになったのは、お父様ですよ?」


 アリスは、少しも笑顔を崩さなかった。


「国王というお立場だけでは、ご満足いただけなかったようですね。わたしは、望みを叶えるお手伝いをしたまでです」

「だから、あなたには関係ないとでも?」

「いえいえ、無関係だなんて言いませんよ」


 アリスが首を傾げる。


「貴重な結果を残していただいたことには、感謝しています」

「……結果?」


 あの人の最期を、そう呼ぶのか。


 エルドリックが自分の意思で行動したことは、分かっている。

 すべてを目の前の少女のせいにすれば済む話ではない。


 それでも、あの惨劇を振り返りながら笑っていられることが、理解できなかった。


「最後は、ご自身の手で終わらせたそうですね」

「……っ」


 剣を握った時の感触が、掌に蘇る。


 震える切先。

 足元に横たわる、かつての父。


 ――さよなら、お父さん。


 ようやく口にした別れの言葉まで、胸の奥から引きずり出される。


「ご立派です。長年慕っていたお父様でも、不要になれば切り捨てられるなんて」

「……違う」


 かすれた声が漏れた。


「おや、そうなんですか?」

「あたしは……」


 言い返そうとして、止まる。


 憎かった。

 許せなかった。


 それでも、父であってほしかった。


 そのすべてを、こんな相手に説明したくなかった。

 説明しても、きっと笑われるだけだ。


 フレイアは唇を結び、剣を握っていない方の手を強く閉じた。


「お父様を失って、今度はミナト様ですか。頼れる殿方が側にいてくださって、よかったですね」


 アリスの声が続く。


「ですが、相手は選ぶべきでしょう?ミナト様のお優しさに、いつまでも甘えていては困ります」

「……困る?」


 その言葉だけが、妙に耳に残った。


「誰が、困るっていうの?」

「わたしです♪」


 少しの躊躇いもない返答だった。


 アリスの視線がミナトへ向かう。


 彼が指先を動かしただけで、その瞳が細まった。

 自分を拒むために構えられた刃さえ、愛おしいもののように眺めている。


「わたしの知らないところで、彼が誰かを大切にしているのは……非常に不愉快ですから♪」


 恥じらっているようにも聞こえる声音。


 だが、再びフレイアへ向けられた目からは、温度が消えていた。


「たかが数回助けてもらっただけで、彼の隣がご自分の居場所になったなどと、勘違いなさらないでくださいね?」

「それを決めるのは、あなたじゃないでしょう」


 声は震えていた。


 それでも、その言葉だけは聞き流せなかった。


「ミナトくんが誰を大切にするかは、彼自身が決めることよ」

「ええ。ですから、今度こそはちゃんと分かっていただくつもりです」


 アリスは当然のように頷いた。


「何度でも、どれだけ時間がかかっても構いません。彼自身が、自分の帰るべき場所を思い出してくださるまで――」

「やめろ」


 ミナトの声が、言葉を断ち切った。


 彼が僅かに立ち位置を変える。

 それだけで、フレイアとアリスを結ぶ視線が遮られた。


「……おや」


 アリスはゆっくりとミナトを見上げる。


「そんなに彼女が大切なんですか?」

「黙れ」

「それとも、わたしが彼女と話していることへの嫉妬でしょうか?」

「黙れって言ってるだろ」


 空気が軋んだ。


 ミナトの周囲で魔力が濃くなり、地面の小石が浮き上がる。


 嫉妬……その感情なら、フレイアにも分かる。

 自分だって、ミナトが他の少女と親しげにしていれば面白くない。


 が、目の前の少女が口にしているものは、それだけではなかった。


 分かったうえで、聞き入れるつもりがない。


 拒絶でさえ、自分へ向けられた感情として喜んでいる。


「フレイア、ミリウス」


 ミナトが二人の名を呼んだ。


「ニアとセラを連れて下がってくれ。こいつの相手は俺がする」


 彼は振り返らない。


 下ろした左手が、固く握られていた。

 関節が白くなるほど力を込めても、その震えは止まっていない。


 フレイアの胸が痛んだ。


 ――俺さ、大切な人がいたんだ。


 以前、彼が打ち明けてくれた言葉。

 普段からは想像もつかない、寂しげな横顔。


 そして今、アリスへ向けられている拒絶と殺意。


 一瞬、ある考えが浮かんだ。


 だが、確かめるのは今ではない。

 ここで問い詰めても、彼の負担を増やすだけだ。


「……分かったわ」


 フレイアは頷いた。


 少し先では、ニアがセラを支えながら待っていた。

 セラはまだ、焼けた里から目を離せずにいる。


「ニアくん、そのまま下がって。あたしたちが後ろにつくわ」

「あ、ああ。ほら、行くぞ」

「……まだ、救助が」

「分かってる。まずここから離れて、それからだ」


 セラは唇を震わせた後、小さく頷いた。


 フレイアは隣のミリウスへ声を掛ける。


「ミリウスさん。あたしと二人で後ろを守りましょう」

「……承知しました」


 返答までに、僅かな間があった。


 ミリウスは銀糸を引き寄せ、フレイアの隣へ移動する。

 表情はいつも通りだった。


「カナデは、医務室だな?」


 前を向いたまま、ミナトが尋ねた。


「ええ。長老様たちが付き添ってくれてる。まだ目は覚ましていないわ」


 答えを聞くと、彼の指先が動いた。


 遠く、医務室のある方角で淡い光が瞬く。

 すでに張られていた障壁へ、さらに魔力が注ぎ込まれたらしい。


 アリスの目が、その光を追った。


「やっぱり、こっちでも大切な人ができちゃった?」

「お前には関係ない」

「ふぅん……またそうやって、わたしだけ仲間外れにするんだ」

「関係ないって言ってるだろ」


 ミナトの足元で、地面に細い亀裂が走った。


 アリスはそれを見て、嬉しそうに笑う。


 フレイアは後退しながら、二人の間に流れる空気を見つめていた。


 エルドリックは、ミナトの力を前にして怯えていた。

 傷つけば怒り、追い詰められれば取り乱し、どうにか勝とうと足掻いていた。


 だが、この少女は違う。


 傷つけられても戻ってくる。

 拒絶されても、その拒絶を自分へ向けられることに喜んでいる。


 ミナトの力を見ているはずなのに、恐怖がない。


「ミナトくん」

「……何だ」

「無理はしないで」

「いいから、下がってろ」


 突き放すような返事だった。


 しかし、その直後に薄い魔力障壁が、フレイアたち四人を包み込んだ。


 フレイアは、身体を覆う光へ目を落とす。


 あの日、エルドリックの前で震えていた自分を守ってくれたものと、同じ魔力だった。


 どれほど表情を失っていても。

 どれほど心を乱されていても。


 彼はまだ、こちらを気にかけている。


 ならば、今はその気遣いに応えなければならない。


「……後ろは、あたしたちが守るから」


 返事はなかった。


 それでも聞こえていると信じて、フレイアはニアたちと共に距離を取った。


 アリスはもう、彼女たちを見ていなかった。

 先ほどのミリウスとの視線の交錯など、初めからなかったかのように。


「では、仕切り直しましょうか」


 アリスが右手を上げる。


 頭上の紋章陣が、ゆっくりと回転を始めた。


 周囲に残っていた紫色の瘴気が集まり、巨大な輪郭を描き出す。


「おい……まさか、また……!」


 ニアが足を止めかける。


 紋章陣の向こうで、赤い眼が開いた。


 先ほど里を焼いた龍が、再び頭部を現す。

 牙の並ぶ口が開き、その奥へ紫紺の光が収束していった。


 フレイアは防御の魔力を練り直した。

 隣では、ミリウスの銀糸が幾重にも広がっていく。


 前方で、ミナトが一歩進み出た。


 龍と、背後で傷ついている者たちの間へ。


 その下で、アリスはミナトだけを見つめていた。


 彼が背を向けないことを、確かめるように。

 その視線の先に、自分がいることを喜ぶように。


 最後に、微笑んだ。


「今度は──逃げないでくださいね?」

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