第63話 兄としての意地。500歳児の『恋』
翌朝、吸血鬼の里の最奥にある丘陵地帯。
地上では夜が明けている頃だが、地下の里には淡い魔力の明かりが灯っているだけだった。
その光を受け、百を超える墓標が静かに並んでいる。
列の端には、まだ土の新しい墓が増えていた。
セラはその前に膝をつき、両手を合わせていた。
「……守れなくて、ごめん」
囁きは、草を揺らす風に紛れて消える。
ミリウスの襲撃で命を落とした眷属たちは、すでに棺へ収められ、ここに埋葬されていた。
つい昨日まで、里で暮らしていた者たちだ。
声をかければ振り返った。
名を呼べば答えてくれた。
けれど、もう誰も応えない。
「私は、いつも遅い」
膝の上で拳を握る。
涙は出なかった。悲しくないわけではない。ただ、胸の内に重いものが沈んだまま、動いてくれなかった。
「カナデの魔力で、寿命は延びる。でも……その先は?」
掌に、小さな紅い光が灯る。
この力で守れるものがある。
それでも、守れなかった者たちが、目の前に眠っている。
ミリウスの言葉が蘇った。
──始祖を復活させる。再び吸血鬼が世界を支配する。
そうすれば、人間に怯える必要はなくなるのだろうか。
次に失うのは誰なのかと、毎日恐れずに済むのだろうか。
だが、その先に浮かぶのは、平穏な里ではなかった。
悲鳴。
血の海。
踏みにじられる命。
五百年前と同じ光景だった。
「……嫌だ」
掌の光を握り潰す。
誇りのためだと、言った。
同じ過ちを繰り返さないと、言い切った。
けれど、本当は怖いだけなのではないか。
自分の選択に、そんな立派な理由を与えているだけではないのか。
──よく耐えたな。
不意に、ミナトの声が蘇る。
「違う。私は、ただ……臆病なだけなのに」
それでも、あの言葉を思い出すと、胸の痛みが少しだけ和らいだ。
自分では認められないものを、彼は見つけてくれる。
それに救われていることも、否定できなかった。
セラが再び俯いた、その時だった。
「おう、ここにいたのか」
背後からの呼び声に振り返る。
墓地へ続く道に、ニアが立っていた。
「カナデの兄。何か用?」
「いやまぁ……少し、話でもできねぇかと思ってよ。昨日のミリウスさんの一件で、色々考えさせられたからな」
「キミが、私と?」
思わず聞き返す。
ニアとは、顔を合わせれば言い争ってばかりだった。何かにつけて再戦を要求してくる、騒がしい男。
そんな彼が、自分から話しに来るとは思わなかった。
「カナデのこと、まだ許したわけじゃねぇけどよ。お前なりに必死だってのは伝わった」
「別に、恨めばいい。慣れてる」
「あぁ、可愛くねえ。そういうところ、やっぱ嫌いだわ」
ニアは苦笑して、セラの隣に立った。
その目に、以前のような敵意はなかった。
「……カナデのことは、申し訳ないと思っている。特に、肉親であるキミには」
セラが告げると、ニアは少しだけ目を見開いた。
「まあ……あいつ自身が選んだことでもあるしな。全部お前のせいだとは言わねぇよ」
「ん」
「でも、次からは先に説明しろ。危険なことも、都合の悪いこともだ」
「……分かった」
短く答え、セラは墓標へ視線を戻す。
ニアも、並ぶ墓を見渡した。
「つーか、こんなところ見ちまったらな。お前が里を守りたいってのは、嫌でも分かる」
「当然。ここだけが、私の最後の居場所だから」
「ここだけ、か……」
ニアは何かを言いかけて、口を閉じた。
しばらく、草を撫でる風の音だけが続く。
「あのさ。ミリウスさんが言ってた、始祖云々の話だけど」
「私は頼らない」
「だよな。なら、あの人の言うことなんて気にすんなよ」
「言われなくても分かってる」
即答すると、ニアは肩を竦めた。
それから少し間を置いて、再び口を開く。
「……なぁ。母さんって、どんな人だったんだ?」
「ユリシア?」
思いがけない名に、セラは顔を上げた。
「ああ。オレたちが知ってるのは、家にいた頃の母さんだけだ。吸血鬼として、どんなふうに生きてたのかは何も知らねぇ。爺さんも、あんまり話したがらねぇしな」
ニアは墓標を見つめたまま続ける。
「お前なら、何か知ってるんじゃねぇかと思ってよ」
「……知ってる」
「やっぱりか」
小さく息を吐いてから、ニアは尋ねた。
「どんな人だった?」
「カナデに似てた」
「カナデに?」
「ん。すごく」
あまりに迷いのない答えだったため、ニアがこちらを見る。
「写真だと、そこまで似てるようには見えなかったけどな」
「目元とか、笑った時の顔。でも、一番似てるのは性格」
「……マジで?」
「明るくて、うるさくて、お節介で、後先を考えない」
「おい。母さんの思い出を話してるんだよな?」
「話してる」
「悪口じゃなくて?」
「褒めてる」
ニアは呆れたように頭を掻いた。
セラは墓石へ指を添える。浮かんできたのは、いつも人の忠告を聞かず、笑って手を振るユリシアの姿だった。
「困ってる人を見ると、放っておけなかった。自分には関係なくても首を突っ込む。危険だと言っても聞かない。何度止めても、勝手に人間の町へ行ってた」
「……あー」
ニアが、何とも言えない顔をする。
「確かにカナデだわ」
「だから、そう言ってる」
セラの口元が僅かに緩んだ。
だが、その笑みは長く続かなかった。
「でも、そんなユリシアも、人間に殺された」
隣の気配が強張る。
セラはそこで、自分が何を言ったのかに気づいた。
「……ごめん。無神経だった」
「珍しく素直に謝るんだな」
「私だって謝罪くらいする」
「へいへい、悪かったよ」
ニアは笑ってみせたが、墓標へ向けた目は伏せられていた。
セラも、それ以上は彼を見なかった。
「少なくとも、私の知っているユリシアは、人間を嫌いにはならなかった」
「……そうなのか?」
「里を出る時も言ってた。悪い人もいる。でも、優しい人もいるって」
「母さんらしい、のかねぇ」
「らしい」
今度も、迷わず答えた。
「私には理解できなかった。家族も、仲間も、人間に殺された。なのにユリシアは、人間を信じようとした」
墓前の白い花が、風に揺れる。
「だから、強い人だったと思う」
ニアが静かにこちらを見た。
「……そうか」
「力は大したことなかったけど」
「一言余計なんだよ!」
「事実」
「お前、本当にそういう奴だよな……」
ニアは頭を抱えた。
けれど、今度の声には怒りよりも、呆れた笑いが混じっていた。
しばらくして、ニアは腰の剣へ手を添える。
「なぁ。今から、オレと一戦やってくれねえか?」
「……は?」
話の飛び方に、セラは眉を寄せた。
しかし、ニアの顔は真剣だった。
「モヤモヤすんだよ。母さんが実は吸血鬼で、その力を受け継いだのは妹で。今じゃ里の連中から、繁栄の巫女なんて呼ばれてる」
「それが?」
「整理がつかねぇんだよ。同じ母親から生まれたのに、オレにはカナデみたいな力はねぇ」
剣の柄を握る指に、力がこもる。
「……悔しいの?」
「そりゃ、悔しいだろ」
ニアは低く答えた。
「これでも、カナデを守るために騎士団に入ったつもりだったんだ。なのに、結局ミナトに助けられてばっかりで……今度は、妹にまであんな力を見せつけられてよ」
「情けない」
「おまっ、そこは慰めるところだろ!」
抗議を聞き流しながら、セラは立ち上がる。
「ここじゃダメ」
「……相手してくれんのか?」
「墓を傷つけたら、許さない。ついてきて」
ニアが一瞬きょとんとした後、口の端を上げた。
◇
二人が移動したのは、墓地から丘を一つ越えた先にある平地だった。
周囲に家はなく、足元には砂利と乾いた土が広がっている。
セラは数歩離れて振り返った。
「私に一撃でも当てられたら、キミの勝ちでいい」
「舐めてんのか?前は勝率53パーセントとか言ってたよな?」
「あれは嘘」
「……は?」
ニアの顔が引きつる。
「ミナトに同行してもらうため。私の実力を低く見せておけば、カナデの護衛を任せきりにはしないと思った」
「てめぇ……」
「本気で戦うなら、私の勝率は90パーセント以上」
「上等だ。後で吠え面かくんじゃねぇぞ」
ニアが長剣を抜く。
セラも掌に血液を集め、細身の刃を形成した。
「キミは、魔力で剣を作らないの?」
「あいにく、あんたらみたいな魔力ゴリラじゃねぇんでね!」
言い終えると同時に、ニアが踏み込んだ。
鋭い一閃。
セラが血の刃を合わせると、硬い音が平地に響いた。
「魔力量に反して、力はある」
「褒めてくれんのは嬉しいけどよっ!」
ニアは止まらない。
刃を滑らせ、セラの剣を外へ押し流す。そのまま手首を返して横薙ぎに払い、避けた先へさらに踏み込んだ。
セラが半歩退く。
すぐに次の斬撃が迫った。
「……思ったより器用」
「当たり前だ!こっちはガキの頃から基礎の基礎から叩き込まれてんだよ!」
踏み込みにも、剣の返しにも無駄が少ない。
魔力で押し切ろうとせず、相手の姿勢と刃の向きを見て攻めてくる。
セラは僅かに目を細めた。
「剣術だけなら、少し分が悪い」
次の瞬間、ニアの剣が血の刃を大きく弾き上げた。
セラの手元が空く。
「もらった!」
胴を狙った一撃が迫る。
だが、セラは慌てなかった。
「でも、剣術に付き合う必要はない」
「なっ!?」
弾かれた血の刃が、空中で旋回した。
ニアの背後へ回り込み、逆方向から襲いかかる。
咄嗟に身を捩ったが、間に合わない。
「ぐっ……!」
右腕に傷が走り、剣先が下がった。
セラは距離を取り、血の刃を手元へ戻す。
「降参を勧める」
「クソ……舐めんなよ!」
ニアは傷口を押さえ、歯を食いしばって立ち直った。
剣を握り直そうとするが、右腕が思うように動かない。
「剣を持つのがやっと。私は半分の魔力も出してない。もう無理」
「舐めんなって言ってんだろうが!」
セラは小さく息を吐いた。
「……なら、終わらせる」
周囲に浮かべた血液が、無数の針へ変わる。
その切先が、一斉にニアへ向いた。
「ちっ……あの時のカナデが使ってた技か」
「繁栄の巫女ほどの出力はない。でも、キミに耐えられる?」
「やってみなきゃ分かんねぇだろ!」
ニアが地面を蹴った。
同時に、血の針が放たれる。
「うおおおっ!」
長剣が閃き、迫る針を弾き飛ばした。
一本、二本。
しかし、すべては防ぎきれない。
腕や脚を掠めた針が、衣服を裂く。
それでもニアは足を止めず、身を低くして前へ出た。
「……馬鹿なの?」
「うっせえ!まだだ!」
右腕が下がる。
そのまま膝をつくかと思われた瞬間、ニアは左手へ剣を持ち替えた。
踏み込みを止めず、低い位置から刃を跳ね上げる。
「油断したな!?」
予想外の角度だった。
セラが身を引くより早く、剣先が腹部を捉える。
衣服が裂けた。
──かに見えた。
「っ!?」
セラの姿が、煙のように崩れた。
斬ったはずの感触が、手に残らない。
ニアが目を見開いた直後、首筋へ冷たいものが触れた。
「分身。吸血鬼の固有能力」
背後から、平坦な声がした。
本物のセラが、血の刃を添えて立っている。
「ここまで」
「……反則だろ」
しばらく動かなかったニアは、やがて剣を下ろした。
そのまま地面へ座り込む。
「あー、くそ!やっぱり無理か!」
「戦闘技術は評価する。魔力量と経験の差があっただけ」
「後者はともかく、前者はどうしようもねぇな……」
項垂れるニアの前で、セラは膝をついた。
掌に紅い魔力を集め、傷ついた腕へかざす。
「動かないで」
「ん?」
「治療。ミナトみたいに万能じゃないけど、このくらいなら」
紅い光が傷口を覆う。
血が止まり、裂けた皮膚が少しずつ塞がっていった。
「……サンキュ。そんなこともできるんだな」
「再生能力の応用」
処置を終えると、ニアは右手を何度か握り、肘を曲げ伸ばしした。
それから、大きく息を吐く。
「なんかよ。お前とやり合って、少しスッキリしたわ」
「負けたのに?」
「負けたからだよ」
ニアは地面に置いた剣を拾った。
「剣なら、少しは通用したんだろ。だったら、オレはそこを磨くしかねぇ。ないものばっかり欲しがってても仕方ねぇしな」
「……格好つけてる」
「うるせぇ」
「格好悪い」
「お前、ホント可愛くねぇな!?」
セラの口元が、僅かに緩んだ。
ニアはそれを見て、一瞬だけ言葉を止める。
すぐにいつもの調子で肩を竦めた。
「ったく。あんまりミナトに心配かけるなよ。あいつ、お前のこと結構気にしてるみてぇだし」
「……っ」
不意に、胸が跳ねた。
墓前で背中に触れた手。
言葉を探しながら、それでも自分を見てくれた眼差し。
──よく頑張ったな。
思い出しただけで、頬が熱くなる。
「……ん?」
ニアが、怪訝そうに顔を覗き込んできた。
「どうしたよ?」
「……何でもない」
「いや、何でもなくねぇだろ。お前、ひょっとして……」
セラは顔を逸らした。
「は?……いや、マジ?」
「……違う。そういうのじゃない」
「ウッソだろ!?500歳超えの淫乱ババアが!?」
ニアが愕然とした表情で叫ぶ。
セラは反射的に血の針を生成し、ニアの額へと向けた。
「ちょっ、待て待て!!それシャレにならねぇって!!」
「煩い。殺す」
「冗談だって!落ち着け!ほら、見た目はロリだしいけるって!」
「……絶対殺す」
ニアは慌てて両手を上げ、降参の意思を示す。
セラはニアの首元にまで血の針を接近させたところで、動きを止めた。
「次はない」
魔力の圧迫を解除し、刃を霧散させる。
ニアは青ざめた顔で息を吐いた。
「……ミナトの奴、大変だな」
「なに?」
「あ、いや……お前もお前だよな。どこがいいんだ?あんな無愛想な王子サマ」
「だから違う……それに、ミナトは不器用だけど、無愛想じゃない。ちゃんと優しい」
「惚気かよ!?否定すんならもっと頑張れよ!」
「……ミナトの悪口は言いたくない」
(重症じゃねーか……)
一体、自分の知らぬ所でどんな交流があったのか──ニアは頭を悩ませる。
出会った当初、隙あらばミナトと身体を交わろうとしていたあの淫乱無表情吸血鬼が、『恋』という感情に振り回されている現実に、衝撃を受けざるを得ない。
「まあ、なんだ。頑張れよ……応援くらいはしてるぜ」
「別にいらない」
「てめっ、人がせっかく!」
「……身体だけでも繋がる。それで充分」
「妥協してる風な言い方すんじゃねぇよ!順序が逆だろうが!!」
セラは恥ずかしさを誤魔化すように背を向け、ニアはさらに頭を抱えそうになった。
「用は済んだ。もう行く」
「間違っても襲うんじゃねーぞ?さっきも言ったが、ミナトの奴、お前のこと結構心配してんだから」
「……知ってる」
セラは背を向けて歩き出した。
その後ろ姿を見送りながら、ニアは小さく笑う。
まだ、気に食わないところは山ほどある。
簡単に信用できる相手でもない。
それでも、最初に会った時よりは――。
「見ぃつけた♪」
場違いなほど明るい声が、響いた。
「っ!?」
セラの足が止まる。
直後、彼女の眼前で空間が歪んだ。
禍々しい紫色の光が渦を巻き、何もなかった場所へ巨大な亀裂が走る。押し広げられた裂け目は、やがてゲートの形を取った。
「な……何だ、これ……!」
ニアが再び剣へ手をかける。
凄まじい魔力の奔流が、二人の髪と衣服を揺らした。
その向こうから、一人の少女が現れる。
黒いドレス。
宙になびく、アッシュブロンドの長い髪。
ニアには、その顔に見覚えがあった。
「……アリス、様……?」
かつて交流戦の控室へ案内した、帝国の貴族令嬢。
アリス・ルノワールが、紫色の光の中で微笑んでいた。




