第60話 セラの告白。500年内に秘めた想い
セラに無理やり手を引かれ、辿り着いたのは里の最奥地にある丘陵地帯だった。
鬱蒼とした森を抜けた先には、無数の十字架──百を超える墓標が静かに佇んでいる。
魔力の明かりに照らされた墓群は、まるで死者の魂までもが眠りについているかのような、冷たい静けさを纏っていた。
風が草を揺らす音だけが響いている。
「私の一族と、これまで共に生きてきた眷属たちが眠る場所」
セラの声は平坦だったが、握られた俺の手が僅かに震えているのを感じた。
やがて彼女は、一際大きな二つの墓標の前に腰を下ろした。
そこに名前は刻まれていない。
「これが私の父と母。ただ、現世に両親を知る者はいない」
セラは指先で墓石を撫でる。
その動作は、とても優しかった。
「お花、しばらく取り替えられなかった。ごめんなさい」
普段のポーカーフェイスからは想像もできないほど切ない声音だった。
セラはあらかじめ持ってきていた紙袋から白い花を取り出し、墓前に供えると、そっと手を合わせる。
「祈るのは久々。昔は毎日やってた。祈り続けることで、生きてる気になれた」
そう言って、セラは俺を振り返った。
「キミにも手伝ってほしい。祈りを」
言われるままに屈み、二人の墓標に手を合わせる。
特に吸血鬼の祖先に対して思い入れがあるわけではない。
それでも、この場所に漂う空気が自然と俺に敬意を払わせた。
「……ありがとう」
セラは小さく頭を下げた。
その拍子に白い髪がさらりと垂れ、端正な横顔が露わになる。
500年以上も生きているはずなのに、その容姿は驚くほど若々しく、そして儚い。
吸血鬼の特徴といえば、それまでなのだろう。
だが今の俺には、セラがどこにでもいる一人の少女にしか見えなかった。
「で、この後はどうするんだ?」
「……昔話を聞いてほしい。吸血鬼の歴史。それと、私自身の話を」
セラが真剣な眼差しで俺を見つめる。
その瞳には、僅かな怯えが見え隠れしていた。
「私の話を聞けば、キミは私のことを嫌いになるかもしれない」
「今さらそんなこと気にしてるのか。ニアにはあんな喧嘩腰だったくせに」
「あれは突っかかってくるカナデの兄が悪い。私はちゃんと説明した」
セラは拗ねたようにそっぽを向く。
しかし、すぐに俺を見つめ直した。
「……でも、ミナトには知ってもらいたい。キミには私を否定しないでほしい。無茶な願いだと分かってるけど、それでも話したい」
彼女の小さな手が震えている。
出会った頃の淫乱吸血鬼としての姿。
この里を束ねる長としての振る舞い。
そして、今の弱々しい表情。
どれが本当の彼女なのかは分からない。
だが、少なくとも、目の前にいる少女が必死に何かを伝えようとしていることだけは確かだった。
「分かった。聞くよ」
「本当?」
セラの表情が僅かに和らぐ。
その瞳に、ほのかな光が宿った。
「その代わり、全部包み隠さず話してくれ。遠慮とか誤魔化しはなしだ」
「約束する」
セラは墓前で姿勢を正し、大きく息を吐いた。
そして、ゆっくりと瞼を閉じる。
「500年前。時は吸血鬼と人間の戦争最盛期。物心がついた頃には、血の臭いが日常だった。全ては絶対的な力を持つ“始祖”の御心のまま。人間は家畜以下の存在だった」
セラの口調が変わる。
まるで過去の亡霊に憑かれたかのように。
「爺さんから聞いた話と同じか」
「ん。当時、吸血鬼はまさに世界の全てを支配していた。その中で、私の両親は異端だった。父も母も、同胞たちから反感を買うほどの人間との共存派。当時の吸血鬼社会では、最も忌まれた思想」
セラの指先が墓石を叩く。
乾いた音が、静寂の中へ溶けていく。
「『争いは必ず自分たちが終わらせる』『セラには平和な時代を生きさせてあげる』──両親はいつもそう言ってた」
声の調子が僅かに上がる。
実の両親との思い出は、今も彼女の中で大切に残っているのだろう。
「でも結局、その夢は叶わなかった。父も母も、共存を願った人間たちの手によって討たれた。幼い私を椅子に縛りつけて、両親が泣き叫ぶ姿を見届けさせて……楽しそうに笑いながら」
セラの手が震える。
握りしめた拳が、小さく痙攣していた。
「彼らは、あえて私を見逃した。何故だと思う?」
唐突な問いかけ。
セラの視線が俺に突き刺さる。
答えに詰まる俺を見て、彼女は静かに続けた。
「私を嘲笑うため。快楽のため。娯楽のため。怯える私を見て、指を差して大笑いしていた」
セラの顔に仄暗い影が差す。
初めて見る表情だった。
戦争中だったことを考えれば、人間がセラの両親を敵視したこと自体は理解できなくもない。
だが、人間との和解を望んでいた二人を、幼い娘の目の前で殺害し、その娘が怯える姿を楽しむためだけに生かすなど──あまりにも救いがない。
「当然、他の吸血鬼は黙っていなかった。私に同情した同胞は復讐に立ち上がった。でも──私はそうしなかった」
「両親の想いを無駄にしたくなかったからか?」
「……違う」
予想外の答えに首を傾げる。
セラの透き通るような白髪が夜風に舞い、墓石に供えられた花が小さく揺れる。
「憎かった。恨んだ。私の世界を奪った人間が。でも同時に──怖かった」
彼女の拳が、さらに強く握られる。
爪が食い込むほどに。
「両親を笑いながら殺す人間が怖かった。でも、復讐を選ぶ同胞も怖かった……」
その言葉には、深い葛藤が滲んでいた。
恐らく彼女の心の奥底には、人間も吸血鬼も信用できないという根深い不信感が残っているのだろう。
「結果、私が選んだのは……何もしないこと。復讐する覚悟も、人間をもう一度信じる勇気もなかった」
セラの声が震えた。
俺は返す言葉を見つけられない。
目の前の少女が背負わされた運命は、あまりにも残酷だった。
「その後の歴史は、ミナトも知っての通り。人間の手によって始祖は封印され、残った吸血鬼も滅びていった。両親と同じように共存を目指した同胞たちも信用されず、皆が殺された。生き残ったのは、ただ隠れていた私とユリシアだけ」
ユリシア──爺さんから聞いた、カナデとニアの母親の名だ。
セラの指先が俺の裾を掴む。
細い肩が、小刻みに震えている。
俺は思わず手を伸ばし、その冷たい肌に触れた。
「これが私の歴史。500年もの長い間、逃げて、逃げ続けた臆病者」
俺の裾を掴むセラの手に、僅かに力がこもる。
震える指先から伝わってくるのは、深い悔恨と自己嫌悪だった。
「失望した?」
セラの瞳が僅かに潤んでいる。
その問いに、俺はしばらく逡巡した。
彼女は俺の裾を掴んだまま、離そうとしない。
──失望しないで。
──私を、拒絶しないで。
そう訴えかけるかのように。
彼女の視線には、懇願の色が滲んでいた……。
「いや……」
セラが僅かに顔を上げる。
俺は言葉を探すように、夜空を仰いだ。
「ただ──辛かったんだな」
それしか言えなかった。
彼女の痛みに共感することすら難しいほど、壮絶な過去だ。
下手な同情や励ましは、彼女が500年間抱えてきたものを軽く扱うだけのような気がした。
「……ん」
セラは小さく呟き、俺の裾から手を離した。
果たして今の言葉が正しかったのかは……分からない。
「……最初は、それでも両親の教えを守ろうとした。だから眷属を作って、里を再興しようとした」
「したって、今もそうじゃないか?」
セラの手が、両親の眠る二つの墓石へ伸びる。
「……今ある吸血鬼の里は、23回目の挑戦」
「え?」
思わず声が漏れた。
「吸血鬼の眷属になった人間の寿命は数年。長くても10年程度。子供も同じ。だから運良く生まれたとしても、魔力が暴走して死んでしまうこともある。今いる眷属たちも、その多くが寿命を迎えつつある。早い者なら、数日後に命が尽きてもおかしくない」
衝撃だった。
昨夜見た里の景色は、平穏そのものだった。
住民たちの笑顔も温かかった。
そんな場所が、実際にはゆっくりと終わりへ向かっている。
「純血の男性吸血鬼が絶滅した今、健全な次世代を残すこともできない」
「眷属たちは、そのことを?」
「もちろん知ってる。彼らは国から迫害された者たち。家族も友人も持たない者たち。皆、その運命を理解した上で眷属になることを承諾してくれた」
「どうして、そんな……」
「居場所が欲しかったから。最後の日々を穏やかに過ごせる場所を求めて。死にゆく者たちが希望に縋る気持ちを、蔑ろにはできなかった」
セラが墓石の前に屈み込む。
細い肩が月光に照らされ、白く浮かび上がった。
つまり、この百を超える墓標は両親や同胞だけではない。
これまでセラと共に生き、寿命を迎えた眷属たちも眠っているのだろう。
「だから、ずっと自分に言い聞かせてきた。これは必要な犠牲。彼らにとっても幸せ。私は居場所を提供できた。せめて安らかに逝けるようにすることが、私に課せられた責任」
セラの独白は、彼女なりに苦しみ、悩んだ末に出した答えなのだろう。
眷属たちも、自分たちの寿命が限られていることは理解していた。
それでもセラを信じ、自らの生涯をこの場所に預けた。
そして死んだ後も、主はこうして墓を守り続けている。
少なくとも俺には、ここに眠る者たちが不幸だったとは思えなかった。
「今日一日だけで、何回セラの評価が覆っただろうな」
「それは、いい方向に?」
「淫乱無表情吸血鬼と思ってた頃に比べれば遥かにな」
つい本音を漏らすと、セラも小さく笑った。
月光に照らされたその表情を見て、初めて彼女の心からの笑顔を見たような気がした。
「……違う」
「ん?」
しかし、それも一瞬だった。
すぐに表情が曇る。
セラは俯いたまま、再び口を開いた。
「本当は──全部、言い訳」
その声は、先ほどよりも弱々しかった。
「ユリシアはそれが分かってた。だから、人間として生きることを選んだ。でも、私は……」
再びセラが俺の裾を掴む。
今度は先ほどよりも強く。
まるで、それだけが自分をこの場所に繋ぎ止めているかのように……。
「ミナト」
「セラ?」
「寂しい……」
掠れた声。
震える指先。
冷たい体温。
その全てが、彼女の本心を語っているようだった。
「父と母が殺されて、みんな死んで……でも、ユリシアのように人間社会へ行く勇気もなくて……だから、弱い立場の人間を狙った。善意で助けたわけじゃない。ただ──私を必要としてくれる人が欲しかっただけ」
セラの紅い瞳から、一筋の涙が零れ落ちた。
透明な雫が地面に落ちる。
この少女と共に過ごした時間など、ほんの僅かだ。
それでも、今まで見てきたセラとはあまりにも違う。
目の前で涙を流している少女が、本当にあのセラなのかと疑ってしまうほどに。
「本当は、人間が憎くて堪らなかった!」
突然、セラの声が張り上がった。
「あいつらは私の大切なものを奪った!憎んで、憎んで、憎み続けた!でも、怖かった!もし負けたら、今度は私が殺される!縛られて、笑いながら殺される!だから逃げた!逃げ続けて……何百年経っても、何も変わらなかった!」
突然の激情。
今までの彼女からは想像もつかないほど、感情のこもった慟哭だった。
「同胞たちが言ってる!『何でお前だけがのうのうと生きている!』『何で仇を討たなかった!』『何故お前一人だけが幸せそうに生きている!』って──っ!」
「……もういい、セラ」
たまらず声をかける。
これ以上は、聞いているこっちまで耐えられそうになかった。
だが、彼女は止まらない。
「うるさい!うるさいうるさい!私は幸せなんかじゃない!!だったらカナデは!?カナデには家族がいる!帰る国がある!何かあればミナトが助けてくれる!私は……私は何も持っていない!」
全てを吐き出すように叫び続ける彼女を宥める術を、俺は知らない。
死んだ者たちが、本当に彼女を責めているはずがない。
それでも、セラの脳裏に焼き付いた両親の最期と同胞たちの無念は、500年もの間、彼女自身の声となってその心を蝕み続けてきたのだろう。
「だから、私を認めてほしくて……!でも人間は私を排除する!慕ってくれた眷属たちも死んでいく!また一からやり直して……また失う!それでも、やめられない!」
涙が次々と頬を伝う。
「私を見てほしい……私を必要としてほしい……誰か……誰か────!」
とうとう、彼女はその場に崩れ落ちた。
肩を震わせながら、子供のように泣きじゃくっている。
「……セラ」
名前を呼ぶと、彼女はゆっくりと顔を上げた。
涙で濡れた頬を拭うこともなく、震える瞳で俺を見つめてくる。
「よく頑張ったな」
「──っ!?」
俺の声は、確かに届いたらしい。
次の瞬間、セラの身体から力が抜けた。
膝をついた彼女を支えるように、俺も一緒に跪く。
「……セラの気持ちは、伝わってる」
「あ……ぁ……」
「ちゃんと聞いてるよ。だから、今は……」
セラの背中を擦りながら囁くも、それ以上の言葉が続かない。
冷たい身体が、僅かに温もりを取り戻すのを感じる。
セラは暫く躊躇した後、ゆっくりと俺の背中に腕を回してきた。
その華奢な手が震えているのを感じながら、彼女はついに内に秘めた感情を解き放った。
「……怖い……よぉ……」
掠れた声で漏れる本音。
500年もの孤独を抱えてきた彼女の心は、あまりに脆い。
俺の服を掴む指先はあまりにも必死で──今にも砕け散りそうだった。
「……大丈夫だ」
セラが泣き止むまで何度も同じ言葉を繰り返し続ける。
小さな明かりの下、彼女の涙は止まることなく流れ続けていた──。




