第56話 『わたし』があなたを大好きになった日
それが夢だと気付くのに、そう時間はかからなかった。
暗闇の地下室。
汚れた床の上に投げ出された『わたし』は、ただ息を潜めて震えていた。
お父さんの怒声と暴力の音が、遠くから響いてくる。
それが止むまで、布団代わりの薄い毛布を被り、歯を食いしばって耐えるしかなかった。
怖くて怖くて、いつも夢に見る。
『父親の言うことが聞けねえってのか!誰がてめぇらみたいなゴミを養ってやってると思ってんだ!』
何度も、打たれた。
『ただ金を減らすだけの屑が!』
鞭を振るう音と、怒号。
それが響くたびに、毛布を握る手へ力がこもる。
『あの女も素直に金を送りゃあ良いのによ!ふざけてんじゃねえ!』
熱を帯びた鉄棒を押しつけられた時の痛みも。
冷たく濡れた床の感触も。
全て、はっきり覚えている。
忘れたくても、忘れられないから──。
『うわあああああぁぁ!!痛いいいぃぃぃ!!熱いぃぃっ!!』
わたしは必死で身を丸め、泣き叫ぶ。
それでも許されるはずもなく、さらに酷い罰が下される。
『殺してやるよ!お前も、おれを裏切ったあの女も!全員殺してやる!』
憎悪と妄執に染まった父の目が、真っ赤に充血していた。
逃げられない。
夢だと分かっているのに、身体が動かない。
『殺してやるよおおおっ!』
*
深夜。わたしは、クロフォード王国から提供された一室で目を覚ました。
外は大雨で、窓ガラスが悲鳴を上げている。
まだ夜明けには遠く、明かりの消えた部屋には雨音ばかりが響いていた。
「……っ」
頭が重い。吐きそうだ。
寝間着が汗で肌に張りついていて、不快でたまらない。
──また、あの夢を見た。
薄暗い地下室で、ひたすらに痛みに耐えていたあの日々。
鞭を振るわれ、身体を焼かれ、罵声を浴びせられても、誰にも助けを求められず泣いていた頃。
大好きなお母さんを目の前で殺され、兄と一緒に泣き叫ぶことしかできなかった惨劇の記憶。
「──ッ!!」
息苦しさに耐えきれず、ベッドから降りようとした。
だが、足元がふらつき、そのまま床に倒れ込んでしまった。
「う……ぅ」
掌に触れた床の冷たさに、身体が強張る。
違う。
ここは、あの地下室じゃない。
分かっているのに、震えが止まらない。
心臓が早鐘を打つのを感じながら、必死に自分の身体を抱き締める。
……お父さんに叩かれた痕、焼かれた痕、斬られた痕。
もう痛みはないはずなのに、あの日から半年以上経った今でも、夢と現実の区別がつかなくなることがある。
「……あ……あ……」
寒い。寒くて堪らない。
身体が冷たく固まっていくような錯覚に襲われる。
息がうまくできない。
視界がぼやけてくる。
(いやだ。怖い。助けて。助けて……!)
その時──。
「カナデ」
静かな声が響いた。
顔を上げると、そこにはわたしよりも小さな男の子が立っていた。
「大丈夫だ」
「あ、あ……」
そばに膝をついた彼が、優しい手つきで背中を擦ってくれる。
その温かさを感じているうちに、少しずつ息を吸えるようになった。
強張っていた肩からも、ゆっくりと力が抜けていく。
「眠れないのか?」
「っ……」
何も答えられなかった。
だけど、それだけで察してくれたようで、彼は黙ってわたしの隣に座った。
あの日、お父さんから助けてくれた年下の男の子。
クロフォード王国の第二王子様なのに、平民のわたしを気にかけてくれる──ミナト。
「大丈夫だ。もうあいつはいない」
彼の言葉が、ゆっくりと染み渡っていく。
ミナトのおかげで、わたしはこの国に来て、ニアと一緒に暮らすことができた。
平民であるわたしにも優しく接してくれる貴族や王宮の人たち。
最初は不安だったけれど、皆親切で、温かく迎えてくれた。
ミナトがくれた、この平和で幸せな日常に感謝している。
もう、怖いことは何もないはずだった。
──なのに。
「……まだ、怖いのか?」
「っ……」
「……わかった」
ミナトは、それ以上何も聞かなかった。
ただ黙って、わたしの手を握ってくれる。
それがどれだけ嬉しいか。
どれだけ救われているか。
感謝の言葉すら言えない自分が情けなくて、悔しくてたまらない。
涙が溢れてしまいそうで、唇を強く噛み締めた。
「今日は一緒にいる。それなら、怖くないか?」
わたしの手を握る力が、僅かに強くなる。
小さいけど、頼もしい手。
温かくて、安心できて。
「……うん」
その一言だけ、ようやく絞り出すことができた。
また甘えてしまった。
そう思うと恥ずかしくなるけれど、それでも、離してほしくなかった。
大好きなお母さんが死んでしまったことは、もう変わらない事実だ。
わたしはまだ弱くて、情けない。
でも、こうしてそばにいてくれる人がいるから。
──きっと、大丈夫。
*
この頃は、本当にミナトに迷惑をかけてばかりだった。
ニアは少しずつ立ち直り、騎士団に入るための鍛錬を始めていた。
それなのに、わたしは未だに過去の悪夢に囚われてばかりいる。
ニアもお爺ちゃんも、お城の人も、何も言わない。
でも、きっと心配をかけている。
それを考えると申し訳なくて、けれど今のわたしにはどうしようもなくて……毎晩のように、ミナトがそばにいてくれた。
──本当に不思議な人。
わたしよりも年下のはずなのに、何だか大人っぽくて、いつも頼りになって。
でも、所々不器用で、子供っぽくて。
そんな彼のことを考えていると、不思議と心が軽くなっていく。
「ぐっ……また負けたー!ミナト、てめぇ卑怯だぞ!」
「はいはい。ルールに則ってるからセーフ」
「クソ!もう一回だ、もう一回!」
訓練所では、ニアが今日もミナトに負けて文句を垂れていた。
わたしは隅っこで、二人の勝負を眺めている。
この光景も、もう見慣れたものだ。
魔力で剣を生成し、ニアの猛攻を華麗に捌くミナト。
ニアは負けん気の強さを前面に出して挑みかかるけれど、結局いつも、ミナトの掌の上で踊らされる羽目になっている。
「この野郎、次はぜってぇ勝つからな!」
「ま、期待はしてる」
「偉そうだなお前は!」
ニアがプンスカ怒りながら帰っていく。
わたしはその背中を見送ってから、改めてミナトへ目を向けた。
彼はもう、次の鍛錬を始めていた。
掌に灯した魔力を細く伸ばし、形を変え、また消す。
誰も相手をしていなくても、その指先は休もうとしない。
とても同年代とは思えない魔力量。
そして、それを自在に扱う技術。
最初は王族だからと勝手に納得していたけれど、それだけではなかった。
他の人たちとは比べ物にならないほど、彼は鍛錬を重ねている。
だから、どうしても気になってしまった。
「ミナトは、どうしてそんなに一生懸命なの?」
彼の指先が止まる。
それから、少しだけ寂しそうに笑って、こう言った。
「強くなれば好き勝手できるだろ?」
──嘘だ。
多分違う。
それだけが理由じゃない。
少なくとも、わたしの目にはそう映った。
*
それからも、わたしの悪夢は終わらなかった。
それでも、少しずつ変わっていった。
夜に魘されたら、ミナトが来てくれる。
ニアは文句を言いながらも、そばにいてくれる。
お爺ちゃんは、たくさん励ましてくれる。
お城の人たちも、変わらず温かく接してくれる。
悪夢は確かに辛い。
でも、目が覚めれば、あの地下室にはなかったものがある。
温かい食事。
名前を呼んでくれる人。
何でもないことで笑える時間。
そんな日々を繰り返しているうちに、一年が経った。
*
ある夜、不意に目が覚めた。
また雨が降っているのか、窓ガラスに雨粒が当たり、パタパタと音を立てていた。
隣を見ると、ミナトが眠っている。
枕元の小さな魔力灯が、その寝顔を淡く照らしていた。
珍しい。
夜中に目を覚ますと、いつもはすぐに気づいて声を掛けてくれるのに。
「こうしてみると、可愛いかも?」
思わず笑みが零れる。
どれだけ強くても、この瞬間だけは、ただの可愛い男の子にしか見えない。
「……ツンツン」
少しだけイタズラ心が湧き上がり、指先で頬を突いてみた。
思ったより柔らかくて、触り心地が良い。
「む……うぅん……」
ミナトの眉が少し動いた。
起こしてしまったかと思って手を引く。
けれど、彼は目を開けず、そのまま規則正しい寝息を立てていた。
こんなに無防備な姿を見るのは、初めてかもしれない。
「ふふっ……いつもありがとう」
最後に一度だけ頬に触れ、そっと手を離す。
この温もりがあれば、わたしは大丈夫。
どんな悪夢を見ても、目が覚めればミナトがいる。
そう思えるだけで、眠るのも少しずつ怖くなくなっていた。
だから──。
「──大好き」
これからも、ずっとそばにいてくれたらいい。
そんなことを願いながら、もう一度目を閉じようとした時だった。
隣で、布団の擦れる音がした。
続いて、何かが落ちる鈍い音。
「……ッ!?」
慌てて身体を起こす。
さっきまでミナトが眠っていた場所には、乱れた布団だけが残っていた。
「……ミナト?」
ベッドの脇を覗き込む。
彼が、床に倒れていた。
声を掛けても返事はない。
一体、どうしたんだろう。
「っ……めろ……」
「え?」
何かを呟いている。
よく聞き取れない。
でも、苦しそうな声音だった。
まさか、具合でも悪いのだろうか。
慌ててベッドから降り、ミナトのもとへ駆け寄った。
「ミナト?」
もう一度呼んでも、反応はない。
額に冷や汗が浮かび、呼吸が少しずつ荒くなっていく。
「う……ぅ……!」
さっきまで穏やかだった寝顔が、苦痛に歪んでいた。
こんなの、普通じゃない。
明らかにおかしい。
「ミナト!どうしたの!?しっかり!!」
必死になって名前を呼び続けた。
けれど、一向に目覚める気配はない。
それどころか、何かから逃れようとするように身体を縮めていく。
「い……や……だ……!」
怯えている。
いつもわたしを安心させてくれる彼が、今は何かを怖がっていた。
恐る恐る、その手に触れる。
その瞬間──。
「っ!」
ミナトの身体から、凄まじい量の魔力が噴き出した。
竜巻のように渦巻く力が部屋を満たし、窓ガラスが弾け飛ぶ。
「きゃあ!?」
身体が宙へ浮いた。
背中を壁へ打ちつけ、息が詰まる。
床へ落ちた拍子に、視界が一瞬白くなった。
「っ……ミナト……!」
痛い。
それでも、床に手をつき、どうにか身体を起こした。
もう、魔力の噴出は収まっている。
割れた窓から吹き込んだ雨が、頬に触れた。
ミナトは、まだ同じ場所にいた。
身体を丸め、苦しそうに息をしている。
「ミナト!お願い!落ち着いて!」
彼のそばへ戻り、肩に手を添えて呼びかける。
それでも反応はなかった。
「っ……はぁ……はぁ……」
「ねぇ……どうしちゃったの……?」
返事の代わりに、目元から涙が流れた。
何が起きているのか分からない。
どうすればいいのかも、分からない。
ただ、放っておくことだけはできなかった。
「っ……や……だ……」
弱々しい声が漏れる。
「嫌だ……もう、……一人……で……」
泣いていた。
わたしよりも小さな男の子が、床に蹲って泣いていた。
「ミ……オ…………」
──ミオ?
聞き覚えのない名前だった。
ミナトの家族には何度も会っている。
けれど、少なくとも、わたしの知っている人の名前ではない。
「……ミナト」
気になる。
でも、それ以上に、今は目の前の彼を助けたかった。
わたしは膝をつき、そっと彼の身体を抱き寄せた。
また魔力が噴き出すかもしれない。
そんな考えが頭を過ぎったけれど、ミナトは抵抗せず、素直に身を委ねてきた。
「……大丈夫だよ。怖くないから」
優しく頭を撫でる。
まだ身体は震えていた。
けれど、浅かった呼吸の間に、少しずつ長く息を吐く音が混じり始める。
「ん……うぅ……」
ミナトが呻く。
わたしは手を止めず、何度も同じ言葉を繰り返した。
「大丈夫。ここにいるよ」
いつも、彼がわたしにしてくれたように。
「……っ」
ミナトの手が動いた。
震える指先が、わたしの袖を掴む。
離すまいとするように、ぎゅっと握り込まれた。
「ミナト?」
「──け……て……」
「っ!」
あまりにも弱々しく、消え入りそうなほどか細い声だった。
けれど、確かに聞こえた気がした。
「……大丈夫」
未だに目を覚まさないミナトの身体を、ギュッと抱き締める。
わたしよりも小さくて、ずっと守ってくれていた背中。
だけど、今だけは、わたしが守る番だ。
「そばに……いるから」
そっと誓うように呟きながら、再び彼の頭を撫でた。
触れている指先が、不思議と温かかった。
やがて、廊下から慌ただしい足音が近づいてきた。
騒ぎを聞きつけた使用人たちが、扉を開けて駆け込んでくる。
肩へ毛布を掛けられても、怪我の様子を確かめられても、わたしはミナトのそばを離れなかった。
彼の指も、まだわたしの袖を掴んでいた。
*
あれほど無防備に弱さを見せたミナトを、わたしが見たのは、あの夜だけだった。
翌朝には、もう普段通りの彼に戻っていた。
昨晩のことも、ほとんど覚えていないようだったけど──わたしは忘れられない。
あの時の、恐怖に歪んだ寝顔。
助けを求める掠れ声。
そして、縋るように伸ばされた手。
思い出すだけで、胸が締めつけられるように痛む。
どうしてあんなに怯えていたの?
一体、何を見ていたの?
「ミオ」って誰なの?
聞きたいことは沢山あった。
けれど、結局何も訊けなかった。
きっと、教えてくれないだろうと思ったから。
あの寂しそうな笑顔で、また誤魔化されてしまう気がしたから。
「わたしは……」
何ができるんだろう。
わたしの方がお姉さんなのに、今までミナトに守られてばかりで、何も返せていない。
ただ、一方的に甘えていただけだ。
──変わりたい。
誰かが助けてくれるのを、ただ待っているんじゃない。
自分から手を伸ばせるようになりたい。
誰かに依存するのではなく、自分の足で進めるように。
「……強くなれば、いいの?」
ふと、そんな言葉が漏れた。
今まで守られることしかできなかったわたし。
布団の中で、震えることしかできなかったわたし。
でも──。
「強くなれば……わたし、あなたの隣に立てるかな……?」
ぽつりとこぼした問いは、雨音に紛れて消えていく。
それでも、胸の内では何かが燃え始めていた。
「ミナト……わたし、決めたよ?」
いつも励ましてくれて、助けてくれて、守ってくれた人。
今度は、わたしの番。
まだ何も知らない。
何年かかるかも分からない。
けれど、必ず答えを見つけ出してみせる。
いつかきっと、あなたの悩みを分かち合えるくらい強くなる。
だから、その時は──。
『助けて』
「あなたの本音を、絶対に受け止めてみせるから……」
──だから、待っててね。




