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第2話 正しさなんて、分からない

 施設での生活は、完全に孤立していた。


 18歳までの身寄りのない子供たちが共同生活を送る場所。

 優也はその中でも、完全な異物だった。


「あいつ、上級生にも容赦なしかよ」

「聞いたところによると、武道経験者らしいよ。前も大人が数人がかりで抑えてたって」

「ていうか、あの性格でよく施設から追い出されないな」

「一応、妹の優奈だけは大事にしてるからじゃね?」

「大事にねぇ……兄妹であんなに依存して、正直気持ち悪いよな」


 ヒソヒソと囁かれる声に、優也は聞こえないフリをした。


 今さらだ。耳に入らないふりをする技術だけは、かなり上達していた。


 当時10歳だった妹は、今では11歳になった。

 裁判は、まだ続いている。


「優也くん」


 食事の時間。一人で隅っこに座る優也の前に、職員がやってきた。


 トレーの縁に指をかけたまま、優也は顔だけ上げる。


「今日は、優奈ちゃんと話した?」

「……まだ」

「なるべく、話しかけてあげてね。最近、様子がおかしいから」


 心配そうな態度の職員にも、優也は疑問を感じていた。


 ──この女は、本当に妹を心配しているのか?


 ──それとも……ただの仕事か?


 どうせ、適当に同情して終わりだ。


 施設の連中も、学校の教師も、誰もが『可哀想な兄妹』というレッテルを貼って、そこで思考を止める。


 しかし、裁判の話になると『司法を信じろ』だの『犯人の更生の可能性』だの、綺麗事ばかり並べてくる。


「最近の優也くん、すごくいい子になってるよ?だから──」


 いつしか優也は、争うことをやめていた。


 いや、もう諦めていたのだ。


 可哀想だと思いたければ、好きにすればいい。


 だから、俺たちに構うな。


 もう、そんな目で見るな……。


「……先生、優奈は?」

「え?あ、うん。中庭で一人で花を見てるよ」

「……そっか」


 食事を終え、立ち上がる。


 トレーを返す音が、食堂の空気に小さく弾ける。


 背中越しに、またヒソヒソと声が聞こえた気がしたが、今度こそ完全に無視した。


 中庭には、小さな花壇があった。


 誰が植えたのかも分からない、色とりどりの花。


 季節外れで手入れも雑なのか、土の表面は乾き、それでも花だけが不自然なほど鮮やかだった。


 その前に、優奈はしゃがみ込んでいた。


「何見てるんだ?」

「……あ、兄さん」


 振り返った顔は無表情だった。


 目だけが、花の色を映して微かに動く。


 だが、優也が隣に立つと、花を指差して言った。


「これ、きれいだね」

「ああ」

「でも、摘んじゃったら死んじゃうんだよね」

「……そうだな」


 花びらを指で撫でながら、優奈は続ける。


 指先の動きは丁寧で、不自然なほどゆっくりだった。


「……人って、いい加減だよね」

「どうして」

「だって、何が正しいかなんて誰にも分からないのに、みんな自分の考えが一番だと思ってる」

「っ……」

「わたしには、もう分からない。何が正しいのかなんて、誰にも分からないんだって思う。だったら──」


 突然、優奈が手を伸ばし、花を千切り取った。


 あまりに突然の行動に、優也は動けなかった。


 茎の折れる音が、風のない中庭に短く残る。


「何してるんだ、優奈!」

「……きれい」


 指先で潰されていく花びらを見つめながら、優奈は微笑んだ。


 色素が皮膚に移り、赤い筋となって残る。


「わたしね、この花になりたい」

「……何言って」

「きれいなままで、死にたい」


 背筋が凍った。


 妹の口から、そんな言葉が出るなんて。


 しかし同時に、優也は理解もした。


 ──優奈の精神は、限界を超えている。


 もはや笑顔の仮面も、取り繕う気力も残されていない。


 残っているのは、正しさを求める癖と、それを得られないことへの静かな疲れだけだった。


「……帰ろう、優奈」


 優也は妹の手を引いて、立ち上がらせた。


 掌は冷たく、力が入っていない。


 優奈は抵抗せず、ただ無言で兄の背中を追いかける。


 いつか、何かが起きる。


 それは感じていた。


 でも、優也はそこから目を背け続けた。


 今は手を引くことだけが、できる全部だった。


 施設の共有スペースには、タブレットが一台だけ置かれていた。


 誰でも使える建前だが、実際に座るのはいつも同じ顔ぶれだ。


 優也は近づかない。近づく必要もなかった。


 それでも、情報は耳に入ってくる。


 壁は薄い。

 子供の声は、思ったより遠くまで届く。


「またコメント増えてるらしいよ」

「八神の件?まだやってんの?」

「裁判が長引いてるから、ネタとして都合がいいんだろ」


 ヒソヒソとした声は、廊下でも食堂でも消えることがなかった。


 優也が無視しても、優奈の前では止まらない。


 子供は残酷で、大人はそれを見て見ぬふりをする。


 注意する職員も、本気で止める空気ではなかった。


 ある夜、優奈が小さな声で言った。


 二人きりの廊下。


 蛍光灯が一つだけ点き、足元に長い影を落としている。


「兄さん、ネットって……見たことある?」

「ない」

「嘘」

「……少しだけだ」


 本当は、何度も見てしまっていた。


 匿名の書き込みは、事実より先に感情を並べる。


 事件とは無関係のはずの他人の不幸を嘲笑い、見下すことで優越感を得る。


 そこに並んでいるのは、そんな人間という悪魔の言葉ばかりだった。


「今日も、見たの」

「あんなもん見るな」

「見ちゃうもん」


 優奈の声には、感情がなかった。


 中庭の花を潰した時と同じ、平坦な響き。


 呼吸の間隔だけが、少し不自然に揃っている。


「『親が悪い』って、たくさん書いてあった。『子供がいるのに防犯を怠るなんて』って。『見逃されたのは心神喪失の証拠』って」


 優也は拳を握った。


 骨が浮くほど強く。


 なのに、どこにも振り下ろす場所がない。


「……気にするな」

「気にしないって、どうやるの?」


 優也は答えられない。


 沈黙が落ちる。


 遠くで誰かが笑った声がしたが、すぐに消えた。


「じゃあさ、兄さんの考え、聞かせて?」

「優奈?」

「何が正しいのか、決めて?」


 また、その話だった。


 妹は常に「正解」を求めている。


 答えがあれば、世界が少しだけ静かになると思っているのかもしれない。


 だが、優也にはその正解が見つからない。


「……ごめん」

「兄さんにも、分からないの?」

「ただ……」


 優也は妹の手を握り直し、空を見上げた。


 窓の外は、街の明かりで決して真っ黒にはならない夜だった。


 突然の理不尽。


 犯人を擁護する法。


 それを娯楽として哀れみ、楽しむ外野。


 何も知らないくせに、勝手な憶測で盛り上がるネットの声。


 他人事で片付けられるなら、まだマシだった。


 しかし、世間が求めているのは快楽だ。


 加害者がどう裁かれるのか。


 被害者は今どうしているのか。


 それをネタに、他者の人生を嘲笑うために好き勝手な議論を繰り返す事実を無視した悪意の塊。


 ネットでは事実などどうでもよくて、感情論だけが広がる。


 だからこそ、優也は気づいてしまった。


「……この世界にあるのは──『ルール』だと思う」

「ルール?」

「優奈の言う通りだよ。何が正しいかなんて分からないから、人はとりあえずルールを作ったんだ」


 声は低く、説明というより、自分に言い聞かせる口調に近かった。


 ルールを破れば罰が待っている。


 だから、許された範囲で「面白い」を求める。


 道を誤った他人を嘲笑うのが「楽しい」から、いつだってその対象を探し続けているのだ。


「じゃあ、みんながわたし達を面白がるのは、ルールで許されてるから?」

「そうだな」

「それ、楽しいのかな?」

「……やる側は、そうかもしれない」


 妹の無表情な顔を見つめながら、優也は願う。


 正しいことなど分からない。


 ルールの範囲内なら、自分たちを叩くことすら許されてしまう。


 それも分かっている。


「でも……」


 それでも、優也は妹の手を強く握り締める。


「……俺は、優奈を守りたい」

「兄さん?」

「優奈だけは、失いたく……」


 言いかけて、喉が詰まる。


 目の前の妹を、満足に守れていないのに。


 施設の陰口も、ネットの書き込みも、止められていないのに。


 それでも、口にした。


 安心させたかった。


 優しい兄でいようとしただけだった。


 優奈はしばらく黙っていたが、ゆっくりと笑った。


 久しぶりに見る、普通の笑顔に見えた。


「兄さんは、やっぱり優しい」

「違う。俺は……」

「大丈夫だよ」


 優也の目から、不意に涙が溢れた。


 妹の前で泣くなどみっともないと分かりつつも、止まらなかった。


「わたしもね、同じ気持ち。兄さんがいなくなったら、もう生きていけない」

「……優奈」

「兄さん、ずっと一緒にいてね」

「ああ、もちろんだ」

「ふふ……そう言うと思った」


 微笑んだまま、優奈は言った。


 この笑顔があれば、自分はまだ戦える。


 心からそう思えた瞬間──。


「ただ、ね?……もし、裏切ったら──」

「え?」

「わたし、何するか分からないからね?」


 その一言で、空気が変わった。


 廊下の蛍光灯の音が、急に大きく聞こえる。


 優也は笑おうとした。


『冗談だろ?』


 そう言いたかった。


 だが、優奈の目は笑っていなかった。


 中庭で花を潰した時と同じ、静かな温度……。


「あはは!兄さん、顔が真っ青だよ?大丈夫?」

「ゆ、優奈……」

「はーい、冗談終わり!」


 優奈はパンと手を叩いて、くるっと背を向けた。


 その仕草は、いつもの優奈だった。


 明るくて、少し子供っぽくて、兄をからかう妹の顔。


「お腹すいた。戻ろ?」

「……あ、ああ」


 返事はできた。


 足も動いた。


 だが、その背中を見ていると、指先の感覚が戻らない。


 あの言葉は、冗談だったのか。


 それとも、彼女なりのSOSだったのか。


 優也には、判断できなかった。


 ただ一つ、分かっていることは──。


 妹の手は、さっきまでより少し強く、兄の袖を掴んでいた。


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