第四章 2話 他人になったら
しばらくして、セシリアはマルタを連れて帰っていった。
玄関まで見送って応接室へ戻ると、ユリウスだけが、さっきと同じ扉の脇に残っていた。
「兄さん」
「ああ」
「今の、分かった?」
「何がだ」
「セシリア嬢、兄さんに引き止めてほしかったんだよ」
「……採点をか」
「採点も」
も、のほうが大事なのだろうということだけは、分かった。
卓の上には、裏返された返済計画だけが残っていた。
手に取ったところで、一つ思い出した。
「そうだ」
「何」
「お前」
「あ」
ユリウスの顔が固まった。
「セシリアに手紙を書いたな」
「……何のことかな」
「返済の計画のことを」
「見つかったね」
「それから、廃嫡のこともだ」
「そっちは書いてないよ。本当に」
「では、なぜ彼女は知っていた」
「研究室に行けなくなるかも、って、一行だけ書いちゃった」
「それで十分だろう」
「十分だったね」
ユリウスは、素直に頭を下げた。
「ごめん」
「なぜ謝る」
「兄さんが言わないから、代わりに言った」
「言う必要がなかった」
「あるんだよ」
「なぜだ」
ユリウスは顔を上げて口を開き、何か言いかけて、また閉じた。
「……さっきのセシリア嬢を見ても、分からない?」
「怒っていた」
「そこじゃない」
「では、何だ」
「いいよ、もう」
また、諦められた。
ユリウスは椅子の背にもたれて、しばらく黙っていた。
「兄さん」
「ああ」
「一つだけ訊いていい?」
「何だ」
「婚約がなくなったら、どうするの」
「どうする、とは」
「セシリア嬢と」
少し考えた。
「他人になる」
「それだけ?」
「婚約を解くのだから、そうなるだろう」
「もう、会わなくなるかもしれないよ」
今度は、答えるのが少し遅れた。
月に一度の温室の茶会と、生姜入りの焼き菓子と、子どもの頃に並んで足をぶらぶらさせた河港の桟橋と、十年ぶん庭の端から見られていたらしい俺の剣と、三十二から七十五まで書き足されていった数字と、最後に白い裏側を向けられた紙片が、順番も何もなく頭の中を通り過ぎていった。
「……そうだな」
「嫌じゃないの」
答えようとして、止まった。
「分からない」
「そっか」
ユリウスは、それ以上何も訊かなかった。
それが、少しありがたかった。
夜になって、自室で手帳を開いた。
女遊び、失敗。
決闘、失敗。
浪費、半分成功。
その下の行は、空いたままだった。
いつもなら、ここに次の作戦を書くところだが、今夜は何も思いつかなかった。
机の端には裏返したままの返済計画があり、窓の向こうには街の灯りがあり、壁際には、父の目の届かないところへ置けと言われた黄色い犬の絵が立てかけてあった。
犬は、こちらを見ていた。
「何だ」
もちろん、返事はなかった。
紙を裏返したときのセシリアの顔を思い出した。
数字にするのが、嫌になりましたの。
何が嫌だったのか、なぜ七十五でやめたのか、なぜ俺が家を継げなくなるかもしれないと知って、あそこまで怒ったのか。
考えても、分からなかった。
ただ一つだけ、明日からはもう、好感度が下がったかどうかを数字で確かめられないということだけは分かった。
それは、思っていたよりずっと不便だった。
手帳を閉じても、なぜか、すぐには眠る気になれなかった。




