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婚約破棄したい令嬢に嫌われようとしたら、何をしても好感度が上がってしまう ――悪役を演じるたび、婚約者が惚れ直してくる  作者: 臥裳斗真


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第四章 1話 裏返した紙


 セシリアは、朝食より先にやって来た。

 俺が食堂へ下りるより前に玄関へ着いていて、使用人が来客を告げに部屋の扉を叩いたときには、もう応接室の椅子に腰を下ろしていたらしい。

 ユリウスの言ったとおり、かなり怒っているようだった。

 応接室に入っても、セシリアは立ち上がらなかった。

 卓の上には茶も菓子もなく、代わりに紙が一枚だけ置かれていて、その字には見覚えがあった。

 昨夜、俺が自分の机で書いていた返済の計画だった。


「おはよう」


「おはようございます」


 声は丁寧で、笑顔もきちんと整っていた。

 いつもより整いすぎていた。

 セシリアの後ろにはマルタが控えていて、そのさらに後ろ、扉のすぐ脇に、なぜかユリウスが立っていた。


「その紙は、俺の机の上にあったはずだが」


「兄さんが着替えてるあいだに、持ってこいって言われたんだよ」


 ユリウスが、壁に貼りつくようにして答えた。


「なぜお前がそこにいる」


「逃げようとなさったので、お引き止めしましたの」


「引き止められてないよ。自分の足で来たよ」


「では、どうして扉の横に」


「すぐ出られるから」


「出られませんわよ」


「はい」


 従弟が目に見えて小さくなった。

 俺は空いている椅子に座った。


「あの、最初に言っておくけど」


 ユリウスが、片手を小さく上げた。


「俺、悪気はなかったからね」


「何の話だ」


「兄さんは黙ってて」


「なぜ」


「本当に黙ってて」


 セシリアが、卓の上の紙を指先で押さえた。


「これは、何ですの」


「返済の計画だ」


「見れば分かります」


「なら、なぜ訊いた」


「レオン様のお口から伺いたかったからですわ」


 セシリアは紙を少しだけこちらへ滑らせた。


「お手もとで足りなくて、借りてまでお買いになったのね」


「ああ」


 セシリアはそこで一度、口を閉じた。

 ここまでのことは、もう誰かから聞いて知っているらしかった。

 扉の脇で、ユリウスが天井の模様を数え始めていた。


「どのくらい、かかりますの」


「十年はかからないと思う」


 ユリウスが壁際で両手に顔を埋めた。

 セシリアは動かなかった。


「……十年。嫌われるために買った絵のお金を」


「全部を給付から払うわけではない。馬車も売る」


「そういうお話をしているのではございません!」


 声が跳ね上がり、マルタがほんの少しだけ目を伏せ、ユリウスが扉のほうへ半歩にじり寄った。


「レオン様」


「ああ」


「どうして、昨日のうちに仰ってくださらなかったの」


「何をだ」


「借りてまで、だということです。それも、十年近く」


「君には関係ないだろう」


 言い終えた瞬間に、部屋の空気が変わったのが分かった。

 ユリウスが顔を覆っていた手をさらに強く押しつけ、マルタが目を閉じた。

 セシリアだけが、少しも動かなかった。


「……関係ない」


「ああ」


「私には、関係ない」


「俺が使った金だからな」


「私に嫌われるために、お使いになったお金ですわ」


「そうだ」


「それでも」


「ああ」


 セシリアはゆっくりと息を吸い、吐かないまま、しばらく卓の上の紙を見ていた。

 やがて、その紙を静かに裏返した。


「ユリウス様」


「はい」


「もう一つ、ございますわね」


 ユリウスが、扉の脇で固まった。


「……何の話でしょう」


「昨夜のお手紙で、最後まで書ききれなかったことです」


「ああ……」


 どうやら、何かを知っているらしかった。


「ユリウス」


「兄さんは黙ってて」


「またか」


「今は本当に」


 セシリアの視線が、こちらへ戻ってきた。


「レオン様」


「ああ」


「この婚約が、あなたの落ち度で解かれた場合」


「ああ」


「次の港務総監の指名権を、グランフォード家が失います」


「そうだな」


「それだけですの?」


 少しだけ、間が空いた。

 ユリウスが俺を見ていて、俺はセシリアを見ていて、セシリアもまっすぐこちらを見ていた。

 嘘をつく理由は、思いつかなかった。


「それだけではない」


「何がございますの」


「父から、後継を外すと言われている」


 セシリアの顔が、そのまま止まった。

 昨日、黄色い犬の絵を見せたときよりも、ずっと長く。


「……もう一度」


「婚約が俺の落ち度で壊れたら、後継はユリウスになる」


「いつ、そう言われましたの」


「最初の日だ」


「最初の日」


「温室で、君に申請書を見せられた日の夜だ」


「では」


 セシリアの指先が、卓の縁をつかんだ。


「女遊びも、決闘も、二万金貨も、上手くいけばご自分が嫡男でなくなると、全部ご存じのうえでなさっていたんですの」


「ああ」


 セシリアが立ち上がった。

 椅子の脚が床をこする音だけが、応接室に残った。


「どうして」


 低い声だった。


「どうして、黙っていらしたの」


「言う必要はないと思った」


「ございます!」


「なぜだ」


「なぜって」


 そこで言葉が続かなくなった。

 セシリアは口を開き、閉じ、もう一度開いた。


「私がお願いしたことですわ。あなたに嫌われてほしいと。そのせいで、あなたがお家を失うかもしれないのに」


「家そのものを失うわけではない」


「言葉の問題ではございません!」


 また声が大きくなった。

 けれど、いつもの怒り方とはどこかが違っていた。

 舞踏会の夜も訓練場の裏でも、こういうときマルタは決まって肩を震わせていたのに、今日は笑っていなかった。

 セシリアは、自分の手もとに目を落とした。


「……私は、自分で選びたいと申し上げながら、その代金だけを、あなたに払わせようとしていたのね」


「頼まれたからではない。引き受けたのは、俺だ」


「それでも、です」


 セシリアは一度だけ息を整えた。


「婚約の解消は、取りやめます」


 何を言われたのか、すぐには分からなかった。


「取りやめる?」


「ええ」


「なぜ」


「なぜも何もございません。こんなことを知って、それでも続けられるはずがありませんわ」


「待ってくれ」


「どうしてです」


「それでは、君は」


 選んだことにならない、と言いかけて、止まった。

 俺の家の事情を知って、考えを変える。

 それも、彼女が自分で選ぶことのうちだった。

 そこを俺が勝手に裁いていいはずがないのに、たった今、裁きかけていた。


「……考えを変えるのは、君の自由だ。ただ、今日この場では決めないでほしい。俺の家の話を聞いた、その勢いで決めないでほしい」


「それは、あなたのお望みですの」


「ああ。俺の望みだ」


 セシリアの動きが止まった。


「……それでは、ご自分はどうなっても」


「どうなってもいいとは言っていない」


「同じことですわ!」


「違う」


「何が違いますの!」


「俺が決めた」


 セシリアが黙った。

 口にしてから、妙な感じがした。

 俺が決めた、というのは、普段あまり使わない言葉だった。


「父に言われたからでも、君に頼まれたからでもない。引き受けると決めたのは、俺だ」


「……それで」


「ああ」


「後継を外されても」


「そのときは、そのときだ」


「研究室に行けなくなるユリウス様は」


「それは申し訳ないと思っている」


「本当にね!」


 扉の脇から、声が飛んできた。


「そこはもう少し重く受け止めて!」


「すまない」


「謝られると余計に腹が立つ!」


 ほんの一瞬だけ、いつもの空気が戻りかけた。

 けれど、セシリアは笑わなかった。


「では」


 セシリアは、立ったまま俺を見下ろした。


「あなたは、何がほしいんですの」


「何?」


「私との婚約を解いて、後継から外されるかもしれなくて、二万金貨まで十年かけて返して。その先で、あなたは何がほしいんですの」


 答えが出てこなかった。

 質問の意味は分かったが、何を答えればいいのかが分からなかった。


「何も」


「何も?」


「君が選べるようになれば、それでいい」


 セシリアの顔が歪んだ。

 本当に、ほんの少しだけ。

 笑っているのでも、怒っているのでもない顔だった。


「それが」


 声が細くなった。


「それが、いちばん困るんですの」


「なぜだ」


「どうして、あなたは」


 そこで止まり、セシリアは目を伏せた。

 卓の上には、裏返された俺の返済計画だけがあった。

 六十一と七十五を書いたあの紙片は、今日は出ていなかった。


「どうして、そこまでなさいますの」


 今度は、ずいぶん小さな声だった。

 怒鳴っていないぶん、さっきまでよりよく聞こえた。


「そこまで、とは」


「お家も」


「ああ」


「お金も」


「ああ」


「評判も」


「ああ」


「全部、なくなるかもしれませんのよ」


「全部ではない」


「何が残りますの」


 少し考えた。


「俺まではなくならない」


 ユリウスが顔を上げた。

 マルタも、伏せていた目を上げた。


「……そういうことを、申し上げているのでは」


「それに」


 続けた。


「君が嫌だと言ったからだ」


 セシリアの口が、そのまま閉じた。

 何か言おうとしているのは分かったが、言葉にはならなかった。


「婚約を決めたのは、俺でも君でもない。だが、嫌だと言ったのは君だろう」


「あ……」


「なら、そこは君のものだ」


 言いながら、どこかで似たような言葉を聞いた気がした。

 庭の椅子で、膝に本を伏せたまま笑っていた母の声だった。

 一度くらい、自分で選んでみたかったわ。


「俺が、それを邪魔する理由はない」


 長い沈黙が落ちた。

 窓の外で、朝の庭師が植え込みの枝を切る音が一度だけ聞こえた。

 セシリアが、椅子に戻った。

 座ったというより、膝から力が抜けて落ちたように見えた。


「……十歳のとき」


 唐突だった。


「何だ」


「婚約が決まった日のことです」


 セシリアは、卓の木目を見つめていた。


「夜遅くまで、お客様がたくさんいらっしゃいましたの」


 誰も口を挟まなかった。


「皆様、同じことを仰いましたわ。よかったわね、セシリア。これで将来は安泰ね。グランフォード家なら安心ね。きっと立派な旦那様になるでしょうね、と」


「ああ」


「ドレスも新しく仕立てることになりました。婚約者らしいお色を、と。次の年からは、習うものも増えましたわ。侯爵夫人になるのなら必要だから、と」


 セシリアの指が、膝の上でゆっくりと組まれた。


「それより前から、着るものも、読む本も、習い事も、全部決められておりましたから。その日だけが、特別だったわけではございませんの」


 少しだけ笑った。

 いつもの整った笑顔ではなかった。


「でも、その日だけは」


 言葉が、一度止まった。


「どなたも、お訊きにならなかったんですの」


「何をだ」


 セシリアが顔を上げた。


「私が、あなたを好きかどうか」


 胸の奥で、何かが一度だけ引っかかった。

 それが何なのかは、分からなかった。


「どなたも。一人も」


 返す言葉を探したが、見つからなかった。


「それで」


 セシリアは、自分で続けた。


「ずっと、分からなくなりましたの。私の人生が、どこから私のものなのか」


 また、沈黙が落ちた。

 俺は卓の上の、裏返された紙を見ていて、セシリアはそんな俺を見ていた。


「だから、婚約を解きたかった」


「ああ」


「あなたが嫌いだったからでも、不満があったからでもなく、ただ、一度くらい、自分で決めてみたかった」


 だから引き受けた。

 そこは今も、間違っていなかったと思う。

 けれど、自分で決めたいという人が決め直そうとしたのを、さっきの俺は止めかけた。


「分かった」


「そこで、分かった、と仰るのね」


「ああ」


「本当に」


 セシリアが、また少しだけ笑った。

 今度の笑いは、さっきほど苦くなかった。


「……そういうところですわ」


「何がだ」


「今は、まだ結構です」


 まだ、という言葉が、少しだけ引っかかった。

 けれど、訊かなかった。

 本人が言わないことを、こちらで勝手に決めつけるわけにはいかない。

 セシリアはドレスの隠しに手を入れ、いつもの紙片を取り出した。

 俺は数字を見ようとして、少しだけ姿勢を正した。

 七十五の下は、まだ空いていた。


「今日は上がったのか」


「お訊きにならないでくださいませ」


「下がったのか」


「それも」


「では」


「レオン様」


 止められた。

 セシリアは紙片を両手で持ち、しばらくのあいだ、七十五という数字を黙って見つめていた。

 それから、紙を裏返した。

 白い裏側が、こちらを向いた。


「今日から、非公開ですわ」


「なぜだ」


「非公開だからです」


「理由になっていない」


「今、なりました」


「数字は」


「お見せしません」


「いつまで」


「分かりません」


「困る」


「私のほうが、もっと困っております」


「進み具合が分からない」


「分からなくて結構です」


「ゼロまで、あといくつだ」


「存じません」


「君がつけているんだろう」


「もう、つけておりません」


 思わず、白い裏側を見た。

 何も書かれていなかった。


「採点を、やめるのか」


「ええ」


「なぜだ」


 セシリアの指先が、紙の端を少しだけ強くつまんだ。


「数字にするのが、嫌になりましたの」


 意味は、やはり半分くらいしか分からなかった。

 ただ、温室で初めて申請書を差し出されたあの日、あなたを選ぶとしても選ばされたくありませんの、と言われたときに分からなかった残りの半分が、ほんの少しだけ近くなった気がした。


「そうか」


「……それだけ、ですの」


「嫌なら、やめればいい」


 セシリアは目を閉じた。


「……少しは、残念がってくださいませ」


「残念だ」


「遅いですわ」


 紙片は裏返されたまま、隠しの中へ戻っていった。

 七十五という数字は、もう見えなかった。



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