↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
婚約破棄したい令嬢に嫌われようとしたら、何をしても好感度が上がってしまう ――悪役を演じるたび、婚約者が惚れ直してくる  作者: 臥裳斗真


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
7/11

第三章 2話 二万金貨の絵を、婚約者に見せる

 屋敷へ戻る前に、ローゼンベルク家へ寄った。

 競売会の噂はすぐに広まるだろうから、誰かから聞かされるより先に、自分で見せておいたほうがいい。

 温室に通されると、いつもの卓にセシリアが座っていて、その後ろにはマルタが控えていた。

 俺の後ろでは、うちの使用人が二人がかりで、布に包んだ絵を運んでいる。

 セシリアはまず俺を見て、それから絵を見て、もう一度俺を見た。


「……何ですの、それ」


「絵だ」


「それは分かります」


 使用人が布を外して絵を卓の横に立てかけると、温室の花々を背負った黄色い犬は、なぜか少し誇らしげに見えた。

 セシリアは、しばらく何も言わなかった。


「これを」


「ああ」


「お買いになったの」


「ああ」


「おいくらで」


「二万金貨」


 マルタが銀盆を取り落としかけて、すんでのところで抱え直した。

 セシリアは動かなかった。

 顔色ひとつ変えなかったが、カップを持ち上げかけていた指だけが、途中で止まっていた。


「この」


 セシリアの視線が、ゆっくりと絵へ向かった。


「黄色い犬に」


「正確には、絵全体にだ」


「そこを訂正されても困りますわ!」


 声が温室のガラスに響き、マルタが銀盆を胸に抱えたまま天井を仰いだ。


「どうだ」


「何がです」


「浪費家に見えるか」


 セシリアが固まった。


「……まさか」


「ああ」


「嫌われるために?」


「ああ」


 セシリアは片手で額を押さえた。


「馬鹿ですの?」


「浪費家には見えたか」


「見えますわ!」


「なら成功だな」


 今回は誰も助けていないし、誰の噂も止めていないし、誰の怪我も庇っていない。

 ただ、金を失っただけだ。

 少しだけ、嬉しくなった。


「……嬉しそうになさらないで」


「今回はかなり上手くいった」


「馬鹿ですの?」


「さっきも聞いた」


「二回申し上げたくなりましたの!」


 セシリアは立ち上がり、絵の前まで歩いていった。

 近くで眺め、少し右へずれて眺め、また左へ戻って眺める。


「……本当に、何ですの、この犬」


「俺にも分からない」


「川より大きくありません?」


「そう見える」


「脚が五本あるようにも見えますわ」


「一本は影らしい」


「影にも見えませんけれど」


 それは俺も思っていた。

 セシリアはしばらく絵の前に立っていたが、やがて肩を落として卓へ戻ってきた。


「鑑定は」


「芸術的な評価は定まっていないそうだ」


「便利な言い方ですこと」


「つまり、価値は低い」


「でしょうね」


「だから買った」


 セシリアが、また黙った。


「……わざわざ、価値のないものを探して?」


「そうだ」


 セシリアは両手で顔を覆い、指の隙間から長いため息を漏らした。


「レオン様」


「何だ」


「あなた、本当に馬鹿ですわ」


「三回目だな」


「数えないでくださいませ」


 マルタがこちらに背を向けた。

 肩が震えていた。


「……お家のお金で?」


「家の金は使っていない」


「では」


「俺の名前で払った」


 セシリアは、しばらく黙った。

 マルタも、今度は肩を震わせなかった。


「好感度を見せてくれ」


「今ですの?」


「ああ」


「この犬の前で?」


「絵は関係ない」


「大いにございますわ」


 セシリアはしばらく渋っていたが、やがていつもの紙片を取り出した。

 六十一の下は、まだ空いていた。


「今からつけるのか」


「ええ」


「下がるだろう」


「そうでしょうね」


 セシリアはペンを取ってインク壺に浸し、紙の上まで持っていって、そこで止めた。

 止まったまま、動かなかった。


「どうした」


「黙っていてくださいませ」


 黙って待った。

 セシリアは一度俺を見て、絵を見て、もう一度俺を見た。


「……どうして」


「何がだ」


「どうして、そこまで真面目になさいますの」


「何を」


「嫌われることを、です」


「約束したからだ」


 セシリアのペン先が、紙の上でまた止まった。


「だからといって」


「ああ」


「二万金貨も」


「必要だった」


「必要ではございません」


「浪費家に見せるには」


「もっとお安くても十分ですわ!」


「中途半端にやって、また失敗したら困る」


 セシリアは何か言いかけて、やめた。

 視線が紙片に落ちた。


「……本当に」


「ああ」


「本当に、馬鹿ですわ」


「四回目だな」


「数えないでくださいませ!」


 ペンが動き、数字が書かれた。

 少し身を乗り出すと、セシリアは素早く紙片を手で覆った。


「まだです!」


「見えなかった」


「お見せしておりませんもの」


「書き終わったら見せてくれ」


「嫌です」


「約束した」


「その約束、毎回後悔しておりますわ」


 それでも結局、紙片は卓の上に出てきた。

 六十一の上に線が引かれ、その下に新しい数字が並んでいた。


 好感度 75/100


「……上がっている」


 セシリアは、自分で書いた数字を、汚れでも見るような目で見ていた。

 それから、目を閉じた。


「ええ」


「十四」


「数えないでくださいませ」


「前回と同じだ」


「分析なさらないでくださいませ!」


 温室の鳥籠の中で、小鳥が一羽、驚いたように止まり木から飛び上がった。


「おかしいだろう」


「金を失っただけなのに、上がった」


「ですから、いちばん困っているのは私なんです!」


 セシリアは紙片を握ったまま立ち上がった。

 耳が赤かったが、今日は頬まで少し赤く、怒っているにしては赤い範囲がいつもより広い気がした。


「理由は」


「申し上げません」


「次に生かしたい」


「絶対にお教えしません!」


「なぜだ」


「次も同じことをなさったら困るからですわ!」


 セシリアは、そこで一度息を整えた。


「それから、数字とは別のお話です」


「ああ」


「二度と、ご自分をこんなふうにお使いにならないでくださいませ。私、本当に怒っておりますのよ」


「上がっているのに」


「上がっていても、です」


 数字が上がることと、怒っていることは、別の話らしかった。

 そこまでは、俺にも分かった。

 分からないのは、それならなぜ数字のほうが下がらないのか、だけだった。


 理由が分かれば対策を立てられてしまうのだから、教えないほうが彼女にとっては筋が通っている。


「分かった」


「そこで素直に納得なさらないで!」


 難しい。

 セシリアは紙片を隠しへしまい、扉のほうへ数歩歩いてから、振り返らずに、ほとんど独り言のような声で言った。


「……馬鹿なことまで真面目になさる方、嫌いではありませんの」


「それが理由か」


「違います!」


 セシリアはそれきり、本当に一度も振り返らずに温室を出ていった。

 マルタが去り際に、黄色い犬の絵を一度だけ見て、それから俺を見て、深々と一礼した。

 何に対する礼なのかは、分からなかった。


 夕方に屋敷へ戻ると、すぐに父の書斎へ呼ばれた。

 扉を開けると、父は机の前に座っていて、いつも開いている帳簿が今日は閉じられていた。

 机の上には紙が一枚だけ置いてあり、それが競売会の証文の写しだということは、遠目にも分かった。


「座れ」


「はい」


 父は、紙の上を指先で二度叩いた。


「二万金貨」


「返します」


 父の指が止まった。


「……まだ何も言っていない」


「家の金には手をつけていません。俺の名前の借りです。返済の計画は、今夜のうちに書きます」


 父はしばらく俺の顔を見てから、紙の上へ目を戻した。


「何を買った」


「絵です」


「どんな」


「犬がいます」


「犬」


「黄色い」


「……そうか」


 父は眼鏡を外し、目頭を押さえた。

 セシリアに嫌われると報告した夜にも、この書斎で同じ仕草を見た。


「価値は」


「低いです」


「なぜ買った」


「浪費するためです」


 父は眼鏡をかけ直し、証文の写しを持ち上げ、俺の目の高さに掲げた。


「家の金でなくとも、家の名前は使っている」


「はい」


「侯爵家の嫡男が、競売会に二万の証文を書いた。明日には、王都の半分が知っている」


「はい」


「それで、どうやって返す」


「俺の個人の資産から」


「足りるのか」


「少し足りません」


「少しか」


「かなり」


 父の眉間に、深い皺が一本刻まれた。


「では、どうする」


「学院を出たあとの給付と、成人後に受け取る分から」


 今年で二十になったばかりで、成人後の受け取りまでは、まだ一年あった。


「廃嫡されたら」


 答えが、喉のところで止まった。

 父はそれを見逃さなかった。


「そうなれば、給付も減る」


「……そうですね」


「つまりお前は、家督を失うかもしれない身で、自分に二万金貨の借りを作ったわけだ」


「はい」


「少しは顔色を変えろ」


「変わっていませんか」


「変わっていない」


 父は大きく息を吐いた。


「計画は、明朝までに持ってこい」


「分かりました」


「それから」


「はい」


「その絵を、私の目の届くところに置くな」


「なぜです」


「見るたびに腹が立つ」


 それはもっともだと思った。


 自室に戻って机に紙を広げ、返済の計画を書き始めた。

 あらためて数字にしてみると、二万はやはり大きかった。

 手元の資産を書き出し、学院を出てからの給付を書き出し、乗らなくなった二頭立ての馬車を売ればいくらか減ることに気づいて書き加える。

 剣は売れないし、講義で使う本も手放せないし、服は最低限残しておかないとセシリアに怒られる。

 そこまで書いたところで、扉が叩かれた。


「入れ」


 入ってきたユリウスは、真っ先に机の上の紙を覗き込んだ。


「本当に買ったんだ」


「ああ」


「さっき廊下で見た」


「どうだった」


「犬が怖かった」


「俺も少し思った」


 ユリウスは勝手に椅子へ座った。


「伯父上は」


「返すと言ってきた」


「当然だよ」


「……兄さん」


「ああ」


「本当に、自分で返すの」


「俺が使った金だからな」


「ならいいけどさ。兄さんが廃嫡されたら、給付も減るんでしょ。兄さんが返せなくなったら、家が放っておけると思う? 次の嫡男になった俺のところにも、債権者は来るよ」


 そこまでは、考えていなかった。


「……すまない」


「謝るなら、返済のほうを急いで」


 ユリウスは机の端に置いてあった手帳を勝手に開き、女遊び、失敗、決闘、失敗と指でなぞって、浪費、のところで止めた。

 その横だけが、まだ空いている。


「好感度は」


「七十五」


 ユリウスは手帳を閉じた。


「失敗じゃん」


「評判は落ちたし、金も失った」


「好感度、上がってるのに?」


 ユリウスはしばらく黙って、机の上の返済計画を眺めていた。


「兄さん」


「ああ」


「途中で、やめようと思わなかった?」


「何を」


「二万出すの」


「少しは思った」


「いつ」


「署名をするときに」


「遅いよ」


「でも払った」


「なんで」


「約束した」


「誰もそこまでしろなんて言ってないでしょ」


 ユリウスは目を閉じた。

 何かを諦めた人間の顔だった。


「……セシリア嬢は、これ知ってるの」


「ああ」


「全部?」


「二万使ったことも、価値がないことも」


「返済することは」


「それはまだだ」


「言わないの」


「関係ないだろう」


 ユリウスが、ゆっくり目を開けた。


「兄さん」


「ああ」


「本当に、そういうところだと思うよ」


 それだけ言って、ユリウスは返事を待たずに部屋を出ていった。

 最近、周りの人間がよく話の途中で諦める。


 翌朝、学院へ向かう前に、もう一度手帳を開いた。

 浪費、と書いた行の横に、少し迷ってから、半分成功、と書いた。

 評判は落ちたし、金も失ったが、好感度だけは上がった。

 完全な失敗とは言えないが、同じ方法を続けるには、もう金が足りない。

 ペン先を紙の上で止めたまま、三つ並んだ行を眺めた。

 女遊び、決闘、浪費。

 三つとも、やる前は上手くいくと思っていて、三つとも、好感度だけが上がった。

 さすがに、少しおかしい。

 セシリアの採点の仕方に問題があるのではないか、と考えかけたところで、廊下から足音が近づいてきて、ユリウスが扉を開けた。


「兄さん」


「何だ」


「セシリア嬢が来てる」


「朝からか」


「うん」


「何の用だ」


「さあ」


 ユリウスは、少しだけ妙な顔をした。


「ただ、すごく怒ってる」


「昨日も怒っていた」


「昨日よりだよ」


「なぜだ」


「知らない。俺に訊かないで」


 ユリウスはそう言って目を逸らしたが、ほんの一瞬だけ、机の上の返済計画のほうを見た気がした。

 俺は手帳を閉じた。

 どうやら浪費の話には、まだ続きがあるらしかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。