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婚約破棄したい令嬢に嫌われようとしたら、何をしても好感度が上がってしまう ――悪役を演じるたび、婚約者が惚れ直してくる  作者: 臥裳斗真


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第三章 1話 価値のないものを、高く買いたい


 浪費なら、決闘よりずっと簡単だと思っていた。

 金を使えばいいだけで、相手はいないし、古傷もないし、剣が折れることもなく、誰かの事情を考える必要もない。

 今度こそ、失敗する理由が見当たらなかった。


「それを失敗って呼ぶ時点で、だいぶおかしいけどね」


 昼休みの食堂で、俺の手帳を覗き込んだユリウスは、そう言って食べかけのパンを皿に戻した。


「で、何を買うの」


「まだ決めていない」


「できれば安いものにして」


「安いものを買ったら浪費にならないだろう」


「浪費しなくていいって言ってるんだよ」


 もっともらしいことを言う。

 だが、今回ばかりは譲れなかった。

 女遊びはエヴェリーナたちの評判を気にして失敗し、決闘はアーネストの足を気にして失敗した。

 どちらも相手が人間だったからだ。

 金なら怪我もしないし、噂に傷つくこともない。

 家の勘定には手をつけない。自分の名前で払えば、困るのは俺だけで済む。


「二万くらい使えば足りるか」


 ユリウスがむせた。


「……金貨で?」


「二万」


「兄さん」


「ああ」


「金貨二万枚って、数字として分かってる?」


「分かっている」


「俺の学費の何年ぶんか、分かる?」


「計算していない」


「計算しないで!」


 声が裏返り、近くの席の学生が何人か振り返った。

 最近、この光景にもすっかり慣れてしまった。


「家の金は使わない。俺の名前で払う」


「兄さんの名前に、二万もないでしょ」


「足りない分は、借りる」


「もっと悪いよ!」


「誰にも迷惑はかからない」


「兄さんにかかるんだよ」


「それなら、構わない」


「構うんだよ、普通は。顔に、分かってないって書いてある」


「顔で判断するな」


「兄さんだってセシリア嬢の顔、全然読めてないでしょ」


 それは今の話とは関係がない。

 俺は手帳の、決闘、と書いた行の下に、浪費、と書き、さらにその下に、誰の役にも立たないものを高く買う、と書き足した。


 ちょうど三日後に、王都で春の美術競売会が開かれることになっていた。

 王侯貴族から裕福な商人までが集まり、絵画や彫刻から古い宝飾品まで、あらゆるものが競りにかけられる年に一度の催しだ。

 高いものが大量に並ぶ場所として、これ以上都合のいいところはなかった。

 ユリウスには三回止められた。

 父には何も言わなかった。

 セシリアにも黙っておくことにしたのは、先に話してしまうと、浪費家らしい驚きが薄れる気がしたからだ。

 会場の入口で目録を受け取り、端から順に目を通した。

 百年以上前の風景画、滅びた国の王冠にはまっていたという宝石、名のある彫刻家の習作、異国から船で運ばれてきた銀の食器。

 どれも高く、そして困ったことに、どれも買えば誰かが喜びそうだった。

 風景画は美しいし、宝石は珍しく、習作は研究の役に立ち、銀器は普通に使える。

 無駄なものが一つもない。

 目録を最後までめくり、もう一度最初から見直していると、会場の係員に声をかけられた。


「何かお探しでいらっしゃいますか」


「価値のないものを探している」


 係員が黙った。


「……当会に出品されておりますのは、すべて厳正な審査を通った品で」


「では、できるだけ価値の低いものを」


「お客様」


「それを高く買いたい」


「お客様?」


 説明が難しかったので、自分で探すことにした。

 競りは昼過ぎに始まったが、最初の一時間、俺は一度も札を上げられなかった。

 欲しいものがなかったからではなく、無駄なものが一つも出てこなかったからだ。

 周りでは金貨千枚、二千枚と景気よく値が上がっていくのに、どの品も、それだけ払う理由がちゃんと分かってしまう。

 隣に座った白髪の老人が、さっきから何度もこちらを窺っていた。


「若いの」


「はい」


「さっきから一度も札を上げんな」


「価値のないものを待っています」


 老人は、椅子を少しだけ俺から遠ざけた。

 その判断はよく分かる。

 やがて、会場の空気が変わった。

 係員が二人がかりで運んできたのは、窓一枚ぶんほどの大きさの絵で、額縁だけはやたらに立派だった。

 描かれているのは灰色の空と、灰色の川と、灰色の建物で、その真ん中に、なぜか黄色い犬が一匹だけ座っている。

 犬だけが妙に大きく、遠近がどうなっているのか、川幅より犬のほうが大きく見えた。

 会場が静まり返り、壇上の司会者が一つ咳払いをした。


「続きまして、作者不詳、雨の日の河畔」


 題だけは立派だった。


「およそ百十年前の作と推定されます。来歴は一部不明、修復歴あり。鑑定の結果は――」


 司会者がそこで一瞬だけ言葉に詰まった。


「――芸術的な評価は、現在のところ定まっておりません」


 つまり、あまり高くないということらしい。


「開始価格、金貨百枚」


 誰も札を上げなかった。

 隣の老人が咳をし、前の席の誰かが目録をぱたりと閉じた。

 絵の中の黄色い犬だけが、まっすぐこちらを見ていた。

 これだ、と思った。

 俺は札を上げた。


「百」


 司会者の顔が、ほんの少し明るくなった。


「金貨百枚。ほかにございませんか」


 誰も動かなかった。

 このままでは、安すぎる。


「二万」


 会場の空気が止まった。

 司会者も止まり、隣の老人がゆっくりと首をこちらへ回した。


「……ただいま、金貨二万、と仰いましたか」


「ああ」


「お客様」


 後ろから係員が駆け寄ってきた。


「二百ではなく」


「二万だ」


 何回確かめれば気が済むのだろう。

 会場がざわめき始め、司会者は壇上の水差しから一口水を飲んでから、木槌を握り直した。


「金貨二万。ほかに……」


 もちろん、誰もいなかった。


「二万、二万。――落札」


 木槌が鳴った。

 会計所の係員は、俺個人の預け先から払える額を確かめ、足りない分を競売会の後払いの証文に回す手続きを、何度も言い直しながら説明した。

 最後まで、心配そうに俺の顔を見ていた。


「本当に、こちらでお間違いございませんか」


「ああ」


「返品は」


「しない」


「鑑定書もお付けできますが」


「価値はあるのか」


「……鑑定書そのものには、ございます」


「絵は」


 係員は黙った。

 証文に自分の名前を書いた瞬間、さすがに胸のあたりが少しだけ冷えた。

 二万という数字は、手帳に書くのと、自分の名前の借りになるのとでは、まるで重さが違う。

 それでも、必要な出費だった。

 嫌われるための。


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