第五章 1話 攻守逆転
好感度が見えなくなって、三日が経った。
困っていた。
どれくらい困っているかというと、剣の稽古で目隠しをされたときよりも困っていて、あれはまだ相手の足音でどこから来るか分かったが、セシリアの好感度には足音がない。
手帳を開くと、女遊び、失敗、決闘、失敗、浪費、半分成功、と並んだ下の行が、三日前から白いままだった。
これまでは作戦を実行して数字を見れば、下がっていれば成功、上がっていれば失敗と、それだけで済んでいた。
今は、上手くいっているのかどうかさえ分からない。
「だから、もうやめればいいのに」
昼休みの食堂で、向かいに座ったユリウスが言った。
「やめる理由がない」
「理由なら山ほどあるよ」
「たとえば」
「俺の研究室」
「それは分かっている」
「分かってて続けてるのが怖いんだよ」
ユリウスはパンを小さくちぎった。
この三日、こいつは俺と昼食をとるたびに、真っ先に研究室の話をする。
前は、真っ先に川の話をしていた。
事情を考えれば、無理もない。
「でもさ、兄さん」
「ああ」
「本当に、まだ続けるの」
「約束したからな」
「セシリア嬢、もう採点してないんでしょ」
「ああ」
「じゃあ、嫌われたかどうか、どうやって判断するの」
「態度で分かる」
ユリウスが、ちぎったパンを持ったまま止まった。
「兄さんが?」
「ああ」
「セシリア嬢の態度を?」
「そうだ」
「無理じゃない?」
「なぜだ」
「兄さんがセシリア嬢の顔を読めた日、俺が知る限り一日もないから」
どういう意味かよく分からなかったので、聞き流すことにした。
「とにかく、次はもっと分かりやすい作戦にする」
「まだ考えてたんだ」
「昨夜決めた」
手帳を開き、三日間白かった行に、酒、と書いた。
ユリウスの顔が曇った。
「……何するの」
「酔い潰れる」
「兄さん、お酒強いよね」
「強い」
「どうやって潰れるの」
「大量に飲む」
「力技だなあ」
「酒に溺れる男は、印象が悪い」
「それはまあ、そうだけど」
「女遊びや決闘と違って、誰も巻き込まない」
「そこまで学んだ結果が、泥酔なの?」
「ああ」
ユリウスはしばらく黙って俺の顔を見ていたが、やがて、なぜか目を逸らした。
「……いつやるの」
「今夜だ」
「どこで」
「学院の親睦会」
「ああ、今日だったね」
学年をまたいだ交流のための会、という立派な名目がついているが、上級生ばかりになる後半には決まって酒が出る。
貴族の家の子弟が多い場所だから、そこで泥酔すれば、噂は一晩で王都中に広がるはずだった。
「兄さん」
「何だ」
「俺、今日は先に帰るね」
「なぜ」
「ちょっと用事を思い出した」
「研究室か」
「まあ、そんなところ」
席を立ったユリウスの足取りは、いつもより少しだけ速かった。
夜の親睦会には、予定どおり酒が出た。
長卓の上には葡萄酒から果実酒、蒸留酒まで、弱いものから強いものまで一通り並んでいて、俺はその中からいちばん強そうな瓶を選んで栓を抜き、杯に注いで一口飲んだ。
水だった。
もう一口飲んでも、やはり水だった。
瓶の札には、確かに蒸留酒と書いてある。
隣の果実酒を注いで飲むと、それも水で、三本目の葡萄酒も、色だけ赤い水だった。
「どうした、グランフォード」
隣にいた同級生が、怪訝そうに覗き込んできた。
「全部、水だ」
「何言ってるんだ」
「飲んでみろ」
杯を渡すと、同級生は一口含んで首をかしげた。
「……本当だ。水だな」
会場の反対側に目をやると、別の卓では皆、普通に顔を赤くして笑っていた。
水が出ているのは、俺のいる卓だけらしかった。
「兄さん」
背後で声がして、振り返るとユリウスが立っていた。
「帰ったんじゃなかったのか」
「用事が終わったんだよ」
「早いな」
「うん」
目が合わなかった。
「ユリウス」
「何」
「知っているか」
「何を」
「なぜ、この卓だけ水なんだ」
「健康に配慮したんじゃない?」
「学院が?」
「最近、そういう流れなのかも」
「そうか」
そんな話は聞いたことがなかったので、近くを通りかかった給仕を呼び止めた。
「すまない」
「はい」
「この卓の瓶、中身が水になっている」
給仕は瓶の札を見て、それから俺の顔を見た。
「ああ、そちらは――」
何か言いかけたその肩越しに、白に近い淡い青のドレスが見えた。
セシリアだった。
学院の主催する会なので、ローゼンベルク家の代表として顔を出しているのだろう。
目が合うと、セシリアはにっこりと笑った。
嫌な予感がした。
「そちらの卓のお酒は、すべて水に替えてございます」
給仕が言った。
「なぜだ」
「ローゼンベルク公爵令嬢より、グランフォード侯爵令息は本日お身体の具合がすぐれないため、と承っております」
セシリアを見ると、まだ笑っていた。
俺は彼女のところまで歩いていった。
「セシリア」
「ごきげんよう、レオン様」
「酒が水になっている」
「まあ」
「知っているな」
「何のお話でしょう」
「君が替えさせたと聞いた」
「私が自分で瓶の中身を入れ替えたわけではございませんわ」
「指示したのか」
「ええ」
あっさり認められた。
「なぜだ」
「お身体に障りますので」
「俺はどこも悪くない」
「存じております」
「では」
「これから悪くなるご予定だったのでしょう?」
言葉に詰まった。
少し離れたところで、ユリウスが壁の模様を熱心に眺めていた。
「……お前」
「俺は何も」
「まだ何も言っていない」
「先に否定しておきたくて」
セシリアが扇を開いた。
「お酒に溺れるおつもりだった、と伺いましたけれど」
「誰から」
「偶然ですわ」
「偶然で、卓の酒を全部水に替えるのか」
「備えは大切ですもの」
おかしい。
「ユリウス」
「はい」
「話したな」
「俺、研究室に行きたいんだ」
「答えになっていない」
「自衛だよ」
「誰から身を守る」
「兄さんからだよ!」
周りにいた何人かが振り向き、ユリウスは慌てて声を落とした。
「兄さんが婚約を壊すのに成功したら、俺が嫡男にされるんだよ。だったら俺にだって止める権利くらいあるでしょ」
「……ある」
「え」
「お前には、止める権利がある」
言ってから、自分がこれまで、ユリウスの選ぶ権利を一度も勘定に入れていなかったことに気づいた。
セシリアのためなら家督まで差し出すつもりでいて、その家督が誰の肩に移るのかは、考えたことがなかった。
分からないのは、もう一人のほうだった。
「セシリアは、なぜ手を貸す」
訊くと、セシリアの扇が、ほんの少しだけ止まった。
「それは」
「ああ」
「酔い潰れた殿方は、見苦しゅうございますから」
「嫌われるにはちょうどいい」
「ですから、ですわ」
「どういう意味だ」
「……あなたが、本当に見苦しくなる必要はございませんの」
「では、どうやって嫌われる」
「それは、ご自分でお考えくださいませ」
「俺の作戦を潰しておいて?」
「お質の悪い作戦でしたので」
「嫌われる作戦に、質の良し悪しがあるのか」
「ございます」
「どういう作戦なら良いんだ」
「私が許せるものですわ」
「君に許されたら、嫌われないだろう」
セシリアが黙った。
ユリウスも黙った。
いつの間にかセシリアの後ろに控えていたマルタだけが、そっと顔を背けた。
酒は失敗に終わったので、翌日は暴言にした。
昼休みの中庭でセシリアに声をかけようとしたところで、レオン様は本日お喉の具合がたいへんお悪いそうでございます、とマルタに割って入られ、どこからともなく出てきた紙とペンで、筆談をさせられることになった。
君はわがままだ、と書こうとして、ペンが止まった。
俺の家の事情を知った途端に婚約の解消を取りやめようとし、返済のことまで心配して朝から屋敷に来た人を、わがままとは書けなかった。
気が強い、も、口うるさい、も、考えれば考えるほど正確ではなく、結局何一つ書けないまま紙を返すと、セシリアは扇の陰で、十分ですわ、とだけ言った。
マルタが後ろで、一つ咳払いをした。
暴言も失敗したので、三つ目はもう少し確実なものにした。
ほかの女性への告白だ。
女遊びのときは三人を連れて歩いただけだったが、今度ははっきりと言葉にする。
婚約者がいるのに別の女性へ想いを告げる男なら、さすがに嫌われる。
問題は相手で、事情を話して協力してくれて、なおかつセシリアの評判を傷つけない人でなければならない。
考えた末に、舞踏会へ一緒に行った三人の中から選ぶことにした。
エヴェリーナなら、事情はもう知っている。
放課後になって政治史の教室を覗き、図書館を回り、食堂を探してもどこにもいなかったので、最後に中庭へ出ると、ようやく見つかった。
三人ともいた。
エヴェリーナと、クラリスと、ロッテと、それから。
「ごきげんよう、レオン様」
その真ん中に、セシリアが座っていた。
「……何をしている」
「お茶を」
中庭の卓には四人ぶんの茶器と焼き菓子が並んでいて、どう見ても今さっき思い立って始めた茶会ではなかった。
「なぜ三人が」
「お招きしましたの」
「セシリア様から、お茶のお誘いをいただきまして」
エヴェリーナが微笑んだ。
「ちょうど、レオン様のお話をしていたところですわ」
クラリスも頷いた。
「どんな話だ」
「秘密です」
ロッテまでが笑っていた。
嫌な予感がした。
「エヴェリーナ」
「はい」
「少し話がある」
「ええ」
「二人で」
「まあ」
エヴェリーナがセシリアを見て、セシリアもエヴェリーナを見た。
どちらも何も言わないのに、何かが通じ合っているように見えた。
「構いませんわ」
セシリアが言った。
「そうか」
「ただし、ここで」
「二人で話したい」
「なぜですの」
「君がいると困る」
「私は困りません」
「俺が困る」
「でしたら、なおさらここで」
話が進まないので、仕方なくエヴェリーナに向き直った。
「頼みがある」
「何でしょう」
「俺に告白されてくれ」
中庭が、しんと静かになった。
近くの木で、鳥が一羽だけ鳴いた。
エヴェリーナは、持っていた茶杯を静かに受け皿へ戻した。
「嫌です」
「まだ理由を話していない」
「存じております」
「なぜ」
「セシリア様から伺いましたので」
セシリアを見た。
「何をだ」
「あなたが、そろそろほかの女性に告白なさるのではないか、と思いまして」
「なぜ分かった」
「三日も考えれば、分かりますわね」
「分かります」
クラリスが続け、ロッテまで頷いた。
そんなに分かりやすいのだろうか。
「では、誰か協力してくれないか」
「嫌ですわ」
「私も」
「私もです」
三人同時だった。
「なぜだ」
「先日、助けていただきましたもの」
エヴェリーナが扇を開いた。
「恩人の婚約を壊すお手伝いは、少し」
クラリスが申し訳なさそうに目を伏せた。
「それに、セシリア様からお願いされましたので」
ロッテがいちばん申し訳なさそうな顔をした。
「何をだ」
三人の視線が、そろってセシリアへ向いた。
セシリアは茶を一口飲んだ。
「レオン様から何を頼まれても、お断りくださいませ、と」
「なぜ」
「私がお願いしたかったからですわ」
「だから、なぜだ」
セシリアは茶杯を置いた。
小さな音だった。
「お質が悪いので」
「告白の?」
「作戦の、ですわ」
「どこがだ」
「人の気持ちを、道具になさるでしょう」
「事情は説明する」
「ご説明して同意をいただけば、何をしてもよいというものではございません」
「前は、それで女遊びをした」
「ですから、次は駄目です」
「基準が変わっている」
「変えました」
「いつ」
「今です」
どこかで聞いた返事だった。
「それでは、どうすれば嫌われる」
「存じません」
「協力してくれないのか」
「いたしません」
「最初に頼んだのは、君だろう」
言った瞬間、セシリアの表情が止まった。
エヴェリーナたちも、少しだけ静かになった。
「……ええ」
セシリアが答えた。
「私が、お願いいたしました」
「ああ」
「だからこそ」
言葉を選ぶような間が、一つあった。
「嫌われるためなら何をなさってもよい、と申し上げた覚えはございませんわ」
「条件は三つだった」
「覚えております」
「君の評判を傷つけない。両家の関係を壊さない。原因はうちの側に作る」
「ええ」
「全部守っている」
「守りすぎなんですの!」
声が跳ね上がった。
エヴェリーナが扇で口元を隠し、クラリスがうつむき、ロッテは完全に横を向いた。
「守りすぎ?」
「……何でもございません」
「またか」
「またですわ」
セシリアが立ち上がった。
「とにかく、この方々はご協力なさいません」
「君が止めたからだろう」
「ええ」
「では、ほかの女性を探す」
「お好きになさいませ」
「そうする」
「どうぞ」
返事が妙に早かった。
その直後に、続きがあった。
「ただし」
「ああ」
「学院にいらっしゃる未婚のご令嬢方には、もうお話ししてございます」
「何をだ」
「同じお願いを」
固まった。
「何人に」
「さあ」
「お嬢様」
後ろからマルタが言った。
「昨日の時点で二十七名でございます」
「二十七」
「今朝、六名増えまして」
「三十三」
「お昼にさらにお二人」
「三十五」
「数えなくて結構ですわ!」
数えたくもなる。
「全員に、俺から告白されても断れと言ったのか」
「正確には、妙なお願いをされてもご協力なさらないで、と」
「同じだろう」
「少し違います」
「どこが」
「品がございます」
そうだろうか。
「セシリア」
「何ですの」
「本気で邪魔をしているな」
初めて、はっきりと口に出した。
セシリアが黙り、エヴェリーナたちも黙った。
「酒も」
「あれは、お身体のためです」
「暴言も」
「お喉のためです」
「告白も」
「皆様のためです」
「全部、俺の作戦を潰している」
「偶然ですわ」
「三十五人に話しておいて?」
「大きな偶然も、ございます」
「ないと思う」
セシリアの視線が、わずかに泳いだ。
珍しいことだった。
「君は」
言いかけた。
婚約を解きたくなくなったのか、と訊こうとして、やめた。
本人がそう言ったわけではないし、俺が勝手に決めていいことでもない。
セシリアのほうも、何かを待つように、じっとこちらを見ていた。
「……何ですの」
「いや」
「最後まで、仰ってくださいませ」
「やめておく」
「どうして」
「君が言っていないことだからだ」
セシリアの眉が、ほんの少しだけ動いた。
「……そういうところですわ」
「何がだ」
「今は、とても腹が立つところ、です」
セシリアは扇を閉じた。
「勝手にお決めにならないのは、結構ですわ。でも、尋ねることまで、おやめにならないでくださいませ」
返す言葉が、見つからなかった。
好かれているのかもしれない、と考えたことはあった。
けれど、そうだと決めてしまえば、彼女の代わりにまた答えを決めることになる気がした。
違うと言われたときのことを考えたくなかったのも、たぶん本当だった。
今日は、何でもない、ではなかった。




