第五章 2話 本人に聞く
その日の帰り、学院の正門を出ると、ユリウスが待っていた。
「兄さん。告白、どうだった」
「全員、断るように言われていた」
「ああ」
「知っていたな」
「まあね」
「お前も共犯か」
「共犯って言い方はやめて。俺は自分の人生を守ってるだけだから」
並んで歩き出した。
「研究室か」
「そうだよ」
「そんなに行きたいのか」
訊くと、ユリウスは珍しく、すぐには答えなかった。
「行きたいよ」
「ああ」
「兄さんには、あんまり分からないかもしれないけど、俺、昔から家を継ぐ前提じゃなかったからさ」
通りの向こうを、荷を積んだ馬車が一台、がたがたと音を立てて走っていった。
ユリウスはそれを目で追いながら、続けた。
「だから、好きに勉強していいって言われてたんだ。川を調べても、橋の模型を作っても、それが家の役に立つかなんて誰も気にしなかった」
「ああ」
「それで、本当に好きになったんだよ」
ユリウスが川の話をするのは珍しくないが、どうして好きになったのかを話すのを聞くのは、初めてだった。
「王立学院の研究室に入れたら、北の氾濫地帯の調査に行けるんだ」
「ああ」
「一度見てみたいんだよ。春の雪解けのときだけ、流れが三つに分かれる川があるんだって」
「知っている」
「知ってるの?」
「お前が前に話していた」
ユリウスがこちらを見た。
「覚えてたんだ」
「何度も聞いた」
「まあ、そうなんだけど」
ユリウスは、少しだけ笑った。
「だからさ」
「ああ」
「俺も、兄さんに勝手に人生を決められたくないんだよ」
足が止まりかけた。
ユリウスは前を向いたまま歩き続けていた。
「セシリア嬢が婚約を壊したかったのと、ちょっと似てるでしょ」
「……そうだな」
「だから、俺は止める」
「ああ」
「兄さんが嫌いだからじゃないよ」
「分かっている」
「むしろ好きだけど」
「急だな」
「今のは忘れて」
「分かった」
「そこはちょっと惜しんでよ」
難しい。
「でもさ」
ユリウスが言った。
「セシリア嬢が止めてる理由は、たぶん俺のとは違うと思う」
「そうか」
「訊かないの?」
「訊くなら、本人に訊く」
「へえ」
「さっき、そう言われた」
ユリウスは、また少し笑った。
「兄さん、ちょっとだけ変わったね」
それ以上は、何も言わなかった。
その夜、俺は父の書斎の扉を叩いた。
ユリウスの研究室の推薦に、当主の名で後ろ盾をつけてほしいと頼むと、父は帳簿から顔を上げずに言った。
「後継が変われば、その一筆も軽くなるぞ」
「分かっています」
「分かっていて、まだ婚約を壊すつもりか」
「ユリウスの道を潰さない形を、考えます」
父はしばらく黙ってから、引き出しから便箋を一枚出した。
書き上がった一筆には、当主の署名と、研究室の名がはっきりと記されていた。
翌日は、月に一度の茶会の日だった。
いつもの温室の、いつもの卓の、いつもの椅子に座ったが、好感度の紙片だけは出てこなかった。
焼き菓子の皿には、生姜入りとそうでないものが、いつもどおり半分ずつ並んでいた。
俺がいつものように生姜入りを取ると、セシリアがそれを目で追った。
「……まだ、そちらを召し上がるのね」
「嫌いではない」
「そうですの」
少しだけ、間があった。
「子どもの頃も、そうでしたわね。生姜の入ったほうを、いつもあなたが召し上がっていました」
「君が残すからだ」
「ええ」
「覚えていたのか」
訊くと、セシリアは、少し不思議そうにこちらを見た。
「覚えておりますわ」
「桟橋のことも?」
口にしてから、なぜそんなことを訊いたのか、自分でも分からなかった。
セシリアは瞬きをした。
「河港の、ですの?」
「ああ」
「覚えております」
「何を」
「二人で、船を待っていたこと」
「それは俺も覚えている」
「あなたが、いちばん最初に着く船を当ててみせると仰ったこと」
覚えていなかった。
「そんなことを言ったか」
「仰いました」
「当たったのか」
「外れました」
「そうか」
「三回」
「三回も」
「三回とも、ですわ」
「それは覚えていない」
「でしょうね」
セシリアは、少しだけ笑った。
「あなたが、忘れているだけですわ」
その一言が、妙に耳に残った。
俺は生姜入りの焼き菓子を、もう一つ取った。
「セシリア」
「はい」
「一つ、訊いていいか」
「内容によります」
「婚約を解きたいという気持ちは、今も変わっていないのか」
セシリアの指が、茶杯の取っ手に触れたまま止まった。
温室の外で、風が庭木の葉を揺らす音がした。
長い沈黙だった。
「……私は」
「ああ」
「自分で決めたい、と思っております」
「それは分かっている」
「今も」
「ああ」
「そこは、変わっておりません」
婚約を解きたい、とは言わなかった。
けれど、婚約を続けたい、とも言わなかった。
そのあいだにある隙間を、俺が勝手に埋めていいとは思えなかった。
「そうか」
それだけ答えた。
セシリアが、何か言いかけた。
「お嬢様」
そのとき、後ろに控えていたマルタが口を開いた。
「少々、よろしいでしょうか」
「何ですの」
「紙は裏返せても、お顔は裏返せません」
温室が、しんと静かになった。
「マルタ」
「はい」
「今月のお給金、少し減らしますわよ」
「承知いたしました」
「承知しないでくださいませ!」
久しぶりに、マルタの肩が震えていた。
俺はセシリアを見た。
「どういう意味だ」
「お訊きにならないでくださいませ!」
「だが」
「お訊きにならないで!」
ここ数日でいちばん大きな声だった。
茶会がそろそろ終わろうというころ、使用人が一通の封書を捧げ持って温室に入ってきた。
白い封筒に赤い封蝋が押されていて、その真ん中には王冠の紋が刻まれていた。
セシリアの表情が変わり、俺も焼き菓子から手を離した。
「王宮からでございます」
使用人が言った。
「グランフォード侯爵家、ローゼンベルク公爵家の両家ご当主、ならびにレオン様、セシリア様へ、と」
セシリアと目が合った。
さっきまでの話とは、種類が違っていた。
封はまだ切られていなかったが、紙を開く前から、嫌な予感だけははっきりとしていた。




