第六章 1話 王命
封書の中身は、思っていたよりずっと短かった。
グランフォード侯爵家、ローゼンベルク公爵家の両家当主、ならびにその婚約者たるレオン・グランフォード、セシリア・ローゼンベルクは、明朝王宮へ参内せよ。
それで全部で、理由はどこにも書かれていなかった。
「短いですわね」
セシリアが、開いた紙を見下ろしたまま言った。
「ああ」
「短い命令ほど、ろくなことがございませんの」
「そうなのか」
「長い命令なら、まだ説明する気がおありですもの」
なるほど、と思った。
後ろでマルタが、小さく頷いていた。
俺はもう一度、赤い封蝋に刻まれた王冠の紋を眺めた。
両家の当主と、俺とセシリアが名指しで呼ばれている以上、婚約の話である見込みは高い。
「父のところにも、同じものが届いているはずだ」
「当家にも、きっと」
「では、明日になれば分かる」
「そうですわね」
セシリアはそう言ったが、顔は少しも晴れていなかった。
俺もたぶん似たようなものだったと思うのだが、顔には出ていなかったらしい。
屋敷へ戻るなり父の書斎へ呼ばれ、少しは不安そうな顔をしろ、と言われた。
しています、と答えると、していない、と返された。
翌朝通されたのは、王宮の東棟にある小さな謁見室だった。
大広間ではなく、十人も入ればいっぱいになるような部屋で、壁には王家の紋章と、王国を南北に貫く大河の地図が掛けられていた。
中央の長卓の向こうに国王が座り、その左右に内務卿と外務卿が控え、手前の席には父と、セシリアの父であるローゼンベルク公爵がもう並んで座っていた。
俺とセシリアは、その隣に並んで腰を下ろした。
国王は五十を少し越えたくらいで、式典の肖像画で見るよりずっと疲れた顔をしていたが、こちらを見る目だけは鋭かった。
「さて」
国王が口を開いた。
「婚約を壊したいそうだな」
いきなりだった。
港務総監の指名権が動きかねない話は内務卿へ届け出る決まりがあり、父は両家のあいだで解消の話が出た時点で、それに従って報告を上げていたのだと、あとで知った。
隣で、セシリアの肩がわずかに揺れた。
「陛下、それは」
ローゼンベルク公爵が何か言いかけたが、国王は片手を上げてそれを止めた。
「当主ではなく、本人たちに訊いている。レオン・グランフォード」
「はい」
「壊したいのか」
「正確には、彼女が解消を望んでいます」
「お前は」
答えようとして、少しだけ間が空いた。
「……その意思を、尊重したいと思っています」
「そうか。セシリア・ローゼンベルク」
「はい」
「今も、解消を望むか」
セシリアの指先が、膝の上で一度だけ動いた。
俺はそちらを見ないようにした。
本人が答えることだった。
「私は、自分で決めたいと思っております」
国王の眉が、少しだけ上がった。
「答えがずれたな」
「申し訳ございません」
「いや、分かった」
国王は椅子の背にもたれた。
「だから面倒なのだ」
父と公爵の顔が、そろって少し険しくなった。
「婚約を続けたいなら話は早い。壊したいなら、それも本来なら家同士で片をつければいい」
「では、なぜ王宮が」
俺が訊くと、外務卿が卓の上に一枚の地図を広げた。
両家が共同で持つ王国最大の河港があり、そこからさらに大河を下った先に国境の線が引かれていて、その向こうが隣国だった。
「三週間ほど前から、隣国ヴァルデンの商会が、河港の下流にある倉庫を次々と買い集めております」
「商会が」
「あくまで、名目の上では民間です」
その言い方で、名目どおりではないのだと分かった。
「ヴァルデン王家とのつながりは」
「強い」
国王が答えた。
「港そのものに手を出すには、まだ早い。だから周りから押さえにきている」
外務卿が、下流の物流の要になる場所に、赤い駒を三つ置いた。
「春の雪解けのあと、川の水量が落ち着く時期に、河港の更新式がございます」
内務卿が言った。
「次の港務総監も、その場で正式に公示されます」
「承知しています」
「問題は、そこで両家の婚約が壊れていた場合だ」
父が、ようやく口を開いた。
「指名権がどちらへ移るか、そのものが問題なのではない」
「そうだ」
国王が頷いた。
「外から見れば、港を半分ずつ持つ二つの家が割れた、と映る」
それで、ようやく分かった。
「そこへ、隣国が入ってくる」
「そういうことだ」
国王は、まっすぐ俺を見た。
「お前たち二人の気持ちに、国が口を挟みたいわけではない」
気持ち、という言葉に、隣でセシリアの背筋がほんの少し固くなった。
「だが、今は港が揺らいでは困る」
国王は卓の上に、一枚の書面を置いた。
「よって、春の河港更新式までに、両家の婚姻契約を成立させよ」
部屋が静まり返った。
セシリアは動かず、俺もすぐには言葉が出なかった。
「婚姻、ですか」
「そうだ」
「婚約ではなく」
「婚姻契約だ。式そのものは後でも構わん。更新式までに、当人同士の合意と婚姻の日取り、両家当主の承認をそろえて、王家に届け出ろ」
更新式までは、あと四十日ほどしかなかった。
「陛下」
セシリアが言った。
声は落ち着いていた。
「それは、王命でございますか」
「ああ」
「お断りすれば」
「両家の当主に、港の権限の一部を返上させる」
重いが、処刑でも投獄でもない。
国王は脅しているというより、本当に港を守るための手続きを読み上げているだけに見えた。
「加えて」
内務卿が、書面の端を指先で示した。
「更新式までに婚姻契約が成立しない場合、港務総監の選出は、王室直轄の暫定の制度へ移します」
父の表情が、わずかに変わった。
ローゼンベルク公爵も同じだった。
両家にとって、それはかなり大きな話だった。
「つまり、両家が揉めれば、王家が港を預かる」
「揉めていなくとも、外からそう見えれば同じことだ」
国王が言った。
「分かるだろう」
「はい」
分かる。
筋が通っていて、だからこそ厄介だった。
理不尽な命令なら逆らいようもあるが、これは国王の思いつきではなく、河港と国境と隣国という、揃いすぎた事情から出てきたものだった。
「一つ、確かめさせてくださいませ」
セシリアが言った。
「何だ」
「お相手は、レオン様でなければならないのでしょうか」
胸の奥で、何かがほんの一瞬止まった。
国王は、すぐに答えた。
「今のところはな」
「今のところ、とは」
「目的は、両家の結びつきを外に示すことだ。内務卿のほうで、代わりの案も一つ用意はしてある」
嫌な予感がした。
内務卿が、書面を一枚めくった。
「たとえば、グランフォード家の後継をユリウス殿へ移し、ローゼンベルク家との縁組をあらためて整える案も」
「駄目です」
言ったのは、俺だった。
部屋じゅうの視線が、一度にこちらへ集まった。
自分でも思っていたより、ずっと早く声が出ていた。
「なぜだ」
国王が訊いた。
「ユリウスには、研究室があります」
「研究室」
「王立学院の水運研究室です。本人が望んで、ようやく推薦をもらった進路です」
国王の目が、少しだけ細くなった。
「それを理由に、国の方針を断るのか」
「本人が望んでいる道です」
「お前の婚約者も、本人の望みを理由に婚約を壊そうとしている」
「はい」
「一貫しているな」
「そうでしょうか」
「面倒なくらいにな」
褒められている気は、まったくしなかった。
セシリアは、隣で何も言わなかった。
「では」
国王が続けた。
「お前たちは、どうしたい」
またその問いだった。
裏返した紙の朝、応接室でセシリアに訊かれたのと同じ問いで、あのときも、俺は答えられなかった。
今も、すぐには出てこなかった。
「俺は」
口を開いたが、その先が続かなかった。
国王が待ち、父が待ち、公爵が待ち、隣でセシリアも待っていた。
「……彼女が、選べる形にしたいと思っています」
結局、出てきたのはそれだった。
国王が、小さくため息をついた。
「お前自身は、どうなのだ」
胸の奥を、指で直に突かれたような気がした。
「俺自身、ですか」
「ああ」
分からない、と言いかけて、それは少し違う気がした。
分からないのではなく、それを口にしていいのかどうかが分からない。
セシリアがまだ何も言っていないのに、俺が先に何かを決めつけていいとは思えなかった。
そこで、国王の隣で外務卿が低く咳払いをした。
「陛下。期限のご確認を」
「ああ」
助かったような、困ったような、どちらともつかない気分になった。
「四十日後の、河港更新式までだ」
国王は、書面をこちらへ滑らせた。
「それまでに、婚姻契約を成立させろ」
「……承知いたしました」
そう答えるしかなかった。
王宮を出たあと、俺とセシリアは同じ馬車に乗った。
話がある、とセシリアが言ったので、両家の当主はそれぞれ別の馬車で先に帰っていった。
向かい合って座ると、しばらくは車輪の音だけが続いた。
先に口を開いたのは、セシリアだった。
「どうなさいますの」
「考えている」
「何を、ですの」
「王命を守りながら、君が選べる方法を」
「……まだ、それを」
「ああ」
「婚姻すれば、王命は果たせますわ」
「だが、それでは君が選んだことにならない」
「そうですわね」
セシリアは窓の外へ目をやった。
王都の石造りの家並みが、ゆっくりと後ろへ流れていった。
「正直に申し上げます」
「ああ」
「以前の私なら、この王命をとても嫌ったと思いますの」
「今は」
訊いてから、少し早すぎたかもしれないと思った。
セシリアは、すぐには答えなかった。
「……今は、嫌う理由が、少し違います」
「どう違う」
「お教えしません」
「なぜだ」
「まだ、ですわ」
また、まだ、だった。
「では、どうする」
「一つ、確かめさせてくださいませ」
「ああ」
「今の婚約をそのまま婚姻に進めたら、私は、親と王家に決められたお相手と、そのまま結婚することになりますわね」
「そうなる」
「あなたは、それでよろしいの?」
答えが止まった。
「俺は」
今日は、こればかりだった。
「……君が嫌なら、嫌だ」
セシリアの眉が寄った。
「また、それですの」
「何がだ」
「君が嫌なら。君が望むなら」
「後のほうは言っていない」
「同じことですわ」
少し、怒っていた。
「では、何と言えばいい」
「存じません」
「困る」
「私も困っております」
しばらく黙っているうちに、馬車が角を曲がり、窓の向こうの遠くに河港の倉庫が並んでいるのが見えた。
「レオン様」
「ああ」
「いったん、婚約を解いてしまいませんか」
今度は、俺が黙る番だった。
「今、何と言った」
「この婚約を、一度終わらせるのです」
「王命が出たその日にか」
「ええ」
「婚姻しろと言われているんだぞ」
「ですから」
セシリアは、膝の上で手を組み直した。
「今の婚約のまま結婚するのが、嫌なんですの」
はっきりと言った。
「嫌、なのか」
「ええ」
「俺とか」
「違います!」
即答だった。
御者台の向こうで、馬が驚いたように鼻を鳴らした。
「では、何がだ」
「今の婚約が、です」
「同じでは」
「違います!」
二度目だった。
セシリアは一度目を閉じ、それから、ゆっくりと開いた。
「この婚約は、十歳の私が何も知らないうちに決められたものですわ」
「ああ」
「それを、そのまま王命で婚姻に変えてしまったら、私は結局、一度も選んでいないことになります」
それは、分かった。
「ですから、一度なくします」
「そのあとは、どうする」
「……そのあとは」
セシリアはそこで止まった。
「セシリア」
「今は、まだですわ」
「またか」
「またですわ」
けれど今度は、少しだけ笑っていた。
「問題がある」
「何ですの」
「一度解いて、すぐに同じ相手と結び直せるなら、ただの形だけになる。王命から逃れるための細工だと思われる」
「私もそう思いました」
「では」
「調べましたの」
「いつ」
「謁見のあと、控えの間で両家の父が話し込んでいらした間に、内務卿様の書記官をつかまえて」
「早いな」
「あなたが陛下の前で固まっていらしたぶん、私が動きませんと」
それは、少し恥ずかしかった。
「王家の婚姻認証の規則では」
セシリアが続けた。
「同じ二人の婚約を正式に解いた場合、結び直すには、両家当主の承認か、王家の認証が要りますの」
「つまり」
「一度壊したら、私たち二人だけでは元に戻せませんわ」




