第六章 2話 一度、なくす
それなら、意味がある。
本当に壊れるし、しくじれば戻らない。
その重さが、急に目の前に見えた気がした。
「それから、もう一つ」
「港のことか」
「ええ。合意で解いた場合の指名権のことを、あらためて伺いましたの」
「どうなる」
「やはり、決まっていないそうですわ。両家とも失うと読む方も、どちらも失わないと読む方もいらして、このまま更新式を迎えれば、最後は陛下がお決めになるでしょう、と」
温室で最初の申請書を見せられた日に、公爵に退けられたとセシリアが言っていた、あの穴だった。
これまでは、決まっていないから避けて通ればよかった。
王命で期限が切られた今は、避けて通る道のほうがなくなっていた。
「なら、その穴を埋める案は、こちらで出す」
「あなたが?」
「港務総監になるつもりで、十年勉強してきた」
「……そうでしたわね」
セシリアは、少しだけ笑った。
「では、港のほうはお任せいたします」
「怖くないのか」
思わず訊いていた。
セシリアは少し驚いたようにこちらを見て、それから、すぐに答えた。
「怖いですわ」
「ああ」
「でも、怖いからそのままにしておくほうが、もっと嫌ですの」
強い人だと思ったが、口に出すのはやめた。
そう言われて本人がどう思うのか、分からなかった。
「では、一度壊す」
「ええ」
「そのあとは」
「そのあと、考えますわ」
「四十日しかない」
「四十日もございます」
「短い」
「長いです」
「どちらだ」
「私には、長いのですわ」
その日の夕方、父に話した。
婚約を一度解きたい、と言うと、父は三つ数えるくらいのあいだ黙っていた。
「王命が出た、その日にか」
「はい」
父は机の上で指を組んだ。
「理由は」
「今の婚約を、そのまま婚姻にしたくないからです。俺も、セシリアも」
父の眉が、わずかに動いた。
「それで、解いたあとはどうする」
「まだ決めていません」
「お認めいただけませんか」
「私一人で決められる話ではない。ローゼンベルク公爵と話す」
「お願いします」
「それから」
「はい」
「お前自身は、セシリア嬢と結婚したいのか」
また来た。
今日だけで、三度目だった。
「俺は」
言葉が止まり、父は黙って待っていた。
「……分かりません」
正直に言った。
父は眼鏡を外し、しばらく俺の顔を眺めていた。
「そうか」
「はい」
「なら、分かるまで婚姻するな」
思ってもいなかった言葉だった。
「よろしいのですか」
「よくはない」
「では」
「だが、分からないまま結婚して、あとになって国や家のせいにされても困る」
「そんなことはしません」
「お前はしないだろう」
父は眼鏡をかけ直した。
「だから、余計に困る」
意味は分からなかった。
「ただし、一度壊すなら本当に壊せ。形だけの解消は認めん」
「分かっています」
「指輪も返せ」
胸の奥が、一瞬だけ重くなった。
「指輪」
「婚約の指輪だ。当然だろう」
「……はい」
分かっていたことだった。
一度壊すというのは、そういうことだ。
書類の上だけでなく、十歳のときから彼女の指にある、俺が贈ったことになっているあの指輪も、なくなる。
その光景を思い浮かべたら、なぜか、少しだけ嫌だった。
三日後、両家の当主を交えた話し合いが開かれた。
場所は王都ではなく、わざわざ河港の共同管理館が選ばれた。
窓の外には大河が流れ、荷を積んだ船が行き交い、倉庫が並び、そのどれもが両家で分け合っている土地の上にあった。
俺たちの婚約が二人だけの話ではないことを、嫌でも思い出させる場所だった。
ローゼンベルク公爵は、最初から最後まで険しい顔をしていた。
「確認する」
低い声だった。
「一度、正式に婚約を解く」
「はい」
セシリアが答えた。
「そのあと、同じ相手と婚姻する見込みは」
「ございます」
「ない見込みも」
「ございます」
公爵の眉間に、深い皺が寄った。
「遊びではないのだぞ」
「承知しております」
「お前はどうなのだ」
公爵の視線が、俺に移った。
「同じです」
「……気に入らんな」
公爵は椅子の背にもたれた。
「だが」
意外にも、その先があった。
「セシリアがここまで言うのなら、止めても同じことだろう」
セシリアが、少しだけ目を見開いた。
「お父様」
「勘違いするな。賛成したわけではない」
「はい」
「ただし」
公爵は、俺のほうを向いた。
「もう一度婚約するのなら、今度は私ではなく、お前たち二人が理由を説明しろ」
「理由、ですか」
「なぜ、その相手なのかをだ」
胸の奥が、また少し重くなった。
今の俺には、まだ答えられない問いだった。
たぶん、セシリアも。
「分かりました」
それでも、そう答えた。
話し合いが終わったあと、俺とセシリアだけで管理館の屋上へ出た。
川から吹き上げてくる風が強く、足もとでは船が行き交い、荷車が動き、大勢の人が働いていた。
「ここでしたわね。子どもの頃、二人で船を待っていた桟橋」
セシリアが言った。
少し離れたところに、それらしい桟橋が見えた。
倉庫が増えたせいか、記憶の中より、ずいぶん狭く見えた。
「たぶん、あそこだ」
「たぶん?」
「船を三回外したことも、覚えていないからな」
「そうでしたわね」
セシリアが笑った。
「レオン様」
「ああ」
「本当に、よろしいの。一度、なくしてしまっても」
すぐには答えられなかった。
婚約がなくなれば、他人になる。
もう会わなくなるかもしれない、とユリウスに言われたことを思い出した。
それも、あり得る。
「怖い」
気づいたら、そう口にしていた。
セシリアの目が、少し大きくなった。
「……あなたが?」
「ああ」
「お珍しいですわね」
「俺もそう思う」
「何が、怖いんですの」
訊かれて、また答えが止まった。
「……分からない」
セシリアが、少しだけ困ったように笑った。
「そればかりですのね」
風にあおられて、セシリアの髪が揺れ、その拍子に左手の指輪が見えた。
十歳のときからそこにある、両家の紋を組み合わせた婚約の指輪だった。
あと少しで、それが外れる。
「でも」
セシリアが言った。
「私も、怖いですわ」
「ああ」
「ですから」
セシリアは、左手をそっと胸もとへ寄せた。
「今度は、怖いまま選びます」
その言葉だけは、半分ではなく、全部分かった気がした。
その夜、手帳を開いた。
酒、失敗。
暴言、失敗。
告白、失敗。
その下に、少し迷ってから、婚約解消、と書いた。
今度は、嫌われるためではなかった。
何のためかと考えて、セシリアが選ぶため、と書きかけ、手が止まった。
それだけでは、足りない気がした。
何が足りないのかは、まだ分からなかった。
だから、婚約解消、と書いた行の横には、何も書かなかった。
王宮で婚約解消を正式に確かめる場が設けられたのは、その翌週のことだった。




