第七章 1話 指輪
婚約を解く日の朝も、セシリアは指輪をしていた。
まだ婚約者なのだから、外す理由はどこにもない。
それでも王宮の控え室で向かいに座った彼女の左手が目に入るたびに、あと少しでそこから指輪がなくなるのだと、同じことを何度も考えた。
「レオン様」
「ああ」
「先ほどから、何をご覧になっていますの」
「指輪だ」
セシリアは、自分の左手に目を落とした。
「……そうですの」
「ああ」
「今さら、惜しくなりまして?」
「分からない」
「そこは、分かってくださいませ」
「すまない」
「謝っていただきたいわけでもございません」
難しい。
控え室には、俺とセシリアのほかに父とローゼンベルク公爵とマルタがいて、ユリウスだけがいなかった。
今日は学院で研究の発表があるらしい。
昨日、兄の婚約が本当に終わる日なのに来なくていいのかと訊いたら、来てほしいの、と訊き返されたので、研究発表のほうが大事だろうと答えると、そういうところだよ、と言われた。
父は朝からほとんど口を開かず、公爵も腕を組んだまま黙っていた。
マルタだけが、セシリアの後ろに立ったまま、ときどき主人の左手を見ていた。
やがて扉が開いて、王宮の書記官が顔を出した。
「お時間でございます」
セシリアが立ち上がり、俺も立った。
並んで扉へ向かいかけたところで、ほんの一瞬だけ、セシリアの足が止まった。
「どうした」
「いいえ」
セシリアは左手を胸もとに寄せた。
「参りましょう」
「ああ」
正式に確かめる場として選ばれたのは、先日と同じ小さな謁見室だった。
壁には同じ大河の地図が掛かり、同じ長卓の向こうに同じ国王が座っていたが、一つだけ違っていて、卓の真ん中に銀の盆が置かれていた。
盆の上には何も載っていない。
何も載っていないことが、妙に目についた。
解消を認めてもらう条件として、両家は更新式までのあいだ港の管理をこれまでどおり共同で続け、どちらの家も指名権を言い立てないという約定を、前日のうちに王家へ出していた。
港を揺らさない担保があるから、国王はこの場を開いたのだった。
俺たちが席に着くと、国王は手もとの書面に一度目を通してから顔を上げた。
「最後に確かめる」
「はい」
「本日をもって、レオン・グランフォードとセシリア・ローゼンベルクの婚約の契約を、正式に解く。両家の当主は承認済みで、本人たちも同意している。間違いないな」
「はい」
俺が答え、少し遅れて、セシリアも答えた。
「はい」
国王は、俺たちの顔を順に見た。
「念のため訊くが、これは王命から逃れるための、形だけの解消ではないな」
「違います」
今度は、セシリアのほうが先だった。
「理由を」
「今の婚約は、私どもが選んだものではないからですわ」
「だから、一度捨てると」
「はい」
「戻れないかもしれんぞ」
「承知しております」
「お前もか」
国王の視線が、俺に移った。
「はい」
「本当に」
「……はい」
国王の目が細くなった。
「間があったな」
「怖くないとは、言えません」
「何が怖い」
河港の屋上で、セシリアに訊かれたのと同じ問いだった。
あのときは答えられなかったし、今日もすぐには出てこなかった。
「なくなることが、です」
口にしてから、自分でも少し驚いた。
「何がなくなる」
「今まで、あったものが」
国王は何も言わず、セシリアも何も言わなかった。
「婚約も、茶会も、会う理由も」
そこまで言って、止まった。
声に出して並べてみると、思っていたよりずっと多かった。
「それでも解くのか」
「はい」
「なぜだ」
「一度なくしてからでないと、自分で選んだことにならないからです」
今度は、少しだけ早く答えられた。
国王は椅子の背にもたれた。
「二人とも、面倒なところばかりよく似てきたな」
隣で、セシリアがほんの少しだけこちらを見た。
「では、手続きを進める」
書記官が二枚の書面を運んできて、一枚を俺の前に、もう一枚をセシリアの前に置いた。
両家の当主の署名はすでに入っていて、残っているのは俺たちの名前だけだった。
ペンを取り、いつもと同じように、レオン・グランフォード、と書いた。
十年続いた婚約がこれだけで終わるというのは、ひどくあっけないことに思えた。
隣で、ペン先が紙をこする音がした。
書記官が二枚の書面を重ねて確かめ、国王の前に置くと、国王はそこに印を押した。
乾いた音が、一つ。
「これをもって、婚約の解消を認める」
終わった。
思っていたより、ずっと静かだった。
鐘が鳴るわけでも、誰かが手を叩くわけでもなく、ただ書面の上に印が一つ増えただけだった。
「指輪を」
書記官が言った。
セシリアの左手が、膝の上で止まった。
俺も、それを見ていた。
セシリアは右手を添えて指輪に指をかけたが、すぐには抜けず、ほんの少しだけ関節に引っかかった。
セシリアが息を止めて、もう一度、今度はゆっくりと回した。
十歳のころから何度も寸法を直しながらはめ続けてきた指輪が、左手の薬指から外れた。
その下だけ、肌の色がほんの少し白かった。
見なければよかったと思ったが、目を逸らせなかった。
セシリアは指輪を掌に載せてしばらく見つめ、それから、銀の盆の上に置いた。
小さな音だった。
なのに、書面に印が押されたときよりも、ずっと大きく聞こえた。
書記官が盆を持ち上げて父の前まで運び、指輪は、本当にグランフォードの家へ返っていった。
「これで」
国王が言った。
「セシリア・ローゼンベルク」
「はい」
「お前は、誰とも婚約していない」
セシリアは一度、何もなくなった自分の左手を見た。
「はい」
「望んだ形か」
少しだけ、間があった。
「……はい」
その返事を聞いて、安心した、と思った。
たぶん、そうだった。
そう思った直後に、胸の奥が妙に重いことに気づいて、どちらが本当なのか、よく分からなくなった。
「レオン・グランフォード」
「はい」
「お前も、もうこの娘の婚約者ではない」
「はい」
「これで満足か」
すぐには答えられなかった。
「満足では、ありません」
国王の眉が上がり、隣でセシリアの指がほんの少しだけ動いた。
「ほう」
「ですが、必要だったと思っています」
「その違いは何だ」
「まだ、うまく説明できません」
「お前は本当に、そればかりだな」
「すみません」
「謝るな。腹が立つ」
ユリウスと同じことを言う。
国王は書面を閉じた。
「さて」
声の調子が、少し変わった。
「ここからは、婚約の解消とは別の話だ」
嫌な予感がした。
「王命は、まだ残っている」
「はい」
「春の河港更新式までに、両家の婚姻契約を成立させること」
「承知しています」
「今のお前たちは、その命令に対して何の備えもない。しかも、ついさっき、自分たちの手で唯一の婚約を壊した」
「はい」
「よく分かっているな」
「分かっています」
「では、その責任も取れ」
国王が書記官に目をやると、もう一枚、紙が出てきた。
「レオン・グランフォード。本日より、新しい婚姻契約が王家に届け出られるまで、王宮西棟の客室に留まれ」
思ってもいなかった命令だった。
「……王宮に、ですか」
「ああ」
「なぜでしょう」
「今からお前がほかの令嬢に婚約を申し込んだり、また二万金貨の絵を買ったりすると困る」
セシリアが横を向き、父が目を閉じた。
「絵は関係ないと思います」
「ある。お前は予想もつかないことを、真面目にやる」
否定できなかった。
「港の協議の当事者として、ここを滞在先にしろということだ。軟禁などと呼ぶなよ」
「軟禁では」
「呼ぶなと言った」
「はい」
「学院へは通ってよい。ただし毎晩ここへ戻り、書記官に進み具合を報告しろ。逃げずに考えろ、ということだ」
「期限は」
「婚姻契約が成立するまでだ。長くとも、更新式の前日まで」
つまり、少なくとも何かが決まるまでは、屋敷へは帰れないらしかった。
「分かりました」
「軽いな」
「重く答えたほうがよろしいですか」
「もういい」
国王は額に手を当てた。
「それから、最後に一つ訊く」
また、嫌な予感がした。
「今なら、まだ撤回できる」
「何をですか」
「婚約の解消だ」
セシリアが顔を上げた。
「書面は成り立ったが、王家の認証は、今日この場を閉じるまでなら留め置ける」
書記官が、少し驚いた顔をした。
どうやら、予定にはなかったことらしい。
国王は、まっすぐ俺を見た。
「レオン」
初めて、名前だけで呼ばれた。
「お前は、この娘を望まぬのか」
時間が止まったような気がした。
父も、公爵も、書記官も、セシリアも、誰も動かなかった。
望む、という言葉の意味を考えながら、隣を見た。
指輪のない左手が、膝の上に置かれていた。
十年そこにあったものが、もうない。
茶会も、生姜入りの焼き菓子を食べる理由も、桟橋の話をする理由も、庭の端から俺の剣を見ていた彼女の目も、俺が彼女を見る理由も、全部なくなるかもしれない。
それは嫌だった。
そこまでは分かった。
なら、望むと言えばいい。
尋ねることと決めつけることが違うのは、もう教わっていた。
分かっていて、それでも声が出なかったのは、別の理由だった。
ここで望むと言って、彼女が首を横に振ったら。
自由になったその日に、俺がその自由の邪魔になったら。
生まれて初めて、断られるのが怖いと思った。
「俺は」
声は出た。
その先が、出なかった。
セシリアがこちらを見ていた。
待っているのかもしれなかったが、そうでなかったときのことを考えると、喉の奥で言葉が固まった。
国王は長いあいだ待っていた。
「答えられんか」
「……はい」
そう言うしかなかった。
セシリアの視線が、ほんの少しだけ下に落ちた。
胸の奥が痛んだ。
今度のは、はっきり分かった。
痛かった。
「そうか」
国王は、それ以上何も言わなかった。
「では、認証する」
木槌が鳴り、婚約は、終わった。




