第七章 2話 会う理由
謁見室を出ると、廊下でセシリアと向かい合う形になった。
マルタは少し離れたところに控えていて、父たちは今後の港の話があるとかで、まだ国王と部屋に残っていた。
セシリアの左手には、もう何もなかった。
「セシリア」
「はい」
返事は、いつもと同じだった。
それだけで、少し安心した。
「さっきは」
「何ですの」
「……いや」
謝るべきなのか、謝るとしたら何をなのか。
答えられなかったことをか、と考えて、けれど分からないまま口にするほうが失礼な気がして、結局、何も続かなかった。
「王宮の西棟、でしたわね」
「ああ」
「長くなりそうですの?」
「分からない」
「そうですの」
会話が途切れた。
珍しいことだった。
いつもなら俺が何か余計なことを言って、セシリアが怒る。
今日は、それすらなかった。
「次の茶会は」
気がつけば、訊いていた。
セシリアが瞬きをした。
「茶会、ですの?」
「月に一度の」
「……あれは」
セシリアは、少し言いにくそうにした。
「婚約者同士の顔合わせとして、両家で決めたものでしたから」
「ああ」
「もう、必要はございませんわ」
分かっていた。
分かっていたのに、そうか、としか言えなかった。
「でも」
セシリアが、顔を上げた。
「必要がなくても、お茶くらいはいただけますわ」
「そうなのか」
「……どうしてそこで、本気でお驚きになるの」
「会う理由がないと思っていた」
セシリアが黙った。
「理由がなければ、お会いしてはいけませんの?」
「いや」
「では」
「会ってもいいのか」
「私にお訊きにならないでくださいませ!」
久しぶりに、声が大きくなった。
少しだけ、ほっとした。
「怒ったな」
「怒りますわ!」
「ああ」
「どうして嬉しそうなんですの!」
「いつもどおりだから」
セシリアの口が止まった。
それから、ほんの少しだけ、表情がほどけた。
「……そうですの」
「ああ」
また沈黙が来たが、今度はさっきほど重くはなかった。
けれど、やはり彼女の左手には、何もなかった。
王宮西棟の客室は、軟禁と呼ぶには出入りが自由すぎた。
昼は学院へ通えたし、戻る刻限さえ破らなければ、帰りに書店へ寄ることもできた。
寝室と書斎と小さな応接間に、専用の浴室までついていて、窓に鉄格子もはまっていない。
ただし、廊下の両端には近衛兵が一人ずつ立っていた。
「軟禁だね」
研究発表を終えてから荷物を運び込んでくれたユリウスが、部屋を見回して言った。
「陛下は、そう呼ぶなと」
「じゃあ、通学つきの豪華な軟禁」
「それも駄目だと思う」
「兄さん、真面目だね」
机の上には屋敷から運ばせた本と課題が積まれていて、その横に、父から届いた小さな箱が置いてあった。
「それ、何」
「指輪だ」
ユリウスが黙った。
箱を開けると、セシリアが銀の盆に置いた婚約の指輪が、布の上に収まっていた。
磨かれた金の輪に、両家の紋が刻まれている。
「伯父上、兄さんに渡したんだ」
「ああ」
「なんで」
「自分で管理しろ、だそうだ」
「重いなあ」
「軽いぞ」
「そういう意味じゃないよ」
指輪をつまみ上げ、掌に載せた。
本当に軽かった。
これ一つがなくなっただけなのに、温室も茶会も、十年ぶんの習慣も、全部が形を変えてしまったように見えた。
「兄さん」
「ああ」
「今日、陛下に何て訊かれたの」
どこから聞いたのだろう。
「お前はこの娘を望まないのか、と」
「それで」
「答えられなかった」
ユリウスが黙った。
「何だ」
「いや」
「言いたいことがあるなら言え」
「今日は、やめとく」
「なぜ」
「兄さん、自分で考えたほうがいい気がするから」
「そうか」
ユリウスは立ち上がった。
「じゃあ、俺は帰るね。明日、学院で」
「研究室は」
「行くよ。終わったら、またここに寄る」
「毎日来なくていい。無理はするな」
「兄さん、そういうところだよ」
ユリウスは笑って、部屋を出ていった。
夜になって一人になってから、手帳を開いた。
女遊び、失敗。
決闘、失敗。
浪費、半分成功。
酒、暴言、告白、どれも失敗。
そして、婚約解消。
その横は、まだ空いていた。
目的は果たしたし、セシリアは自由になり、俺も婚約者ではなくなったのだから、成功と書けばいいはずだった。
ペンを持って、成功、と書こうとして、書けなかった。
昼間のことを思い出した。
銀の盆と、指輪が盆に置かれたときの小さな音と、白く残った左手の薬指と、もう要らなくなった月に一度の茶会と、お前はこの娘を望まぬのか、という国王の声と。
名前なら、もうついていた。
ただ、それを口にして断られることのほうが、婚約を解くよりずっと怖かった。
机の上に箱を置き、開いたままの中の指輪を眺めた。
「……軽いな」
指先で触れてみても、やはり軽かった。
なのに、なくなってからのほうが、ずっと重かった。
手帳の、婚約解消、と書いた行の横には、最後まで何も書けなかった。




