第八章 1話 婚約申込書
河港の更新式まで、あと二日になった。
王宮西棟の客室にも、すっかり慣れてしまった。
朝は西棟から学院へ通い、昼にはユリウスと食堂で川の話を聞かされ、夕方に戻ってくると、王宮の書記官が、婚姻契約はまとまりましたか、と毎日同じことを訊きに来る。
決まっていない、と答える。
それを、ひと月近く続けた。
初めのうちは国王からも何かと言伝があったが、やがてそれも途絶え、期限が近づくころには、書記官までが俺を見る目を少しだけ優しくした。
諦められたのかもしれない。
机の右端には、あの小さな箱が置いたままになっていた。
中身は、婚約の指輪だ。
一度も片づけなかった。
なぜかは分からないが、引き出しにしまう気にはどうしてもなれなかった。
更新式のある日が、王命の期限の日だった。
それまでに婚姻契約が成立しなければ、港務総監の選出は王家の暫定の制度に移るはずだった。
婚姻については、父もローゼンベルク公爵も、もう何も言ってこなかった。
ユリウスだけが、昨日の帰りぎわに扉のところで振り返った。
「兄さん。あと二日だよ」
「分かっている」
「本当に?」
「ああ」
「じゃあ、何するの」
「分からない」
「ひと月近くもあって?」
「ああ」
「すごいね」
「褒めているのか」
「まさか」
そう言って、ユリウスは帰っていった。
婚姻契約のほうは決まらないままだったが、港の案だけは書き進めていた。
講義が終わると、港の規約と過去の更新式の記録を借り出して、西棟の机に広げた。
どちらの家の者でもない今の副総監を、両家がそろって次の港務総監に推し、両家からは補佐を一人ずつ出す。
下流の倉庫を同じ商会が続けて買い取るときには、両家の承認が要るようにする。
書いては父に送り、赤を入れて送り返されては、また直した。
婚姻が国の都合で決まるなら、その都合のほうを先に片づけるしかなかった。
十日ほど前、戻ってきた案の端に、公爵とも話した、とだけ父の字で書き添えてあった。
四日前、その案が両家の連名で王宮へ出た。
昨日の昼、内務卿から書面が届いた。
両家がこのとおりに港を回すなら、外から割れたとは見えない。婚姻契約がなくとも、港務総監の選出を王家へ移す理由はない。
王命は、取り下げられた。
西棟に留まれという命も、一緒に解かれた。
更新式までは港の協議が残っているので、部屋はそのまま借りることにした。
今度は、自分で決めて残る部屋だった。
国のために結婚する理由は、それでなくなった。
なくなってみると、残っているのは俺の理由だけだった。
このひと月近くのあいだに、セシリアとは三度会った。
婚約者ではないので、月に一度の茶会としてではない。
一度目は王宮の庭で偶然に、二度目は、俺の案に要る古い記録を、公爵家の書庫から届けにきたついでだった。
三度目は、六日前の夕方だった。
西棟の応接間に通されたセシリアは、手ぶらだった。
「今日は、港の資料は」
「ございません」
「王宮へのご用は」
「それも、ございません」
「では、何をしに」
セシリアは少し黙ってから、侍従が運んできた焼き菓子の皿に目をやった。
「お茶を、いただきに参りましたの」
「理由は」
「要りますの?」
要らない、と言われたのだった。
廊下で、必要がなくてもお茶くらいはいただける、と言われた日のことを思い出した。
「……要らない」
「でしたら、お訊きにならないでくださいませ」
皿には、王宮の厨房の焼き菓子が並んでいて、その中に、生姜の入ったものが一つだけ混じっていた。
俺がそれを取ると、セシリアは何も言わずに、生姜の入っていないほうへ手を伸ばした。
その日はそれから一刻ほど、港の話も王命の話もせずに、学院の講義のことや、ユリウスが研究室の窓から川へ落としかけた測量器のことを話した。
セシリアが帰ったあと、空になった二つの茶杯を、しばらく眺めていた。
必要がないのに、来てくれた。
それが、思っていたよりずっと嬉しかった。
次は、こちらから呼ぼうと決めた。
会う理由を探しかけて、やめた。
必要がないなら、俺が会いたいと言えばいい。
そう決めたくせに、手紙は何日もかけて三度書き直し、三度とも、会いたい、の一言を消しかけた。
結局、用はない、会いたい、とだけ書いた紙を、昨日の夕方になってようやく出した。
返事は、まだ来ていなかった。
机の上には、手帳が開いたままになっていた。
婚約解消、と書いた行の横だけが、今も白かった。
ペンを持ち上げてみても、やはり何も書けなかった。
扉が叩かれたのは、そのときだった。
「レオン様。お客様でございます」
王宮の侍従の声だった。
「ユリウスか」
「いいえ」
扉を開けると、侍従はほんの少しだけ口もとを緩めていた。
「ローゼンベルク公爵令嬢でございます」
自分でも驚くほど早く、椅子から立ち上がっていた。
応接間に入ると、セシリアはもう座っていた。
裏返した紙の朝を思い出した。
あのときも、俺が部屋に入るより先に彼女は座っていて、卓の上には俺の返済の計画が置かれていて、ひどく怒っていた。
今日も、卓の上には紙が一枚置いてあった。
嫌な予感はしなかった。
代わりに、胸の奥が妙に騒がしかった。
「ごきげんよう、レオン様」
「ああ」
「お久しぶりですわね」
「六日ぶりだ」
「……数えていらしたの」
「会った日くらいは覚えている」
セシリアが、少しだけ黙った。
「……そうですの」
「ああ」
いつもどおり後ろにはマルタが控えていたが、俺が入ってくるなり一礼して、廊下におります、と言い残して出ていってしまった。
「なぜ出ていった」
「存じませんわ」
「君が言ったのか」
「申しておりません」
少し怪しかったが、今はそれより、卓の上の紙のほうが気になった。
「それは」
「こちら、ですの?」
「ああ」
「レオン様にお渡しするものですわ」
セシリアは、紙をくるりとこちらへ向けた。
いちばん上に、大きな字で書いてあった。
婚約申込書。
しばらく読んで、もう一度読んで、やはり同じことが書いてあった。
申込人の欄にはセシリア・ローゼンベルクと、相手方の欄にはレオン・グランフォードとあった。
温室で最初に見せられた解消申請書と、同じ紋入りの紙で、同じ定規を当てたような字だった。
「婚約を、申し込みに参りましたの」
「……俺に」
「ほかに、どなたがいらっしゃいますの」
「王命は」
「昨日、取り下げられたと伺いました。港のためなら、もう、婚姻は要りませんわ」
「それでも、か」
「ええ。それでも、ですの」
セシリアは一度息を吐き、卓の上の申込書にそっと手を置いた。
「前の婚約は、両親が決めました。十歳の私には、どなたも何もお訊きになりませんでした。ですから、一度なくしました」
「ああ」
「今度は」
セシリアの指先が、紙の端を押さえた。
「私が決めます」
言葉が、そこで止まった。
「レオン様」
「ああ」
「私は、あなたと婚約したいですわ」
胸の奥が、一度だけ強く鳴った。
国王に問われて答えられなかったあの日の痛みとは、違うものだった。
何なのかは、もう分かっていた。
分かっていて、ひと月のあいだ言えずにいたものだった。
「どうして、俺なんだ」
「……それを、お訊きになりますの」
セシリアは目を閉じ、しばらくしてから開いた。
「あなたは、私が生姜を残すことを、十年覚えていらっしゃいました」
「見ていれば分かる」
「勝てるお相手に、決闘で怪我をさせませんでした」
「怪我をさせる理由がなかった」
「二万金貨の絵を、お買いになりました」
「あれは失敗だった」
「ええ。大失敗ですわ」
「そこは同意するのか」
「いたします」
セシリアの口もとが、少しだけ緩んだ。
「でも、次の朝には、馬車を売る算段をなさっていましたわ」
「俺が間違えたからな」
「そういうところ、ですの」
聞き慣れた言葉だった。
「どこだ」
「全部ですわ」
困った。
範囲が広すぎる。
「……ずるいですわ」
何がずるいのか、今度は訊かずに待った。
「あなたは、そういうことを私には何度もお訊きになるのに、ご自分のことは何も仰らないでしょう」
言葉に詰まった。
「応接間で、返済の計画をお持ちしたあの朝も」
「ああ」
「王宮からお帰りになる馬車の中でも」
「それから、あの日も」
セシリアが続けた。
「陛下にお訊かれになって、お答えになりませんでした」
「ああ」
「お前は、この娘を望まぬのか、と」
その声は、今でもはっきり覚えている。
「答えられなかった」
「ええ」
「すまない」
「ですから、謝らないでくださいませ」
「では」
「今日は、お答えくださいませ」
セシリアが、まっすぐ俺を見た。
逃げ道はなかった。
いや、本当はあった。
君が望むなら、と言えばいい。
セシリアが望んでいて、申込書まで持ってきているのだから、それを尊重すればいい。
今までなら、それで済んでいた。
「レオン様」
「ああ」
「先に一つ、申し上げておきます」
「何だ」
「君が望むなら、は禁止ですわ」
考えていたことを、そのまま潰された。
「なぜ分かった」
「十年のお付き合いですもの」
どこかで聞いた言葉だった。
最初の温室で、三十二という数字を見て、思ったよりあるな、と言った俺に、セシリアが返したのと同じ言葉だった。
「それから、君が嫌なら嫌だ、も禁止です」
「それもか」
「ええ」
「では」
「私の話ではなく」
セシリアが言った。
「あなたのお話を、してくださいませ」
部屋が静かになった。
窓の向こうで、王宮の鐘が遠く鳴った。
更新式の支度をしているのだろう。
俺の話。
セシリアが望むかどうかでもなく、父がどう思うかでもなく、港がどうなるかでも、王命でも、ユリウスの研究室でもなく。
俺が、何を望むのか。
指輪が外れた日のことを思い出した。
白く残った薬指と、もう必要ないと言われた茶会と、会う理由がないと思い込んでいた自分と、それでも、必要がなくてもお茶くらいはいただける、と言われて、ほっとしたことを。
このひと月、セシリアが来た日の夜はよく眠れた。
来なかった日は、少しだけ長かった。
謁見のあと、控えの間で書記官をつかまえていた横顔を思い出した。
怖いと言いながら、自分で指輪を外した手を思い出した。
その隣に、立っていたかった。
自由になった彼女が、いつか別の誰かを選ぶこともあり得ると、ずっと分かっていた。
分かっていたのに、それを思い浮かべるたびに、嫌だった。
嫌だった理由は、王宮の謁見室で、もう分かっていた。
分かっていて、言えなかっただけだ。
「俺は」
声が出た。
セシリアが待っていた。
今度は、俺が勝手にそう決めつけたわけではない。
答えてほしいと、本人がそう言った。
「君と」
一度、息を吸った。
「結婚したい」
言った。
それだけだった。
思っていたよりずっと短い言葉だったのに、これまで口にしたどんな言葉より、言うのに時間がかかった。
セシリアは動かなかった。
「……もう一度」
「俺は、君と結婚したい」
今度は、止まらなかった。
「君が望むからじゃない」
言ってから、今のは余計だったかもしれないと思った。
セシリアは、笑った。
目を伏せて、本当に、少しだけ。
「ええ」
小さな声だった。




