第八章 2話 自分で選んだ
「それを、ずっとお待ちしておりましたの」
胸の奥が、今度ははっきりと軽くなった。
「取り下げを、待っていたのか」
「ええ」
セシリアは、少しだけ目を逸らした。
「王命が残っているうちにお申し込みしたら、陛下に言われたからだと、あなたはきっとお思いになりますもの」
「……思ったかもしれない」
「私も、少しだけ思いましたわ。ですから、待ちましたの」
「取り下げのお知らせが届いた夜に、あなたのお手紙も届きましたの」
「ああ」
「用はない、会いたい、とだけ」
「それしか書くことがなかった」
「存じております。ですから、申込書と一緒に、伺いましたの」
しばらく、二人とも何も言わなかった。
先に動いたのは、セシリアだった。
申込書を、もう少しだけこちらへ押しやった。
「では、お返事を」
「口で言った」
「書面にも、お願いいたします」
「要るのか」
「要りますわ」
「そうか」
ペンを取り、承諾の欄に、レオン・グランフォード、と書いた。
十年前には、誰かが俺たちの代わりに決めた。
今度は、自分の手で書いた。
セシリアが、その署名をじっと見ていた。
「それから、もう一枚」
セシリアは、申込書の下に重ねてあった書面を引き出した。
婚姻契約書だった。
挙式の日取りを書く欄だけが、空いていた。
「もう、王命へのお返事として陛下にお出しする必要はございませんけれど」
「では、なぜ」
「日取りを、ご一緒に決めたくて」
二人で暦を広げて、少しだけ揉めてから、秋の最初の日に決めた。
こちらの書面にも、二人で名前を書いた。
その日の夕方、二枚の書面を携えた書記官に連れられて、父が西棟まで来た。
父は婚約申込書と婚姻契約書に順に目を通し、それから俺を見た。
「理由は」
河港の管理館で、ローゼンベルク公爵に言われた問いだった。
なぜ、その相手なのか。
今度は、答えられた。
「俺が、彼女と結婚したいからです」
父はしばらく黙っていた。
「そうか」
「はい」
「ようやくか」
父は二枚の書面に署名し、港の案はよく書けていた、とだけ言った。
ローゼンベルク公爵の署名も、翌朝にはそろった。
その夜、俺は手帳を開いて、婚約解消、と書いた行の横に、ようやく、成功、と書いた。
その下に、新しい行を一つ足した。
婚約――自分で。
続きは書かなかった。
書かなくても、分かっていた。
王宮の小さな謁見室に呼ばれたのは、更新式の前日の午後だった。
婚約を解いた日と同じ部屋の、同じ卓だったが、銀の盆だけがなかった。
国王は、卓の上に並んだ婚約申込書と婚姻契約書に目を落としていた。
「確かめる」
「はい」
「これは、両家の当主が決めたものではない」
「はい」
「王命は、もう取り下げた」
「はい」
「そのうえで、この相手を選んだ」
「はい」
「セシリア・ローゼンベルク。お前が申し込んだ」
「はい」
「レオン・グランフォード。お前が受けた」
「はい」
国王が、俺を見た。
「理由は」
もう、止まらなかった。
「彼女と、結婚したいからです」
国王は目を閉じ、しばらくしてから、長く息を吐いた。
「四十日前に言え」
「すみません」
「謝るな。腹が立つ」
懐かしかった。
隣で、セシリアが少しだけ笑った。
「王家は、この婚約を認証する」
国王が印を押した。
乾いた音が、一つ。
婚約を解いた日と同じ音だったのに、今度は、まるで違って聞こえた。
「当人同士の合意も、婚姻の日取りも、両家当主の承認もそろった。明日の更新式では、港の案と一緒に、二人の婚約を公示する」
「式は、まだですが」
「後でいいと、最初に言った」
「ありがとうございます」
「礼を言うな」
「では」
「もう帰れ」
「はい」
立ち上がって扉へ向かったところで、呼び止められた。
「レオン」
「はい」
「今度は、自分で選んだか」
「はい」
今度は、間がなかった。
王宮を出ると、夕方の風が吹いていた。
セシリアと並んで正面の階段を下りながら、俺は彼女の左手を見た。
まだ、何もはまっていなかった。
「指輪は」
「明日でよろしいのでは?」
「そうなのか」
「一度お返ししたものですもの。今度は、あらためていただきたいですわ」
「同じものだぞ」
「承知しております」
「新しくしたほうがいいか」
「二万金貨はお使いにならないでくださいませ」
「使わない」
「本当に?」
「あれで懲りた」
セシリアが笑った。
階段を下りきったところで、ふと足が止まった。
「そういえば」
「何ですの」
「母が昔、一度くらい自分で選んでみたかった、と言ったことがある」
「お母様が?」
「ああ。だから俺は、誰かが選ぶ邪魔だけはしないようにしてきた」
セシリアは、少しだけ笑った。
「あなたは、私に選ばせることばかりお考えで、ご自分が選ぶことを、お忘れでしたもの」
庭の椅子で、膝に本を伏せたまま笑っていた母の声が、胸の奥に戻ってきた。
あれは、誰かの選ぶ邪魔をするなという意味ではなかったのかもしれない。
選んでみたかった、と言ったのは、母自身のことだった。
俺が本当に聞き落としていたのは、たぶん、そこだった。
「遅かったな」
「かなり」
「四十日」
「十年ですわ」
それは、長かった。
「すまない」
「ですから、謝っていただきたいわけではございません!」
また怒られた。
けれど今度は、なぜ怒られたのか、ちゃんと分かった。
翌日の河港更新式は、驚くほど普通に終わった。
壇上では、両家の共同管理が続くことと、二人の新しい婚姻契約が読み上げられ、次の港務総監には、両家から補佐を一人ずつ出すことを条件に、今の副総監がそのまま就くと公示された。
下流の倉庫を同じ商会が続けて買い取るときには両家の承認が要る、という一項が港の規約に足され、最後に国王の言葉があって、大勢の拍手が起きた。
西棟の机で書いて、父に何度も送り返された案が、ほとんどそのまま読み上げられていた。
二人で合意した婚約の解消を、古い慣例はどう裁けばいいのか知らなかった。
だから両家は指名権を奪い合う代わりに、どちらの家の者でもない副総監をそろって推し、王家がそれを認めた。
グランフォード家から出す補佐の欄には、俺の名前が書かれていた。
本来なら、俺が座るはずだった席だった。
今は、その隣から始めることになった。
悪くないと思った。
婚約を一度解いたことはどこにも公示されなかったが、王家の婚姻台帳が動けば、ヴァルデンの商会の耳に入らないはずはない。
国王が壇上で、二人の新しい婚姻契約をわざわざ読み上げたのは、たぶんそのためだった。
式が終わったあと、二人で、子どもの頃に船を待っていた桟橋まで歩いた。
小箱を取り出すと、セシリアは黙って左手を差し出した。
十年前と同じ指輪だった。
けれど、今度は意味が違っていた。
薬指に通すと、指輪は白く残っていたあの跡に、ちょうど重なって止まった。
「……ぴったりだな」
「十年、はめておりましたもの」
「そうか」
「次は、ご自分で寸法を測ってくださいませね」
「分かった」
川から吹いてくる風の中で、セシリアは指輪をはめた左手を、しばらく黙って眺めていた。
川の向こうから、船が二隻、近づいてきていた。
「どの船が先に着くと思う」
訊くと、セシリアが笑った。
「また、当てるおつもり?」
「ああ」
「三回、お外しになっていますのよ」
「今度は当たるかもしれない」
「では、私はあちらの青い帆にいたします」
「俺は、赤い帆だ」
「賭けます?」
「何を」
「負けたほうが、次のお茶を用意する」
「それならいい」
「生姜入りも?」
「ああ」
「では、決まりですわね」
二隻の船は、ゆっくりと桟橋へ近づいてきていた。
どちらが先に着くのかは、まだ分からなかった。
けれど今は、それでよかった。
セシリアが隣にいて、それを、俺が選んだ。
更新式から十日ほどして、ユリウスが王立学院の研究室へ入る正式な推薦状を受け取った。
屋敷の廊下ですれ違ったとき、ユリウスはその封筒を胸に抱えたまま、窓の外の川を見ていた。
「次の雪解けには、北へ行くよ」
「三つに分かれる川か」
「覚えてたんだ」
「何度も聞いた」
「そうだったね」
ユリウスは、封筒をもう一度しっかり抱え直した。
「伯父上から、正式に言われたよ。後継の話は取り下げるって」
「そうか」
「兄さんの借金は、家で肩代わりしないってさ」
「知っている」
婚約は結び直したが、二万金貨の借りまではなくならなかった。
返済の計画は、今も机の引き出しに入っている。
「兄さん」
「ああ」
「今度は、兄さんの好きにしなよ」
「もうした」
「知ってる」
ユリウスは笑って、廊下の向こうへ歩いていった。
その次の月の、いつもの日に、いつもの温室で、いつものように茶会が開かれた。
婚約者同士の顔合わせとして決められた茶会ではなく、俺たちで決めた茶会だった。
焼き菓子の皿には、生姜入りとそうでないものが、やはり半分ずつ並んでいた。
俺が生姜入りを取ると、セシリアがそれを見て、思い出したように言った。
「そういえば、嫌われる努力は、どうなさいましたの?」
「続けてもいいのか」
「一生、お続けになってもよろしくてよ」
「成功する気がしない」
「奇遇ですわね。私もです」
セシリアはドレスの隠しから、あの紙片を一度だけ取り出した。
裏返したまま、ずっと持っていたらしい。
しばらく迷うように指先で端をつまんでいたが、やがて紙を表に返して、俺のほうへ向けた。
好感度 100/100
俺は、しばらく黙っていた。
「……ゼロから、遠すぎないか」




