第二章 1話 負ける練習は、意外と難しい
決闘の相手は、その日の昼休みのうちに決まった。
決めたというより、向こうから視界に入ってきたと言ったほうが正しい。
剣術科の中庭を囲む回廊を歩いていたら、噴水の向こう側で、セシリアが一人の男と話していたのだ。
アーネスト・クローヴァー。
伯爵家の次男で、第二王子付きの近衛候補に名前が挙がっていて、剣術科では三年続けて上位五人に入っている。
背は俺より拳一つぶん高く、肩幅もあり、短く刈った黒髪のせいか、いつ見ても朝の点呼に並んでいるような姿勢をしている。
舞踏会の夜にも、セシリアのそばで長く話し込んでいた男だった。
「なるほど」
回廊の柱に寄りかかって二人を眺めながら、俺は手帳を開き、決闘、と書いた行の横に、小さく嫉妬、と書き足した。
「何がなるほどなの」
隣でユリウスが言った。
この従弟は最近、俺が手帳を開くたびにどこからともなく現れる。
「相手が決まった」
「決まってないよ」
「あれにする」
「人を魚屋の魚みたいに指差さないでくれる?」
噴水の向こうで、アーネストが一枚の紙をセシリアに渡した。
セシリアはそれに目を通し、口元に手をやって、少しだけ笑った。
笑った、と思った。
「兄さん」
「ああ」
「顔、何も変わってないよ」
「そうか」
「嫉妬するなら、もう少し何かないの」
「何か?」
「眉を寄せるとか」
言われたとおりに眉を寄せてみた。
「それ、難しい本を読んでる顔」
「違うのか」
「違う」
「ではどうすればいい」
「知らないよ。俺、嫉妬の演技指導まで担当するの?」
ユリウスは両手で頭を抱えたが、俺はもう一度噴水の向こうを見ていた。
セシリアは紙を丁寧に折り畳み、アーネストに何か言い、アーネストは笑って頷いている。
「やはり、あれにする」
「だから何を根拠に」
「舞踏会の夜も長く話していた」
「たまたまじゃない?」
「今日も話している」
「知り合いなら話すでしょ」
「紙まで渡した」
「授業の資料じゃない?」
「笑っていた」
「兄さん」
「ああ」
「今、ちょっとだけ本当に嫉妬してない?」
「していない」
「じゃあなんで全部覚えてるの」
答えられなかった。
作戦に必要な情報だから覚えているのだろうと思うが、そう口にする前に、ユリウスがひどく疑わしそうな目をこちらに向けたので、言うのをやめた。
俺は手帳を閉じた。
「とにかく、決闘を申し込む」
「止めても無駄?」
「ああ」
「じゃあせめて、理由はちゃんと考えて」
「嫉妬だ」
「その一語で押し切るつもり?」
十分ではないかと思う。
嫉妬深い男が、婚約者と親しげに話していた男へ決闘を申し込み、そのうえ衆人環視の中であっさり負ける。
印象も悪いし、格好も悪い。
女遊びの失敗を踏まえて、今度は誰の得にもならない作戦を選んだつもりだった。
アーネストに声をかけたのは、その日の放課後だった。
剣術科の訓練場では、講義を終えた学生たちが木剣や防具を片づけていて、アーネストは壁際の長椅子に片足を乗せ、右の靴紐を結び直しているところだった。
一度ほどいて、締め直し、もう一度ほどいてから、さっきより少しきつく結ぶ。
「クローヴァー」
呼ぶと、アーネストは顔を上げた。
「グランフォード?」
「少しいいか」
「珍しいな。お前のほうから話しかけてくるなんて」
「決闘してくれ」
近くで防具を運んでいた学生が、抱えていた木剣を一本落とした。
アーネストも、靴紐を持ったまま黙った。
「……何?」
「決闘してくれ」
「聞こえなかったわけじゃない」
「そうか」
「理由を訊いてるんだ」
「セシリアと話していた」
アーネストの片眉が上がった。
「それで?」
「気に入らない」
我ながら、かなり嫉妬深い男の台詞だった。
アーネストは靴紐から手を離し、しばらく黙って俺の顔を眺めていた。
「本気か」
「ああ」
「お前、そういう男だったのか」
「そういう男だ」
「いや、自分で肯定するなよ」
なぜ肯定してはいけないのかは分からなかった。
気づけば、片づけをしていた学生たちが手を止めて、少しずつこちらに集まり始めていた。
人が多いほうが、評判はよく落ちる。
「形式は」
アーネストが訊いた。
「剣でいい」
「真剣か」
「木剣で」
「そこは安全なんだな」
「怪我をする必要はない」
集まってきた学生たちのあいだに、何とも言えない空気が流れた。
アーネストは片手で顔の下半分を覆った。
「グランフォード」
「何だ」
「お前、今から自分の評判を落とそうとしてるだろ」
「なぜそう思う」
「そうとしか思えないからだよ」
「違う」
正確には違わないが、わざわざ認める必要はない。
「受けてくれるか」
「……まあ、いいけど」
アーネストは壁に立てかけてあった木剣を一本取り、手の中で軽く回した。
「ただ、一つ確認させてくれ」
「ああ」
「セシリア嬢に、何か言われたのか」
「それは言えない」
「余計に怪しいな」
「決闘するのか、しないのか」
「するよ」
アーネストは肩をすくめた。
「どうせなら明日の放課後、公式の訓練場でやろう。審判もつけて」
「人が多いほうがいい」
「本当に何か企んでるだろ、お前」
「何も」
明日の放課後、公式の訓練場で、審判つき。
観客は今日よりずっと増えるだろう。
これ以上の舞台はなかった。
その夜、自室で木剣を振りながら、負け方を考えた。
問題はそこだった。
アーネストは強いが、何度か稽古で剣を合わせたことがあって、まともに戦えばおそらく俺が勝つ。
だからわざと隙を作り、そこを打たれればいい。
そう考えて構えを取ったところで、素振りの手が止まった。
簡単ではないかもしれない。
子どもの頃から、剣を振るときは隙を消せと嫌になるほど叩き込まれてきたのだ。
試しに右の肩口を開けてみると、開けた瞬間に左足が勝手に半歩下がっていて、これでは打ち込まれても避けてしまう。
今度は左の脇を空けたまま木剣を上げてみたが、気づけば肘が下がって脇を塞いでいた。
「……難しいな」
何度繰り返しても、体が勝手に元の形へ戻る。
長年続けてきたことは、頭で逆を命じたくらいでは消えてくれないらしい。
もっと確実な方法として、途中でつまずいて転ぶことを思いつき、その場で試してみた。
一歩踏み込んで、わざと足をもつれさせる。
床に倒れる直前、体が勝手に受け身を取り、気づいたときには片膝をついて木剣を構え直していた。
「これも駄目か」
そのとき、扉が叩かれた。
「入れ」
「何してるの」
顔を出したのはユリウスだった。
「負ける練習だ」
「生まれて初めて聞いた言葉だよ」
「難しい」
「でしょうね」
ユリウスは、床のあちこちについた靴の跡と、壁に立てかけた予備の木剣を順番に眺めた。
「本当に負けるつもりなんだ」
「ああ」
「なんで」
「嫉妬深いうえに弱い男なら、かなり嫌われる」
「発想だけは毎回一貫してるね」
「そうだろう」
「褒めてない」
ユリウスは勝手に椅子へ座り、机の上に置いてあった俺の手帳を勝手に開いた。
「女遊び、失敗。決闘」
「ああ」
「その次は」
「まだ決めていない」
「ずっと決めなくていいよ」
ユリウスは手帳を閉じて机に戻し、少し言いにくそうに付け足した。
「ところで兄さん、アーネストの右足のこと、知ってる?」
「右足?」
「昔、怪我してるんだよ」
木剣を下ろしかけた腕が、途中で止まった。
「どこを」
「足首。二年前の馬術訓練で落ちて、骨を折ったって」
「今は治っているのか」
「一応ね。でも、長く踏み込みを続けると痛むことがあるらしい」
訓練場の長椅子で、何度も結び直していた靴紐を思い出した。
あれも、右足だった。
「兄さん」
「ああ」
「今、何考えた?」
「何も」
「絶対嘘でしょ」
「寝ろ」
「俺の部屋、別棟なんだけど」
「なら戻れ」
ユリウスは疑わしそうな目つきのまま立ち上がり、扉の前で振り返った。
「一応言っとくけど、負けるために相手の古傷を利用するのは最低だからね」
「分かっている」
「……利用しない顔だな、それ」
「何の話だ」
「もういいよ」
扉が閉まった。
俺は木剣を握り直し、もう一度構えを取った。
右の足首を狙えば、アーネストの体勢は確実に崩れる。
だから、狙わない。
負けるための作戦とは関係がなく、単に、怪我をさせる理由がどこにもないからだ。




