第一章 1話 女遊びのやり方を教えてくれ
女遊び、と手帳に書いたのは自分だが、翌朝になって学院の門をくぐったところで、具体的に何をすればいいのかがまるで分からないことに気づいた。
言葉の意味は知っているし、字も我ながら読みやすい。
ただ、知っていることと、やり方が分かっていることのあいだには、思っていたよりずっと広い溝があった。
午前の講義のあいだ考え続けても答えは出ず、昼休みになってから、俺は詳しそうな人間を探しに食堂へ向かった。
「ユリウス。女遊びのやり方を教えてくれ」
従弟は口に含んでいた水を、半分ほど机の上へ戻した。
「……兄さん」
「ああ」
「朝、どこかで頭を打った?」
「打っていない」
「じゃあ俺の聞き間違いかな」
「女遊びのやり方を教えてくれ」
「二回言わなくていいよ」
ユリウス・グランフォードは鞄から布巾を引っ張り出して机を拭きながら、これ以上ないほど嫌そうな顔をした。
俺より一つ年下で、専攻は水運工学という、名前を聞いただけでは何をしているのか分からない学科にいる。
俺が剣術や政治史の講義を受けているあいだ、こいつは川幅と流れの速さの関係を延々と計算していて、帰り道に川を見かけるたびに立ち止まっては水面に枯れ枝を投げている。
たぶん、俺より人生を楽しんでいる。
「なんで俺に訊くの」
「詳しそうだからだ」
「どういう評価?」
「友人が多い」
「友人が多いだけの男を女遊びの専門家扱いするの、やめてくれる?」
ユリウスは濡れた布巾を畳んで脇へ置き、ようやくこちらを正面から見た。
「何があったの」
「セシリアに嫌われることになった」
「待って」
「それで、まず女遊びをしようと思う」
「待ってって言ってるだろ」
声が大きかったらしく、近くの席で昼食をとっていた下級生が何人かこちらを振り返った。
ユリウスは咳払いを一つして、椅子ごと俺のほうへ寄ってきた。
「順番に話して」
温室でのことを順に話すと、ユリウスは途中までは黙って頷いていたが、最初の作戦が女遊びだと聞いたところで、額を押さえた。
そのまま、しばらく何かを数えるように指先で眉間を叩いていた。
「念のため訊くけど。伯父上には?」
「話した」
「何て」
「俺の落ち度で婚約が壊れたら、後継はお前にすると」
布巾に伸びかけていたユリウスの手が、空中で止まった。
「……は?」
「だから、俺が上手くやった場合は――」
「いやいやいや」
今度は両手で制止された。
「俺、来年から王立学院の水運研究室に入るんだけど」
「知っている」
「河川測量の助手の席まで決まってるんだけど」
「聞いている」
「嫡男になったら、それ全部なくなるよね?」
「おそらく」
「おそらくじゃないよ!」
また何人かがこちらを見た。
ユリウスは声を落とし、今にも机に突っ伏しそうな姿勢で俺を睨んだ。
「兄さんが誰かを自由にしようとするたび、なんで俺が不自由になるんだよ」
「すまない」
「謝るくらいならやめてよ」
「それはできない」
「なんで」
「約束した」
ユリウスは何か言い返そうとして口を開き、俺の顔を見て、そのまま閉じた。
それから肺の中の空気を全部出すような長いため息をついた。
「……もういい。女遊びだっけ」
「ああ」
「女の子をたくさん連れて歩けば?」
「なるほど」
「いや、今のは投げやりに言っただけで」
「三人くらいでいいか」
「なんで具体化するのがそんなに早いの」
三人というのは、考えてみるとちょうどいい数だった。
一人ならただの友人で済んでしまうし、二人でも偶然居合わせたように見えなくもないが、三人並べば、さすがに誰が見ても女遊びらしく映るはずだ。
手帳を開き、女遊びの下に、美女を三人連れて歩く、と書き足す。
ユリウスが横から覗き込んできた。
「兄さん」
「何だ」
「本気でやるの?」
「もちろん」
「じゃあせめて、その三人にはちゃんと事情を話して、同意を取ってね」
「当然だ」
問題は、美女を三人も知らないことだった。
正確に言えば、顔と名前が一致する令嬢なら学院に何十人もいるが、婚約者に嫌われたいので一緒に歩いてほしい、と頼める相手となると、一人も思い浮かばない。
放課後まで考え続けて、結局誰の名前も手帳に書けなかった。
一人目に声をかけられたのは、その帰り道だった。
「グランフォード様」
学院の正門を出たところで振り向くと、エヴェリーナ・ヴェイル伯爵令嬢が立っていた。
政治史の講義でいつも最前列に座っている人で、赤みのある金髪を一筋の乱れもなく結い上げ、講義中に一度も背もたれに寄りかかったところを見たことがない。
「少し、お時間をいただけますか」
「構わない」
人目の少ない噴水の脇まで移ると、エヴェリーナは左右を一度ずつ確かめてから、両手を体の前で重ねた。
「お願いがございます」
「俺に?」
「ええ。今度の王宮舞踏会で、一曲だけ踊っていただけませんか」
女遊び、という三文字が、手帳の中から勝手に浮かび上がってきた気がした。
こんなに早く機会が向こうから歩いてくるとは思っていなかった。
「いいだろう」
「……理由を、お訊きにならないのですか」
「踊ればいいんだろう」
「普通は訊くものだと思いますけれど」
エヴェリーナは少し迷うように視線を噴水の水面へ逃がしてから、また俺を見た。
「父が、私の縁談を急いでおりますの」
「そうなのか」
「候補を三人まで絞った、と昨夜聞かされました」
「三人いれば選べるな」
「私は一人も選びたくありません」
「なるほど」
「……ですから」
彼女は言いにくそうに、重ねた手の指を組み替えた。
「私にも親しくしている殿方がいる、と父に思わせたいのです。そうすれば、少なくとも今すぐには決めないかと」
女遊びの相手として、これ以上の条件はなかった。
そう思ったところで、念のため一つ確かめておくことにした。
「俺には婚約者がいる」
「存じております」
「誤解されないか」
「誤解していただくためのお願いですわ」
「君が困らないならいい」
「ありがとうございます」
「ただし」
エヴェリーナの表情が、わずかに硬くなった。
「俺の婚約者がいちばん美しいので、その点だけは誤解しないでくれ」
噴水の水音だけが、しばらく続いた。
「……はい?」
「君が美しくないという意味ではない」
「そういう確認ではございません」
「ならいい」
エヴェリーナはなぜか、こめかみのあたりを指で押さえた。
「グランフォード様」
「何だ」
「それほど大切な方がいらっしゃるのに、私と踊ってしまってよろしいのですか」
「むしろ好都合だ」
「……聞かなかったことにいたします」
賢明な人だと思った。
二人目は、その二日後に見つかった。
図書館の奥の書架で、踏み台の上から本と一緒に降ってきたのが、クラリス・ハート子爵令嬢だった。
分厚い法令集を受け止め、傾いた本人に腕を貸したところで、受け止めきれなかった二冊目が俺の頭に当たった。
クラリスは見る間に青くなり、とうとう司書まで呼んできたが、三回とも痛くないと答えて、ようやく騒ぎは収まった。
それでもクラリスは帰らず、借りるはずだった本を胸に抱えたまま、舞踏会へは行かれますか、と小さく訊いた。
「行く。相手がいないなら、一曲踊ろうか」
「えっ」
「困っている顔に見えた」
クラリスは本の背を撫でながら、困ったように笑った。
「婚約者が、もう半年も領地から戻っておりませんの。去年の春の増水で流された橋の、架け直しの責任者をしておりまして」
「それなら帰れないな」
「ですが社交界では、捨てられたのではないかと噂になっていまして」
二人目としては申し分なかった。
「なら、俺と踊ろう。ただ、俺の婚約者がいちばん美しいので、その点だけは――」
「そのお話なら、昨日のお茶の席でエヴェリーナ様から伺いました」
クラリスは法令集で口元を隠し、笑いをこらえるように目を伏せた。
三人目は、自分で探す必要があった。
舞踏会の前日、仕立屋の並ぶ通りで、ロッテ・エイムズ男爵令嬢が店先の夜会服を眺めていた。
財布を開いて中を確かめ、閉じ、また眺める。
俺が通りの端から店の前まで歩くあいだに、それを三回繰り返していた。
「欲しいのか」
「ひゃっ」
ロッテは本当に地面から少し浮き、財布を素早く背中へ回した。
舞踏会用のドレスは去年のものしかなく、家の事情で今年は節約しているのだと、言葉を選びながら教えてくれた。
去年のものでは駄目なのかと訊くと、店の中の婦人が二人、そろってこちらを振り返った。
駄目らしい。
「なら、一緒に来るか。舞踏会に」
「……どうしてです」
「俺が女遊びをするためだ」
通りを歩いていた老紳士までが、杖を止めて振り返った。
仕方がないので、嫌われる必要があることだけを説明し、理由は伏せた。
それを話せば、セシリアのほうから婚約を解きたがっていると言いふらすのと変わらない。
「……ドレスが、ありません」
「母のものを借りるか」
「寸法が合いません。……ですが、生地さえあれば、一晩で縫えます」
「知っている。去年の学院祭で、舞台袖で衣装を直していただろう」
開演前に三着続けて裂けた衣装を、出番の合間に一人で縫い直していた。
あれだけ手際がいいと、忘れるほうが難しい。
ロッテは目を丸くしてから、この店の端布を継ぎ合わせればなんとかなる、と言った。
「代金は俺が払う。女遊びなのだから、女性に金を使ったほうがそれらしい」
「そういうところだけ、急に筋が通っていますね」
これで三人目も決まった。




