序章 嫌われてくださいませ
「レオン様。私に嫌われてくださいませ」
婚約者のセシリア・ローゼンベルクはそう言って焼き菓子の皿を脇へ寄せ、空いたところへ一枚の紙を置いた。
月に一度、ローゼンベルク家の温室で開かれるこの茶会は十年続いているが、そのあいだ卓の上に菓子と茶器以外のものが載ったことは一度もなかったので、俺はまず紙の白さに少し驚き、それから一番上の行に目を落とした。
婚約解消申請書、とあった。
公爵家の紋が透かしで入った正式な用紙で、申請者の欄にはもう彼女の名前が、定規でも当てたような相変わらずの字で書き込まれている。
「嫌われてくれ、というのは」
「言葉のとおりですわ」
「俺が、君に」
「ええ。できれば徹底的に」
セシリアは紅茶をひと口飲み、音ひとつ立てずにカップを受け皿へ戻した。
十年見てきて、この人がカップを鳴らしたところを俺は一度も見たことがなく、それが公爵家の躾なのか本人の意地なのかは、いまだに判断がつかない。
申請書をもう一度上から読み直して、理由の欄だけが空いていることに気づいた。
「理由は書かないのか」
「書けませんの」
「書けない」
「私の名前で出せば、次の港務総監を公爵家から出せなくなりますもの」
両家の領地の境にある、あの河港のことだ。
港そのものは両家で半分ずつ持っているが、港を取り仕切る港務総監の席だけは代替わりのたびにどちらかの家から出すことになっていて、婚約を壊した側の家はその指名権を失うという、誰が決めたのかも分からない古い慣例があることは、俺も子どもの頃から耳にたこができるほど聞かされている。
「二人で話し合って解く、というのは」
「父に一度、申し上げましたわ。合意で解いた婚約の指名権がどちらへ行くのか、慣例には書かれておりませんの。決まっていないものを港へ持ち込むわけにはいかない、と、その場で退けられました」
公爵らしい答えだった。
「その分を、あなたのお家へ押しつけることになるのは承知しておりますわ。ですから、お断りくださって構いません」
「港務総監なら、うちが出さなくても港は回る」
セシリアは一瞬だけ眉を寄せ、何か言い返しかけてやめ、それから白い指で、申請者の欄の少し右を軽く叩いた。
「……ここに、もう一行書き足していただきたいの。レオン・グランフォードの目に余る振る舞いの数々により、と」
「なるほど」
「なるほど、ではなくて」
「分かった」
セシリアの指が止まった。
「……分かった、ですの?」
「ああ。君に傷がつかないやり方を考えよう」
セシリアは何か言いかけて口を閉じ、ガラス越しの庭へいったん目をやってから、小さく息を吐いた。
「……そういうところですわ」
「何がだ」
「何でもありません」
何でもない顔ではなかったが、本人がそう言うならそうなのだろう。
それ以上、理由を訊く気はなかった。
彼女が十年間、一度も卓に載せなかったものを今日載せたのだから、そこに至るまでの話は、訊かれて答える種類のものではない気がしたし、訊いたところで、こちらに何か言える筋合いがあるとも思えなかった。
ただ、一つだけ確かめておきたいことがあった。
「一つ訊いていいか」
「どうぞ」
「俺に、何か不満が」
「ございません」
即答だった。
あまりに早くて、こちらのほうが言葉に詰まった。
「……ないのか」
「ありませんわ。お顔もよろしいし、剣もお強いし、成績は学年で一番で、この十年、お茶会に遅れていらしたことも一度もございません」
「それなら」
「困りますの」
セシリアは、皿の端に残っていた焼き菓子へ目を落とした。
「不満がないから、困りますの」
そう言われて、こちらに返せる言葉は何もなかった。
俺が黙っているあいだに、彼女は膝の上で指を組み直し、もう一度だけ口を開いた。
「あなたを選ぶとしても、選ばされたくありませんの」
意味は、半分くらいしか分からなかった。
分からなかった残りの半分をどうすればいいのかも分からないまま、俺は脇へ寄せられた皿から生姜入りの焼き菓子を一つ取って口に入れた。
この温室の焼き菓子は昔から、生姜入りとそうでないものが半々で出てくる。
セシリアが手をつけるのはいつも生姜の入っていないほうだけで、残った生姜入りは十年前から俺の担当だった。
口の中が少しひりひりした。
「……今、何を召し上がりましたの」
「生姜のほうだ」
「存じております」
セシリアは呆れたような顔で、なぜか申請書を少しだけ手前へ引き寄せた。
背後に控えていた侍女のマルタが、こらえきれないといった調子で一度だけ鼻を鳴らし、主人に睨まれて天井の梁を数えるふりを始めた。
嫌われるといっても、具体的に何をするのかを決めておかなければ話が進まない。
俺は申請書の裏を借りて、思いついた条件を書き並べた。
ひとつ、セシリア・ローゼンベルクの評判を傷つけない
ふたつ、両家の関係を壊さない
みっつ、婚約を壊す原因はグランフォードの側に作る
「これでどうだ」
「……ずいぶん丁寧な字で、最低な男になる計画をお書きになるのね」
「読めないと困るだろう」
「困りはしませんけれど」
セシリアは三行を指でなぞり、二つ目のところで少しだけ指を止めてから、何も言わずに頷いた。
「それと、進み具合が分からないのは困りますわね」
彼女はマルタから新しい紙片を受け取り、ペン先をインク壺に浸して、迷いのない手つきで一行だけ書いた。
好感度 32/100
「思ったよりあるな」
「十年のお付き合いですもの」
俺は数字を眺めた。
婚約を解消したいと言い出した相手から、百のうち三十二も残っていると聞かされるのが多いのか少ないのか、比べる相手がいないので分からない。
ただ、目標がはっきりしたのはありがたかった。
「ゼロにしよう」
「……なぜ少し嬉しそうなんですの」
「数字があると、やることが分かりやすい」
マルタが主人の肩越しに紙片を覗き込み、首をかしげた。
「お嬢様、ずいぶん控えめな数字で――」
「マルタ。お茶が冷めていますわ」
「淹れたてでございますが」
「冷めていますわ」
「……淹れ直してまいります」
マルタが下がっていく背中を見送りながら、控えめというのはどちらの意味だろうと少し考えたが、侍女の言葉の裏まで読もうとするのは失礼な気がして、やめた。
セシリアは紙片を二つに折り、ドレスの隠しへ仕舞った。
「数字は、私が付けます。あなたは見せてほしいと仰ったときだけ、ご覧になれますわ」
「分かった」
「……それから、どうやって嫌われるおつもりなのかは、ご自分で考えてくださいませ」
「君が考えたほうが早くないか」
「嫌われる方法を嫌う相手に考えさせるのは、誠意に欠けると思いますの」
言われてみればもっともだった。
俺は懐から手帳を出し、新しい頁の一番上に、嫌われる方法、と書いた。
帰りの馬車は、両家の領地を分ける川沿いの道を通る。
夕方の河港には荷を積み終えた船が三艘並んでいて、桟橋の灯りがちょうど一つずつ点されていくところだった。
見慣れない紋を掲げた荷船が一艘だけ、その脇をすり抜けて、下流の倉庫のほうへ入っていった。
小さい頃、あの桟橋の端に二人並んで座らされ、どちらの家の船が先に着くかを大人たちが賭けているあいだ、俺たちは足をぶらぶらさせて水面を見ていた。
何を話したのかは覚えていない。
セシリアのほうは、たぶん、もっと覚えていないだろう。
屋敷に戻ると、父は書斎で帳簿を広げ、下流の倉庫の売買の記録に何度も線を引いていた。
「また同じ商会か」
こちらに言ったのではなさそうだった。
夕食の前に報告しておくべきことだと思ったので、俺は扉を叩き、入れと言われてから中へ入った。
「父上。近いうちに、俺の評判が落ちます」
父は帳簿から目を上げなかった。
「何をした」
「まだ何も。これからします」
「何をする気だ」
「嫌われます」
そこで初めて、父が顔を上げた。
眼鏡を外し、目頭を押さえ、もう一度かけ直してから俺を見る。
「……お前が?」
「はい」
「誰に」
「セシリアにです」
父はしばらく黙っていた。
机の端に置いてあった酒瓶へ手を伸ばしかけて、やめ、それから帳簿を静かに閉じた。
「向こうから言い出したのか」
「俺の判断です」
嘘ではなかった。
嫌われてくれと言ったのは彼女だが、引き受けると決めたのは俺だ。
「理由を言え」
「言えません」
「ローゼンベルクの娘のためか」
俺は答えなかった。
父はしばらく黙って俺の顔を眺めていたが、やがて短く息を吐いた。
「……そうか」
「河港の慣例は分かっているな」
「はい」
「お前の落ち度で婚約が壊れれば、次の港務総監は公爵家から出る。本来なら、お前が座るはずだった席だ。グランフォードの当主は代々、あの席から始めてきた。最初の席を落とした男を、誰が当主として扱う」
「誰も扱わないと思います」
「そうだ」
父は椅子の背にもたれ、天井の隅のほうを見た。
「ならば、お前に家は任せられん。そうなったら後継はユリウスにする」
従弟の名前が出た。
あいつは今頃、学院の研究室で川の流れを計る道具でもいじっているはずで、この話を聞いたら、たぶん俺よりずっと嫌な顔をするだろう。
「承知しました」
「……少しは顔色を変えろ」
「変わっていませんか」
「変わっていない」
父は大きく息を吐いて、もう一度帳簿を開いた。
話は終わりだという合図だったので、俺は一礼して書斎を出た。
自室に戻り、机の上で手帳を開く。
嫌われる方法、と書いた下は、まだ白いままだった。
ペンを持ったまま、母がいつか庭の椅子で、膝に読みかけの本を伏せてこぼした言葉を思い出した。
「一度くらい、自分で選んでみたかったわ」
父と母は仲が悪かったわけではないし、その言葉を聞いたとき、母は笑ってもいた。
それでも子どもだった俺には、それがずいぶん重たいものに聞こえた。
だから、セシリアが選びたいと言うのなら、それを邪魔する理由は俺の方には一つもない。
手帳の一行目に、女遊び、と書いた。
書いてから眺めてみると、思っていたよりずっと丁寧な字になっていた。




