第5話「沈黙が語るもの」
四日目の夜明け前、ハルは一人で第三区画に戻った。
ミナが眠っているうちに、もう一度あの装甲扉を確かめたかった。昨日は一瞬だけ動いた。それは電源を接続したことへの反応だったのか、それとも——別の何かだったのか。
懐中電灯を手に、扉の前に立った。
昨日と同じだった。固く閉まっていた。十センチだけせり出した位置で止まっている。隙間から覗くと、奥は暗い。冷気が出てくる。そしてかすかに、レモンの香りがする。
ハルは扉に手を当てた。
「……何がいる」
声に出して言った後、自分でも少し恥ずかしかった。機械に話しかけても答えは返ってこない。
でも——扉は微かに震えた。
ハルは手を離した。後退した。心拍が少し上がった。
気のせいかもしれなかった。機体の深部から来る振動が、手を当てたことで伝わっただけかもしれなかった。でも、あのタイミングは——。
「怖いの?」
背後からミナの声がした。ハルは振り返った。彼女は懐中電灯を手に、通路の入り口に立っていた。
「眠ってたんじゃないか」
「目が覚めた。あなたがいなかったから来た」
ミナは扉に近づいた。ハルと並んで立ち、扉を見た。
「話しかけたの?」
「……少し」
「私もする」
ミナは扉の前に立ち、静かに言った。
「ゴッグ二号機。私たち、ここにいる」
返答はなかった。扉は動かなかった。香りだけが、少し濃くなったような気がした。
朝になった。
酸素の計算を改めてした。昨日までのボンベ使用量と残量、第三区画で見つけた追加のボンベ、そして結露採取の量。全て合算すると——理論上は七日間に届く可能性があった。ただし、探索が増えれば消費が増える。寒さで体温維持に使うエネルギーも増えた。
「ギリギリだ」とハルは言った。
「ギリギリ、届く」とミナは言った。
「届かないかもしれない」
「届かせる」
ミナの言い方は断定だった。ハルはその断定の根拠を聞かなかった。聞く必要がなかった。
昼食を食べた。最後の軍用レーション一個と、ひよごっぐを二個ずつ。食料の残りは、ひよごっぐが十一個と、缶詰が二つ。次に補給できるめどはない。
ミナはひよごっぐを食べながら、どこかを見ていた。いつもそうだった。ひよごっぐを手にするとき、彼女はどこか遠くを見た。
「お母さんの話をしてもいいか」とハルは聞いた。
ミナは少し驚いた顔をしてからハルを見た。
「なんで」
「知りたい。お前の話が聞きたい」
ミナはしばらく考えた。
「どこから話せばいい?」
「ひよごっぐから」
ミナの母、マリア・カワシマは通信士だったという。ミナが生まれる前から軍にいた人で、後に通信関連の技術職に移った。ミナが子供の頃、母はいつも忙しかった。会える日は多くなかった。
「でも、会えるときはいつも一緒に食べてた」とミナは言った。「ひよごっぐが好きな人で。戦争が始まる前から、サイド3では有名なお菓子だったから、どこに行っても買って来てくれた」
「どんな人だった」
「静かな人。怒鳴ったりしない。でも、言うことは少ない言葉ではっきり言う人だった」
「お前に似てるな」
ミナは少し黙ってから「そう言われる」と言った。
「今は連絡が取れないのか」
「……戦争が始まってから、連絡が途絶えた。どこにいるか分からない」
ハルは何も言わなかった。戦争が始まれば、連絡が取れなくなることは珍しくない。でも「どこにいるか分からない」という言葉の重さは、じんわりと空気に広がった。
「ひよごっぐを食べると思い出す?」とハルは聞いた。
「毎回」とミナは答えた。「食べるたびに、声が聞こえる気がする。辛い時に食べなさい、って言われてたから」
そう言ってから、ミナは少し笑った。ほんのわずかだったが、笑った。
「だからこんな時に持ち歩いてる。変でしょ」
「変じゃない」とハルは言った。「正解だ」
午後、ハルはまた第三区画の制御盤を調べた。
復帰させたパネルの中に、まだ読んでいない情報がないか確認した。断面図の隣に、別のパネルがあった。電源を入れると表示が現れた。
---MAINTENANCE LOG---
LAST ACCESS : UC0078.09.14
OPERATOR : CLASSIFIED
ENTRY : TRANSPORT COMPLETED. CARGO SECURED.
SYSTEM INTEGRITY 98.7%
NEXT SCHEDULED REVIEW : UC0080.01.01
「CLASSIFIED」。分類された、秘密の、という意味だ。オペレーターの名前が伏せられている。「CARGO SECURED」——積み荷は確保済み。
「積み荷」とハルは声に出した。
「人?」とミナが横から覗き込んで言った。
「分からない。でも『CARGO』と書いてある」
「UC0078年に搬入されたもの」
「それ以来、誰もメンテナンスに来ていない」
ミナは黙っていた。ハルには、彼女が何かを思っているのが分かった。でも言わなかった。
夕方、ハルは通路の一角で奇妙なものを見つけた。
壁面の結露が集まりやすい箇所があり、そこを拭っていたとき——床に、ひよごっぐが一個あった。
ハルは硬直した。
食べたはずだった。昼に二個ずつ食べた。自分の分は確かに食べた。ミナの分も見ていた。残りは十一個で、コックピットのロッカーにしまってある。
ここにあるはずがない。
「……ミナ」
「なに」と離れた場所からミナの声がした。
「ここに来たか?」
「行ってない」
「何か落とした?」
「何も持ち歩いてない」
ハルはひよごっぐを拾い上げた。密封はされていないが、きれいな状態だった。まるで、さっき置かれたばかりのような。
ハルは後ろを向いた。
通路には誰もいなかった。ただの暗い廊下があるだけだった。懐中電灯の光の中に、小さな焼き菓子が一つあるだけだった。
「気のせいだ」とハルは言った。声が少し上ずった。
ミナが通路にやってきて、ハルが持っているひよごっぐを見た。
「それ、どこにあったの」
「床に落ちてた」
ミナは少し考えた。「ポケットから落ちたんじゃない?」
「俺のポケットにはない。お前のは?」
「確認する」
ミナがポケットを確認した。なかった。ロッカーに戻ってひよごっぐを数えた。十一個、そのままだった。
「ということは十二個目」とミナは言った。
「どこから」
二人は黙った。
答えは出なかった。
ハルはそのひよごっぐをロッカーにしまった。手が、わずかに震えていた。
夜。
ハルはコックピットの壁にもたれ、ミナの方を見ていた。彼女は端末に記録を続けていた。毎時の記録、状態確認、発見物のメモ。それが彼女のやることだった。
「なあ」とハルは言った。
「なに」
「お前の記録、誰かに届くと思うか」
ミナは手を止めた。
「届いてほしい」と彼女は言った。「誰かに聞いてもらいたい。だから記録する」
「誰かって、誰だ」
「……分からない。でも、誰かがいる気がする。ずっと聞いていてくれる誰かが」
ハルは「そうか」と言った。
深度九十一メートルの水底で、誰かに聞いてもらうために記録を続ける女がいた。そして機体の深部からは、低く周期的な振動が伝わってきた。まるで、聞いていると言わんばかりに。
「怖いか」とミナが聞いた。「この機体が」
「怖い」と正直に言った。「でも——出て行きたいとは思わない」
「私も」
「変な話だな」
「そうね」
二人は並んで壁にもたれた。肩が触れた。今日はどちらも離れなかった。
ゴッグ二号機の奥底で、何かが静かに脈打っていた。
【次回 第6話「四日目の飢え」へ】




