第11話「漂流」
第二部「名もなき聖域」
水面に出た。
それが最初の事実だった。
ハルは覗き窓の外を見た。空があった。灰色の曇り空で、日の位置も分からなかったが、それでも空だった。水面だった。七日間、泥と金属と非常灯の赤だけを見ていた目に、空の灰色が眩しかった。
ミナが泣いていた。声を出さずに泣いていた。ハルはそれを見て、何も言わなかった。自分の目も、少し熱いと思った。
ハルは計器を見た。
計器盤の半分は火花を散らして死んでいた。深度計だけが動いていた。深度ゼロ。水面。
「……出た」
声に出した。自分の声が、泥の底にいた頃より少し低く聞こえた。
「うん」とミナが言った。涙声だった。「出た」
機体は波に揺れていた。
動力はなかった。推進器は死んでいた。ゴッグ二号機は、腕も足も推進力もない鉄の塊として、波に漂っていた。
どこに向かっているのか分からなかった。
ハルはハッチを開けようとした。ハンドルが歪んでいて、簡単には開かなかった。工具を使い、全体重をかけ、ようやく十センチの隙間が開いた。
そこから入ってきたのは、塩の匂いだった。
海だった。アマゾンの河口から流されたのか、それとも——ACASの「跳躍」がどこかへ二人を運んだのか。見える限りの水が、アマゾンの濁った茶色ではなく、深い紺碧だった。
「……海だ」とハルは言った。
ミナが隙間から顔を出した。潮風が彼女の黒髪を揺らした。
「どこかな」
「分からない。でも海だ」
水平線まで、遮るものはなかった。
二人でハッチをこじ開けた。
最終的に工具を二本使い、ハルが蹴り、ミナが押して、ハッチは半分ほど開いた。体を外に出せる隙間になった。
ハルが先に出た。
機体の上に立った。潮風が全身を包んだ。七日間、閉じ込められていた体に、冷たい海風が当たった。ハルは目を閉じた。肺の底まで空気を入れた。
泥の匂いがない。金属の匂いがない。コックピットの密閉された空気がない。
ただ、海と風だけがあった。
「ハル」
ミナが外に出てきた。ハルの隣に立った。
二人はしばらく、何も言わずに海を見ていた。
「生きてる」とハルは言った。
「生きてる」とミナが繰り返した。
それだけで、今は十分だった。
機体は潮に流されていた。
方角は確認できなかった。太陽は雲の向こうにあって見えなかった。でも機体は一定の方向に動いているような気がした。流れに乗っている——というより、何かに引き寄せられているような。
「ACASはもう動いてないのか」とハルは言った。
「分からない。でも——」ミナは機体の表面に手を当てた。「振動は感じる。さっきより弱いけど、まだある」
「この機体は、まだ動いてる」
「うん」
コックピットに戻り、制御盤を確認した。ACASのパネルは暗くなっていた。「STANDBY」に戻っていた。でも「LIFE SIGN STABLE」の表示だけは、まだ生きていた。
ハルはその表示を見た。
七日間、ずっとそこにあった表示だった。安定している。何が安定しているのかは、まだ分からなかった。でも——何かがこの機体の中で、まだ生きていた。
空腹だった。
ひよごっぐは昨日食べきっていた。機体の中に残っている食料はなかった。水は結露採取を続ければ多少は取れるが、食料はゼロだった。
「どのくらい持つか」とハルは聞いた。
「水があれば、成人男性で三週間ほど生きられる。でも戦闘状態だったから、体は消耗してる」
「一週間は保つか」
「保つと思う」
「どこかに漂着すれば、食料を探せる」
「うん」
ハルは機体の外に出て、水平線を見た。
南の方角——太陽の位置がわずかに分かる気がした——に、何かが見えた。
山の稜線だった。
島だった。
機体が流れ着いた方向に、島があった。
どのくらいの大きさかはまだ分からなかったが、植物に覆われた島が、水平線の先に見えた。
「あそこに向かってる」とミナが言った。
「機体が向かってるのか、流れがそうなのか」
「どちらでも同じ」
二人は機体の上に乗ったまま、島が近づくのを見ていた。
ゴッグ二号機は動力なしで、でも確かに島の方角に流れていた。どこかから来る海流なのか、あるいは——機体の何かが引き寄せているのか。答えは出なかったが、どちらでも今は構わなかった。
島が大きくなった。
緑が見えた。砂浜が見えた。珊瑚礁が見えた。
機体が浅瀬に乗り上げた。
珊瑚礁を削る音が響き、衝撃が来て、最後にズズズと砂の上を滑る音がして——止まった。
静寂。
波の音だけが残った。
ハルはミナを機体の外に連れ出した。ミナの体重を支えて、砂浜に降りた。
砂だった。白い砂だった。ブーツの下に、砂の感触があった。
ハルは膝をついた。気づいたら立っていられなくなっていた。疲労と栄養不足と七日間の緊張が、全部一度に来たようだった。砂の上に手をついた。
ミナがハルの隣に座った。
二人は海を見た。
どの軍の旗もない。どの国の地図にも載っていない、空白の島だった。
「ここは」とハルは言った。
「名前がないところ」とミナが答えた。
「そうだな」
ハルは震える手で、砂を一掴み取った。手の中で崩れた。本物の砂だった。本物の地面だった。
生きていた。
【次回 第12話「兵士の埋葬」へ】




