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ゴッグ・シンドローム 真 Call of Astrachion ハルとミナの物語  作者: Kentarou Theater


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第10話「アストラキオン」

 Day 7 後半——百六十時間後


 機体が揺れた。


 泥の中に半分沈んでいた胴体が、何かに引っ張られるように上に動いた。推進器も、ブースターも動いていない。腕も足もない。それなのに、機体は確かに動いていた。


「何が起きてる」とハルは言った。


「分からない」とミナが計器を読んだ。「でも——上に向かってる」


 機体の底面から衝撃音が来た。泥の中から引き剥がされる音だった。七日間沈んでいた泥床から、ゴッグ二号機が引き離される音が、低く長く続いた。


 ACASのパネルを見た。


RESONANCE LEVEL : 9.2 / 10.0

ACAS STATUS : ACTIVE


 「ACTIVE」に変わっていた。




 そのとき、光が来た。


 コックピットの内部から光が溢れた。電源の問題ではなかった。外部からでもなかった。機体そのものが、内側から黄金色に輝き始めた。


 ハルはミナの手を強く握った。


 重い水圧も、泥の匂いも——一瞬で「不在」になった。


 コックピットが消えた。


 二人が立っていたのは、どこまでも白い場所だった。




 足元に水があった。


 薄い水面が広がっている。踏むたびにパシャッと波紋が広がる。どこまでも続く白い霧の中に、空も地平線もなかった。音が少し遅れて返ってくる。残響のある、奇妙な空間だった。


 ハルはミナの手を掴んでいた。手の感触は本物だった。体温も本物だった。


「……ここは」


「分からない」とミナが言った。彼女は目を見開いて周囲を見ていた。


 ハルは「俺一人だったら何も見えなかったんだろうな」と思った。ミナの手を通じて、ここにいる——そういう感覚があった。


 そのとき、ミナが止まった。


 前方、数十メートルの先に、人が立っていた。


 白い服の女だった。


 ミナが一歩踏み出した。走り出しそうになった。


 ハルが腕を掴んだ。


「待て」


「でも——」


「まだ分からない。落ち着け」


 ミナはハルの手を掴んだまま、止まった。


 女は近づかなかった。ただ、そこに立っていた。


 波紋が広がった。三人それぞれの足元から出た波紋が、水面を伝って重なった。




 女の輪郭が、少しずつはっきりした。


 三十代くらいに見えた。黒い髪に、静かな目。その目が——ミナの目に似ていた。


 ミナの手が震えた。


「……お母さん?」


 声は小さかった。でも、その二文字は白い霧の中にはっきりと響いた。


 女は答えなかった。でも目が、微かに細くなった。笑っているような、泣いているような——両方が混ざったような表情だった。


 ハルは、隣に立つミナの手から、その輪郭が見えた。見えているのか感じているのか分からなかった。でも確かに、誰かがそこにいた。


「こいつが……ミナの母さんか」


 ハルは声に出したわけではなかった。でも、女がわずかにハルの方を向いた。その目に、品定めするような何かがあった。それからもう一度ミナの方を向いた。


 ミナは一歩踏み出した。もう走りはしなかった。ゆっくりと、確かめるように歩いた。ハルも手を握ったまま、隣にいた。


 波紋が重なっていった。


 女とミナの間の距離が縮まった。でも触れることはなかった。ガラスか膜か、見えない何かが間にあるようだった。


 ミナが言った。


「ずっと、そこにいたの?」


 女は答えない。でも目が、「そうだ」と言っていた。


「聞こえてたの? 私の記録」


 女の目が揺れた。


「ずっと聞いてくれてたんだね」とミナは言った。声が震えていた。「私、誰かに聞いてもらいたくて記録してたの。その誰かが——ずっとそこにいた」


 ハルは何も言わなかった。


 ただ、ミナの手を離さなかった。




 女がミナを見て、それからハルを見た。


 長い時間そうしていた。


 ハルにはその目の意味が少し分かった。


「大丈夫だ」とハルは言った。女に向かって。声が届くかどうか分からないまま、言った。「ミナは必ず連れて帰る。俺が連れて帰る」


 女の目が変わった。


 品定めていたものが、消えた。


 代わりに——何か、許可のようなものが出た。


 ミナが声を上げて泣いた。


 ハルはミナを抱き寄せた。狭いコックピットでも、白い空間でも、ここが地獄の底でも——ミナが泣いているなら、そばにいるのがハルの仕事だった。


 波紋が三つ重なって、一つの大きな円になった。




 光が強くなった。


 白い空間が溶けていった。女の輪郭が霞んでいった。ミナが手を伸ばしたが、届かなかった。届かなかったが——それでいいのだと、何かが言っていた。


RESONANCE LEVEL : 10.0 / 10.0

ACAS : TRANSIT INITIATED


 コックピットが戻ってきた。


 強烈な浮力が機体を持ち上げた。それは推進器の力ではなかった。海流でもなかった。ただ——ゴッグ二号機が、自分の意思で上に向かうような、そういう感覚があった。


「ハル、離さないで……!」


 ミナが叫んだ。ハルはミナの体を自分のシートに引き寄せた。極狭のコックピットで、二人の心臓の鼓動が重なり合った。


 モニターに映るのは、もはやアマゾンの泥水ではなかった。黄金の光の奔流。誰かの記憶の断片。石斧を振り下ろす影。黒煙を吐く機械。大気を割る光。人類が数千年かけて積み重ねてきた、名もなき者たちの悲鳴が——一瞬だけ、二人の意識を通り抜けた。


「こんなものが」とハルは言った。声が震えていた。「こんなものが、俺たちが命をかけて守ってきた歴史だと言うのか」


 ミナは何も言わなかった。ただ泣いていた。端末を握りしめていた。


 兵士としての誇りが、その瞬間、音を立てて崩れた。


 代わりに残ったのは——ただ一つ。


 隣にいるこの人間を、連れて帰ること。




 衝撃が来た。


 水面を破った。


 濁流と泡と光が一気に押し寄せてきた。ハルはミナを抱いたまま衝撃に耐えた。コックピットが揺れ、計器盤が火花を散らした。


 それでも機体は浮いていた。


 ハルは計器を確認した。深度——十五メートル。上昇している。


 五メートル。二メートル。


 バン、と音がして——外が明るくなった。




 水面に出た。


 覗き窓の向こうに、空があった。


 曇った空だったが、水底の闇から見れば眩しかった。ハルは目を細めた。


 ハッチを開ける力が、まだ残っていた。腕を使い、工具を使い、隙間をこじ開けた。


 そこから入ってきたのは——潮風だった。


 ハルは呻くように呟いた。


「……風だ。本物の、風だ」


 ミナが顔を上げた。目が赤かった。でも、笑っていた。


 機体は波に揺れながら、どこかへ向かっていた。




【第一部「深度九十一メートル」完。次回より第二部「名もなき聖域」へ】


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