第二十二話 9月1日 夏の続きと、新学期
九月一日。
始業式の朝、央はいつも通り五時半に目を覚ました。
コーヒーを淹れた。
窓の外はまだ薄暗く、東の空に朱が滲んでいた。
(二学期)
特別な感慨があるわけではなかった。
ただ、カップに口をつけながら、なんとなく思った。
夏が、終わった。
正確にはまだ暑さは残っていた。
でも何かが、確かに変わった気がした。
腕時計を、一度だけ撫でた。
一年A組の教室は、八月が嘘のように騒がしかった。
夏休みの話。
日焼けの話。
誰かがどこかへ行った話。
席が近い者同士、それぞれの夏が飛び交っている。
太秦は央が登校するなり、デスクの端に肘をついてこちらを向いていた。
「おうくん」
「おはよう」
「花火の写真、もう見た? ひなちゃんがグループに上げてくれたやつ」
「……見ました」
「『見ました』て、なんで急に丁寧語」
央は何も言わなかった。
太秦は少し間を置いてから、改めてこちらを見た。
ソフトモヒカンの後ろを、人差し指でかるく掻いている。
「……なんか、変わった?」
「変わってない」
「そうかなあ」
太秦は短くそう言って、正面を向いた。
それ以上は、聞かなかった。
みおが教室に入ってきたのは、ホームルーム十分前だった。
夏服の白いシャツ。
濃いめの紺のプリーツスカート。
ゆるく波打つ髪をシュシュでまとめている。
教室の後方の扉から入ってきたみおは、一瞬だけ視線が集まるのを感じて、
肩をわずかに内側に入れた。
それから、自分の席へ向かった。
「……おはようございます」
隣に向かって、小声で言った。
「おはようございます」
央が答えた。
それだけだった。
それだけだったが、みおは少し、後頭部が温かくなるのを感じた。
(おはようございます、か)
夏の前とそれほど変わらない返事だった。
変わらないはずなのに、自分の中で何かが反応していた。
みおは唇を軽く噛んだ。
それから教科書を出して、前を向いた。
太秦は、ちゃんと見ていた。
(やっぱり)
声に出さなかった。
でも、確認した。
みおが「おはようございます」と言ったときの、央の返事。
速かった。
わずかに速かった。
夏前と比べて、一拍ぶんだけ。
(知ってた)
太秦は前を向いたまま、口の端が少し動くのを止めた。
笑い出すと央に気づかれる。
気づかれると面倒なことになる。
黙っておくのが、正解だと思った。
ホームルームが始まって、笠置先生が黒板に「2学期」と書いた。
「はい、二学期です。夏休みどうだった?」
半分くらいの手が上がった。
「下がって。あとで聞かないから」
笑いが起きた。
先生が白のマーカーを持ったまま、少し笑っていた。
「体育祭と文化祭、あります。まあ大変な学期ですが。元気にやりましょう」
それだけ言って、連絡事項に入った。
始業式は午前中で終わった。
午後は帰宅または部活動の日だった。
一年A組は解散になり、それぞれ動き始めた。
さやかが「みお、帰る?」と声をかけた。
「……少し図書室に寄ってから」
「あ、委員の仕事?」
「夏の間に返却された本の整理が残っているかもしれないので」
「なるほど。じゃあひなと先行くね」
「うん。おつかれさま」
さやかが廊下の方へ向かいながら振り返った。
央の方を一瞬だけ見て、口元を動かした。
みおには聞こえない声量だったが、さやかが「ファイト」と言ったのは、口の形でなんとなく分かった。
(何の話)
みおは小さく首をかしげた。
それから、鞄を持って廊下に出た。
中庭に面した渡り廊下を、二年生棟の方へ向かって歩いていた。
足を止めたのは、テニスコートが見える渡り廊下の窓のところだった。
コートに人影があった。
白いテニスウェア。
ゆるいポニーテール。
ラケットを片手に、後輩らしき一年生たちに何かを説明している。
波多野ことねだった。
朔は、窓のすぐそばに立っていた。
何冊か本を抱えていた。
図書室の方から歩いてきたのだろう、足が止まっていた。
コートの方を見ていた。
正確には、ことねを見ていた。
ことねが何かを言うたびに、一年生たちが頷く。
ラケットを持ち直して、フォームを実演している。
右頬のえくぼが、距離があっても分かった。
朔は動かなかった。
本を抱えたまま、ただ見ていた。
(…………)
朔の耳に、後ろから足音が来た。
「サクさん」
声をかけたのは央だった。
朔が振り返った。
眼鏡の奥の目が、少し細くなった。
「……勢多くん。図書室ですか」
「一応。先生から連絡が来ていたので」
「そうですか。僕も同じです」
ふたりは並んで、少し立っていた。
コートでは、ことねが新入部員にボールの打ち方を教えている。
軽やかなステップで左右に動いて見せながら、何か言って、一年生が笑った。
(……ああ)
朔は、窓の外から目を離さなかった。
央は、その横顔を少し見た。
「……サクさん、何か?」
聞いた。
朔がこちらを向いた。
一瞬、静止した。
それから静かに言った。
「……いえ、何でも」
ふたつ。
ふたつの意味がある返事だった。
央は何も言わなかった。
聞き返しもしなかった。
(分かった)
分かった、とは口には出さない。
言う必要がなかった。
「行きましょうか」
それだけ言って、廊下を歩き出した。
朔が少し遅れてついてきた。
コートではことねの声が続いていた。
颯爽と動いて、テニスボールが弧を描いた。
ふたりは図書室の方へ向かって、歩いた。
図書室には、みおが先に来ていた。
返却棚の前で、背の順に本を並べ直している。
正確には、みおの身長ではそれが一番効率よくできた。
「あ、葛城さん。早いですね」
朔が言った。
「返却の処理がたまっていたみたいで」
みおが答えた。
央を見て、小さく頷いた。
央も頷いた。
宇陀さんはカウンターの奥で何か書き物をしていた。
静かな部屋に、本の匂いがあった。
「じゃあ分担しましょうか。新着の受け入れ処理が三件あります」
朔が言った。
いつもの、淡々とした口調だった。
(切り替えが早い)
央は思った。
思って、それ以上何も考えなかった。
みおが棚の最上段に手を伸ばした。
央と朔より頭ひとつ以上高いところに、あっさり届いた。
「……そこ、届きますか」
朔が小声で言った。
「届きます」
「なんというか、助かります」
みおが少し、口の端を動かした。
笑いかけて、抑えた。
でも抑えきれなかった部分が、少しだけ残った。
央はそれを見ていた。
(みおが笑いかけた)
声には出なかった。
出さなかった。
図書室での作業が終わったのは、夕方近かった。
朔が先に「失礼します」と出ていった。
みおが鞄を持った。
央も立ち上がった。
廊下を並んで歩いた。
夕方の光が西の窓から差し込んでいた。
一年の教室棟に近づくにつれて、廊下の空気がすこし動いた。
「……二学期も、図書委員の仕事よろしくお願いします」
みおが言った。
「こちらこそ」
「……サクさん、何か見ていましたか。廊下で」
唐突な問いだった。
でもみおの口調は、特に追及する様子もなく、ただ確認しているような静かさだった。
央は少し考えた。
「……どう聞こえましたか」
「……なんとなく、分かりました」
「そうですか」
「……言わない方がいいですか」
「言わなくていいと思います」
「分かりました」
それで終わった。
ふたりは歩き続けた。
みおが少し、前を向いたまま言った。
「……あの人は、ちゃんと見ている人だと思います」
「……ことねちゃんのことですか」
「はい」
「……そうですね」
央は少し、空中を見た。
(ちゃんと見ている)
みおが前に言った言葉が、少し違う形で戻ってきた気がした。
一年棟の渡り廊下で、ふたりは分かれた。
「おつかれさまでした」
「おつかれさまです」
みおが昇降口の方へ歩いていく。
ゆっくりとした、落ち着いた歩き方だった。
(夏の前と)
央は立ったまま、少し考えた。
(何か違う。どこが違うかは、分からない)
腕時計を、撫でた。
夕日が廊下に長く伸びていた。
その夜、スマホにLINEが来た。
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みお:今日、ありがとうございました
みお:夏休み中にたまった分、だいたい片付きました
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央はしばらく画面を見た。
夏休みが終わる前には、こういうLINEは来なかった。
返信を打った。
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央 :お疲れさまです
央 :サクさんも来ていてよかったです
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少し待った。
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みお:そうですね
みお:……棚の上、あの人には難しかったと思います
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央は読んだ。
(あの人に難しかった)
状況を思い出して、少しだけ口の端が動いた。
返信を打った。
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央 :そうです
央 :助かりました
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既読がついた。
返信は来なかった。
それで十分だった。
央はスマホを置いた。
部屋の窓の外、夜の空が広がっていた。
(夏は終わった)
でも、何かがまだ続いている気がした。
どこまでが夏の続きで、どこからが新学期なのか。
分からなかった。
でも、どちらでもよかった。
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