第二十一話 8月22日 火の粉と、気づいてしまった夜
花火大会は、八月二十二日だった。
日程が確定したのは十五日の小旅行の翌日で、太秦がグループLINEに流したのがその夜だった。
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太秦:花火、八月二十二日確定した
太秦:最寄り駅に夕方五時半集合でどう?
さやか:了解
ひな:いく!
ことね:いきます!
朔 :参加します
みお:……行けます
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央は翌朝、みおに個別でメッセージを送った。
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央 :浴衣、持っていたら着てきてもいいと思います
央 :花火大会なので
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送ってから、少し後悔した。
余計だったかもしれない。
言うことでもなかったかもしれない。
既読がついた。
返信まで、少し間があった。
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みお:……浴衣は一応あります
みお:草履が低いので大丈夫かとは思いますが
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央は返信を読んで、それ以上何も返さなかった。
(着てくる、ということだと思う)
腕時計の文字盤を、一度だけ撫でた。
八月二十二日。
夕方の光が、住宅地の路地に斜めに入っていた。
最寄り駅の改札前に、五時二十五分には全員揃っていた。
太秦がストリート系のシャツとハーフパンツ。
さやかがフレアスカートにきれいめのブラウス。
ひなが浴衣だった。白地に青い花柄で、小柄な体にきっちり着こなしていた。
「ひな、かわいい」
さやかが言った。
「でしょ。ヘアピンまで合わせた」
ことねが甚平、朔がシンプルな夏シャツ。
央は濃紺のシャツにスラックス。
みんなが揃って、ひと息ついたタイミングで。
足音が来た。
改札から出てきた人影に、全員の視線が集まった。
みおだった。
浴衣を着ていた。
藍の濃い地に、白と薄黄の朝顔。
帯は白地に金の細い糸が入っていた。
髪は後ろでゆるくまとめ、うなじが見えていた。
足元は低めの草履で、それでも、みおはみおだった。
周囲を歩いていた人たちの動きが、一瞬、わずかにずれた。
みおは視線に気づいていた。
肩が、少し内に入りかけた。
入りかけて、止まった。
(今日は祭りだから)
言い訳を、自分に言い聞かせた。
それでも、足が一歩、前に出た。
「……来ました」
「みおちゃん、すごい」
ことねが言った。
遠慮のない、真っすぐな声だった。
「本当に。似合ってる」
さやかも言った。
「……ありがとうございます」
みおは短く返した。
それ以上は言わなかった。
央は、一歩ほど離れたところから、みおを見ていた。
何か言おう、と思った。
言葉が来なかった。
(…………)
ただ、見た。
腕時計を、無意識に撫でていた。
会場へ向かう道は、人が多かった。
浴衣姿の人間が増えると、通りの空気が変わる。
屋台の匂いが夕風に混じって、どこかからお囃子の音がした。
七人で並んで歩くには、歩道が少し狭かった。
自然と、前後に流れた。
ことねと朔が少し先へ。
さやかとひながその後ろ。
太秦が中間で首を伸ばしている。
央とみおが、並んだ。
「浴衣、着慣れていますか」
央が聞いた。
「……年に一回なので。でも着るのは自分でできます」
「そうですか」
「お母さんが毎年着ていて、教えてもらいました」
「……お母さんも浴衣を着るんですね」
「はい。うちの家族は揃って着るので、お盆ごろに。今年はここで先に着てきました」
会話が、続いた。
続くことに、央は慣れてきていた。
最初から自然だったわけではない。
少しずつ、間の感触が分かってきた。
(みおは、間が要る)
急かさなければ、ちゃんと来る。
それが分かってから、やりとりが変わった気がした。
前方でことねが何か言って、太秦が笑っている。
ひなのスマホが横持ちで、屋台の列を撮っていた。
(みんないる)
それが、妙に、良かった。
屋台の通りを抜けて、河川敷の広場に入ったところで。
みおの足が一瞬、止まった。
視線の先に、人影があった。
背の高い男が、こちらに歩いてきていた。
みおとよく似た目元で、肩幅もある。
みおより頭ひとつ分以上低いが、人混みの中では十分に目を引く体格だった。
「みお」
その男が、顔を上げて言った。
央は、その声を聞いた。
(…………)
見ていた。
男がみおの横に並んだ。
みおが少し困ったような顔をした。
「なんでいるの、お兄ちゃん」
「お前の友達に花火来るって聞いたから、俺も来ることにした。近いし」
「……一言言ってよ」
「言ったら断られると思って」
みおが小さくため息をついた。
央は、その二人を見ていた。
男の目元が、みおによく似ていた。
顎の線が似ていた。
立ち方まで、どこか似ていた。
(……似ている)
脳の中で、何かが繋がりかけた。
その前に、みおが振り返った。
「……央さん、すみません。兄です」
一言で、解けた。
男が央を見た。
少し目を細めた。
「葛城蒼介です。みおの兄。……央、さん?」
「勢多央です。同じクラスで、図書委員も」
「ああ。みおから聞いてます」
(聞いている)
央はその言葉を、少し咀嚼した。
「よろしくお願いします」
「こちらこそ。みおと仲良くしてやってください。この子、自分からなかなか動かないので」
「お兄ちゃん」
みおの声が、少し低くなった。
蒼介が肩をすくめた。
笑っていた。
央はその横顔を見ながら、ひとつ思った。
(雨のとき、みおが話してくれた。「兄がいる」と)
傘の下で、確認した。
あのとき、揺らいだ自分を思い出した。
(あれは、確かに揺らいでいた)
何に揺らいでいたのか。
今なら、少し分かる気がした。
花火の打ち上げ開始まで、三十分ほどあった。
七人プラス一人は、河川敷の少し奥の方に場所を取った。
蒼介は「邪魔するつもりはないから」と言って、会場の端の方に移った。
みおが「信じてない」と小声で言っていたが、本当に少し離れたところに腰を下ろした。
屋台で買い物に行く人と残る人に分かれた。
さやかとひなと太秦が「たこ焼き買ってくる」と言って人混みに消えた。
ことねが「一緒に行く」と追いかけた。
朔がことねの後ろを、少し離れてついていった。
気がつくと。
央とみおだけが、残っていた。
水面の方に、夕暮れの光が残っていた。
少し遠くで、屋台の声と音が聞こえる。
ふたりして、川の方を見ていた。
「……江の島のときみたいですね」
みおが言った。
「そうですね」
「人が少ない方が、落ち着きます」
「そうですか」
「……央さんが言っていた通りだったので」
央は少し、みおの方を見た。
みおは川の方を見たままだった。
(覚えていた)
「……俺もそう思います」
言葉が来た。
来るのに時間はかからなかった。
「人が少ない方が、ちゃんと聞こえます」
「何が」
「隣にいる人の声が」
みおが、一瞬止まった。
それから、川を見たままで言った。
「……そうですね」
空が、どんどん暮れていった。
橙が消えて、紫になって、青に変わる前の色。
その中に、みおがいた。
浴衣の藍色が、夕暮れの空に似た色だった。
帯の金の糸が、残った光を少し拾っていた。
右耳の後ろに、小さな泣きぼくろがあった。
(あれは、いつから気づいていたんだろう)
すぐに、頭の中で打ち消した。
遠くで、空が光った。
一瞬の沈黙の後。
音が来た。
どん、という重い音が体に届いて、光の塊が広がった。
花火が、上がった。
みおが空を見上げた。
央は、その横顔を見た。
光が広がるたびに、みおの顔が照らされた。
驚いた顔ではなかった。
感動した顔でもなかった。
ただ、静かに、空を見ていた。
光が反射して、ハシバミ色の瞳が、一瞬、緑がかった。
(これは)
央は思った。
(これは、何なんだろう)
言語化できなかった。
しようとして、できなかった。
ただ、見ていた。
また花火が上がった。
みおの顔が、また照らされた。
みおは光の中で、ゆっくり息を吐いた。
(綺麗だ)
思った瞬間、自分でも驚いた。
花火のことじゃない、と気づいた。
気づいたことに、また驚いた。
腕時計を撫でた。
手の動きが、止まらなかった。
みおは空を見ていた。
光の束が開いて、散って、消えた。
また次が上がる。
音が来るたびに、夜が揺れた。
(今日は、楽しかった)
思った。
思ってから、なぜそう思ったのかを考えた。
小旅行のときも楽しかった。
みんなで出かけたことが楽しかったのか。
夏祭りの空気が楽しかったのか。
(それだけじゃない)
浴衣を着てくると返信したとき、少し迷った。
迷って、それでも着てきた。
(なぜ着てきたか)
思い返した。
改札前で全員の視線が来たとき、肩が内に入りかけた。
入りかけて、止まった。
止まったのは。
なぜ止まったのか。
少し右を見た。
央が、空を見ていた。
線の細い横顔。
後ろで結んだ黒い髪に、花火の光が一瞬、橙色を乗せた。
(あ)
みおは思った。
何かが、ゆっくり名前を持ちかけた。
まだ名前はない。
でも、輪郭が見えた。
(なぜ楽しかったか、分かった気がする)
花火が、また上がった。
みおと央は、同じ空を見ていた。
ほとんど同時に、それぞれの胸の中で。
同じ言葉が、静かに落ちた。
(好きだ)
(好きだ)
言葉が重なったことを、ふたりは知らなかった。
空で、白い光が広がった。
川の水面に、花火が映った。
どこかからお囃子がして。
遠くで、太秦の声がした。
「見つけた」
太秦が戻ってきた。
たこ焼きの容器を片手に持っていた。
「ふたりとも、ここにいたのか」
「戻ってきたらいなくなってたから探してたんだよ」
さやかが言った。
ひなが横でスマホを構えていた。
花火の光を背景に、みおと央が並んでいた。
ひなは、スマホをまっすぐ向けた。
(今回は、撮っていい)
シャッターを、切った。
「……ごめん、撮った。嫌だったら消す」
「いいですよ」
みおが答えた。
少し、驚いた。
(みお、今日は撮っていいって言った)
ひなは画面を確認した。
浴衣の藍色と花火の光が重なっていた。
(これは使える)
そう思って、すぐ打ち消した。
(これは、うちだけのでいい)
スマホをポケットに戻した。
花火大会が終わって、帰り道を歩いた。
川沿いから駅までの人の流れの中、八人が少し長い列になっていた。
先頭がことねと朔で、さやかが隣で話しながら歩いていた。
みおと央は少し後ろの方で、ひなが間に挟まっていた。
蒼介は手を振って早めに離れていった。
「みおちゃんたち、楽しそうだったから。お節介したかもしれないけど」
去り際に蒼介が小声で央に言った。
「よろしくお願いします、みおのこと」
央は短く頷いた。
言葉は出なかったが、それ以上必要なかった。
駅の改札が近づいてきたところで、太秦がさやかの隣に並んだ。
「……なあ」
声を落として言った。
「なに」
「あのふたり」
顎で、少し後ろを示した。
さやかが後ろを見た。
みおと央が、少し離れて並んで歩いていた。
会話はしていない。
していないが、距離が自然だった。
「……うん」
さやかが小さく返した。
「もう無理だろ、あれ」
太秦が言った。
「無理って何が」
「別々でいるのが」
さやかは少し考えた。
それから、短く言った。
「……そうだね」
ふたりは顔を見合わせなかった。
それで十分だった。
電車の中、みおは吊り革につかまっていた。
周囲の人の頭の上に、みおの視線があった。
浴衣のまま電車に乗るのは少し気恥ずかしかったが、さやかがいたので助かった。
乗り換えの駅でことねたちと別れた。
ことねが「また学校始まったらね」と言って、朔と一緒に別のホームへ消えた。
さやかとひなは三軒茶屋で降りる。
電車がゆっくり走りながら、みおは窓の外を見ていた。
(今日は楽しかった)
もう一度、思った。
さっきより、はっきりしていた。
(なぜ楽しかったか、少し分かった)
ことね先輩が言っていた言葉が、ふと浮かんだ。
「仲良くしてやってください。言葉通りの意味で」
石段の上で聞いたとき、「どこまでが言葉通りか」と思った。
今は、少しだけ分かる気がした。
(言葉通りの意味は、こういうことだったのかもしれない)
三軒茶屋に着いた。
さやかとひなが降りた。
「おやすみ、みお」
「うん。おやすみ」
ドアが閉まった。
電車の中が、静かになった。
みおは席に座った。
スマホを取り出した。
LINEを開いた。
「央さん」の名前があった。
(送ろう)
今回は、考える前に決まった。
文字を打った。
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みお:今日、楽しかったです
みお:ありがとうございました
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送った。
窓の外が、街の灯りで明るかった。
しばらくして、既読がついた。
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央 :俺も楽しかったです
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一文だった。
みおは画面を見た。
また少しして。
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央 :浴衣、良かったです
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追いかけてきた。
みおは画面をしばらく見ていた。
それから、唇が動いた。
(……なんで、こんなに)
言葉が、出なかった。
でも、分かった。
みおはスマホを閉じた。
窓の外の灯りを見た。
夜が、静かに流れていった。
ご一読いただきありがとうございます。
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