第十九話 8月2日 夏休みの、それぞれ
夏休みが来た。
七月二十二日の終業式を境に、学校の空気ごと消えた。
セミの声だけが残って、空が青くなった。
◇
勢多家の朝は、五時半に始まる。
央はアラームよりも先に目が覚めた。
カーテン越しに、外がうっすら明るいのが分かった。
台所でコーヒーミルを引いた。
低い音が静かな家に響く。
ドリッパーに湯を落とす。
膨らむ粉の表面を眺めながら、何も考えていなかった。
考えていない状態で、ただ手が動く。
それが、この時間の好きなところだった。
縁側に出ると、祖父が座っていた。
外の空気と同じくらい静かに、ただそこにいた。
「早いな」
「夏休みだから」
「夏休みだから早い、か」
祖父がカップを受け取った。
二人で並んで、外を見た。
まだ青の薄い、白みがかった空だった。
「今日は暑くなる」
「そうですね」
「夏休み、何か読むものあるか」
「何冊か借りてきました。夏期開放も週三日やっているので、当番が入れば行きます」
「行きたければ行けばいい。それだけのことだ」
央は少し前を向いた。
(行きたいかどうかは別の話だ)
そう思った。
思ったが、言わなかった。
コーヒーを飲んだ。
朝の光の中で、苦みが少し薄く感じた。
空が、少しずつ青くなっていった。
◇
三軒茶屋のみお宅では、朝から台所が少し騒がしかった。
みおは包丁を止めて、冷蔵庫を確認した。
昨日の料理本のレシピと、手元の食材が合わない。
ごま油を昨日使い切っていた。
(ラー油と白ごまで代替できるか)
頭の中で計算した。
「みお、何作ってんの」
背後から、低い眠たそうな声がした。
みおは振り返った。
兄、蒼介がいた。
Tシャツとスウェットパンツで、髪がまだ乱れていた。
みおより身長が三十五センチ低く、つむじが見えている。
「……帰ってきてたの」
「昨日の夜遅く。気づかなかった?」
「寝てた」
蒼介が冷蔵庫を開けて牛乳を取り出した。
「ちょっとどいて」
「もう少しで終わるから」
「じゃあ三十秒待つ」
みおは包丁の動きを速めた。
大葉を切り揃えて、ボウルの端に寄せた。
「終わり」
「お疲れ。ねえ、高校どう?ちゃんと馴染んでる?」
「馴染んでると思う」
「友達できた? 男女いる?」
「いる」
「男子は?」
「……何が聞きたいの」
「いや別に。楽しそうならそれでいい」
蒼介がのんびり言った。
追求する気もなかった。
みおは火を中火に落とした。
食材を入れる。
炒める音がして、台所にいい匂いがした。
(クラスメイト)
さっき心の中で浮かんだ言葉に、何か続きが来かけた。
止まった。
(……来ないかもしれないし)
電車の中で思ったことを、また思い出した。
スマホの画面は、今日もまだ動いていない。
みおはラー油を少し足した。
代替の検証は、まだ続く。
◇
太秦が深夜の道路に出たのは、日付が変わる少し前だった。
ロードバイクを引いて、アパートの外に出た。
ライトを点けて、走り始めた。
渋谷から代官山方向に流れる。
車が少ない。
ペダルを踏む感触が足の裏に来る。
静かな道を走ることそのものが目的だった。
(今日のバイト、仕上がりは悪くなかった)
父の店で変速機の調整を一台仕上げた。
父が何も言わなかった。
それは合格を意味した。
漕ぎながら、頭の中を整理した。
(花火大会、日程調べないと)
おうくんには「八月中頃」と言った。
まだ確認していなかった。
さやかさんとひなちゃんにはグループLINEで声をかければいい。
葛城さんは、おうくんから直接言えばいい。
(LINEあるんだから、使えよ、ちゃんと)
「ない話ではない」という央の言い方を思い出した。
あれは十分な答えだった。
夜の空気が顔を通り過ぎた。
気持ちよかった。
来月の自分の誕生日は九月十四日だ。
花火大会は、それより前になる。
(楽しみだな)
それだけ思って、また漕いだ。
◇
さやかは弟の隣に座って、問題集を覗き込んだ。
「ここ、方程式の立て方が間違ってる。単位が揃ってない」
「……あ」
「もう一回、何を求めるか確認して」
弟の優太が問題文を読み直した。
さやかはその間に、テーブルの上のメモを見た。
今日の昼食の店のことを書いた紙だった。
「担担麺(中辛・ゴマ多め)/ 三軒茶屋・●● / 8/2」
昼、みおと一緒に行った。
みおのお気に入りの店で、以前から気になっていた場所だった。
みおはスープも全部飲んだ。
「ゴマが多くて美味しかったので」と言っていた。
(みおって、食べるときだけ素直だ)
「さやか、ここどうすればいい?」
「分母を揃えてから」
手順を書いた。
丁寧に。
「分かった?」
「……たぶん」
「たぶんは確認の前フリだから、次の問題で試して」
さやかはメモに書き足した。
「中辛推奨・次回は辛さ追加を試す」
夏休みの午後は、長かった。
◇
ひなのスマホは、朝から忙しかった。
通知をさかのぼる。
(あった)
某カフェチェーンと人気イラストレーターのコラボ。
限定クリアファイルとアクリルキーホルダー。
販売は今日の正午から。
「聞いて聞いて、今日だよ今日」
スマホに向かって言ったが、誰もいなかった。
みおにLINEした。
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ひな:今日正午からあのコラボグッズ出るやつ 絶対ゲットしに行く
みお:暑いよ、今日
ひな:分かってる。でも並ぶ
みお:日傘持って行って
ひな:持ってく。みおも欲しい?
みお:……クリアファイルのデザインによっては。写真撮ってきてくれる?
ひな:撮ってくる!
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着替えて、日傘を出した。
折りたたみ式の白いやつだ。
開くと、自分の顔の横幅くらいになった。
(意外と大きい)
それは普通の日傘のサイズだったが、ひなには時々そう見えた。
スニーカーを履いて、ドアを開けた。
外の空気が熱かった。
(暑い)
それでも、足が速かった。
◇
図書室は、静かだった。
八月に入って最初の開放日。
窓から差し込む光が白くて、棚の背表紙に真横から当たっていた。
朔は窓際のテーブルに座って、本を読んでいた。
特に急いでいない。
ただ、読んでいた。
宇陀さんがカウンターで本の補修をしていた。
(静かだ)
学校というより、図書館のような静けさだった。
ページをめくった。
主人公が夜の庭に立っているシーンだった。
(ことねさんは、今日も合宿か)
テニス部の夏合宿は、七月末から続いている。
長野の合宿所だと聞いた。
朔は窓の外を少し見た。
校庭には誰もいない。
夏の光だけがあった。
視線を本に戻した。
数分後。
図書室の扉が開く音がした。
「あ、宇陀さん、こんにちは」
声がした。
朔の手が、止まった。
知っている声だった。
視線だけ、ゆっくり動かした。
カウンターの前に、ことねが立っていた。
テニスの練習着ではなかった。
夏の私服。
腰にパーカーを巻いていた。
「合宿、昨日で終わって。帰りに寄ろうかなって」
「お疲れさま。長かったね」
「十日です、今年は。きつかった〜」
ことねが笑った。
右頬のえくぼが見えた。
(来た)
朔は思った。
すぐに打ち消した。
(偶然だ)
夏期開放の存在を、ことねが知っていたとしても不思議はない。
「何か探してる本ある?」
「んー、特にはないんですけど。涼みに。暑いので」
「ゆっくりしてって」
ことねが棚の間に入っていった。
朔は文字を目で追おうとした。
できなかった。
棚の向こうで何かを手に取る音がした。
また戻す音がした。
しばらくして、ことねがカウンターに戻った。
一冊持っていた。
「これ借りていいですか」
貸出カードを書いて、宇陀さんが受け取った。
「朔くんも来てたんだね」
宇陀さんが言った。
ことねが顔を上げた。
朔のいる窓際を見た。
目が合った。
「あ、サクさん、こんにちは」
「……こんにちは、波多野さん」
声が、少し硬くなった。
自分で分かった。
「合宿帰りに寄ったの。邪魔しちゃった? 読んでた?」
「いえ、別に」
「遠慮しなくていいよ」
「遠慮ではないです」
ことねが少し笑った。
「サクさんって、真面目だよね。夏休みに図書室来てる時点で十分」
ことねが本を持ち直した。
「じゃあ宇陀さん、また来ます」
「またどうぞ。ゆっくりしてよかったのに」
ことねが扉の方に歩いた。
朔の横を通り過ぎた。
「また来てね、サクさん」
「……はい」
扉が開いた。
閉まった。
朔は本の前に向き直った。
(来た。会えた。それだけだ)
そう整理した。
特別なことは何もなかった。
ただ。
(「また来てね」と言った)
その言葉が、静かに耳の中に残っていた。
宇陀さんが、奥でまた作業を始める音がした。
テープを貼る、小さな音。
図書室は静かだった。
◇
央のスマホが鳴ったのは、昼を少し過ぎた頃だった。
縁側から部屋に戻って、本を読んでいたところだった。
波多野ことね。
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ことね:合宿おわったよ~ 死にそうだった 10日はながい
央 :帰ってきたの
ことね:いまさっき。みんなはどうしてる?
央 :今日はそれぞれ。太秦はバイトで、さやかさんは弟の勉強見てるって
ことね:みおちゃんは?
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央は少し考えた。
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央 :みおは、料理してたみたい。今日、兄が帰省してるって
ことね:みおちゃん、ね。葛城さんのこと、みおって呼ぶんだ
央 :……名前で呼んでいいって聞いた
ことね:へえ。LINEはした? 夏休みに入ってから
央 :……グループでは
ことね:え、なんで。個別ではしてないの?
央 :何か用件があれば、と思ってたから
ことね:用件要るの? 夏休みだよ? 他愛もない話でいいんだよ。央ってそういうとこ不器用だよな~
央 :余計なことを言わなくていい
ことね:言う。親切心だから。他愛なくていい。送っとき
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ことねの返信が途切れた。
央はスマホを置いた。
本を手に取った。
しばらく読んだ。
それから、また、スマホを取った。
LINEを開いた。
葛城みお。
最後のやりとりは終業式の翌日だった。
夏期開放の時間を確認する、短いやりとりで止まっていた。
(他愛ない一言)
央は少し考えてから、入力した。
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央 :今日、朝から本を読んでいます。祖父と縁側で珈琲を飲みました
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送信した。
少ししてから、既読がついた。
また少し間があって。
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みお :……夏休みっぽいですね
央 :そうですか
みお :早朝から読んでいたんですか
央 :五時半くらいから。習慣なので
みお :珈琲も朝から飲むんですか
央 :はい。ブラックです
みお :……高校生っぽくないですね
央 :祖父にもらいました。好みが
みお :似たんですね、お祖父さんと
央 :そうかもしれないです
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少し間が空いた。
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みお :……うちは今日、兄が帰省していて、朝から台所を占領されました
央 :料理をしていると聞きましたが
みお :していました。でも割り込んできて。まあ、半分食べてもらいましたが
央 :試作に付き合ってもらったんですか
みお :……一度見たレシピは大体再現できるので。夏休みじゃないとできない試みは今のうちに
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央はその文面を少し見た。
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央 :それはすごい
みお :大したことじゃないです
央 :俺にはできないので、大したことだと思います
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既読がついた。
みおからの返信は、少し遅れた。
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みお :……ありがとうございます
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央は本を閉じた。
(ことねの言った通りだった)
情報でなくても、話が続いた。
縁側の方で、祖父が何かを動かす音がした。
外はもう、昼の光になっていた。
スマホの画面を、もう一度だけ見た。
「ありがとうございます」という文字が、青い背景に白く並んでいた。
央は文庫本を再び手に取った。
続きを読もう、と思った。
夏休みは、まだ長かった。
ご一読いただきありがとうございます。
ポイント、リアクションスタンプ、感想コメントなどいただけると、作者が小躍りして喜びます。
次回もよろしくお願いします。




