さようなら、私の愛した日々よ
「くっくっく」
いきなり何を思ったか、目の前の少女――ナナは手のひらで顔を抑えながら不気味に笑った。
「この世界は本当に面白い。なにもかもが馬鹿げている」
そう言うと、携帯を取り出しボタンを忙しそうに操作し始める。
「こんばんは、姫。面倒なことになりましたね」
ナナはそう呟きながら携帯を操作する。
誰かとメールのやり取りでもしているのだろうか?
やはりドランカー患者は突発的な行動が多い。
「誰かとメールか?」
ドランカー患者の行動に正当性を求めるのはまったくもって無意味だが、それでもこの妹に似た少女を無視することはできなかった。
尋ねてみると、ナナは口角を吊り上げまた不気味に笑って言った。
――ええ、あなたの妹さんと、と。
「……なんだと?」
冗談でも笑えない。
ドランカー患者の言うことを本気にするつもりはないが、この容姿も踏まえたうえで、謎の多いこの少女の発言はいちいち引っかかる。
「あなたの妹さんも馬鹿ですね。唯一のお友達――いえ、今はロボットでしたっけ? それを"破壊"するそうですよ」
「なんなんだ、さっきから。何が言いたいんだ」
「だから、あなたの妹さんは馬鹿だって言ってるんですよ。なんで変な妄想に取り憑かれているんですか? なんで自分の妹殺そうだなんて考えられるんですか?」
ナナの言葉が途端に早口になる。
妹を殺す?IRIAのことか?
「優は馬鹿じゃない。俺なんかよりもずっと頭のいい子だ」
「だったら何故妄想するんです?」
「病気だから仕方が無いだろう? そんなことよりも、妹を殺すっていうのはどういうことだ」
「そのままですよ。馬鹿が私のマインドコントロールで、今人殺しをしようとしてるところです」
ほら。と、ナナがこちらに携帯の画面を向けた。
そこにはIRIAを壊す……いや、愛璃を殺すように誘導している会話の一部が表示されていた。
この会話の相手はおそらく――。
「てめぇっ!! ふざけんじゃねえ!!」
気づいたときには、俺はナナの胸倉に掴みかかっていた。
こいつが、こいつが優を引っ掻き回していたのか?
「痛いなぁ……やめてよ、"お兄ちゃん"?」
「うるさい! その顔で、うざってぇ言葉を吐くな!」
俺はナナを降ろすと、手に持っていた携帯を引っ手繰る。
その携帯を使い、すぐさま優にメッセージを送る。
<やめろ!こいつの言うことを聞くな!>
「……くすくす、そんなことをしても無駄なのに」
ナナは余裕の表情を浮かべている。
優からの返信を見てみると、そこには<なんのこと?>と書かれているだけだった。
「もうすぐ、もうすぐ"世界は夏休みを迎える"!!」
突如、車椅子から立ち上がりナナが叫んだ。
「あの馬鹿も、ロボットも、もういなくなる! 私は、私に勝ったんだ!」
目の前には、ただ狂気があった。
屋上の柵を乗り越えようと、よじ登り始める。
「全てアカシックレコードの通り! 見て、お兄ちゃん!」
俺は柵の上に立つナナを見上げる。
そこには吹き荒れる無数の粉雪と、俺の妹がいた。
「世の中バグだらけ! この世界すらもはやドランカーと言ってもいい!!」
ナナが力いっぱい叫ぶ。
雪がこちらにも降り注ぎ、その冷たさが俺の肌に触れては、消えていく。
「あの神気取りの、直人とか言うやつもこの世界線にはもう存在しない!! 全てはあの日! あの日の屋上! あのロボットが受け取った"銀"のせい!」
ナナが飛び降りようと、その身を空へ投げようとしていた。
俺は咄嗟に柵を駆け上り、ナナの手を掴んでこちらに引き寄せる。
「駄目なんだ! この世界線じゃ駄目なんだ! こんなんじゃ……!」
ナナが暴れ、不意にそのバランスを崩す。
柵の一部が壊れ、俺とナナの身体が空へ投げ出された。
「もういいから、"今回は"もうおやすみ」
ナナを哀れに思った俺は、水無瀬和真に"なりきる"ことを忘れて、その頭を撫でた。
俺達の体は一緒に落下していく。
このままでは地面に衝突してしまうだろうが、何も問題はない。
俺は画面上に表示された"ログアウト"のボタンを押すと、世界そのものが消えた。
そうだ、次があるさ。
"銀"さえあれば、全ての可能性を見ることができる。
全てはあのロボット――IRIAの手に掛かっている。
次にIRIAが見る世界はどんな世界だろうか。
俺はしばらく眠りにつくことにする。
これで狂気は一度終わり。
俺は隣で眠ったまま動かないナナの頭を撫でながら、隣に寝そべり一緒に眠ることにした。