第九話「御前の開栓——奇跡でも呪いでもなく、配管です」
朝日が王宮の青い屋根を照らし出す頃、前庭の「魔法噴水」の周りは、緊迫した静寂に包まれていた。
噴水は、昨夜ルシアンが伝令に託した取水停止命令を嘲るように、なお涼やかな音を立てて水を噴き上げていた。王宮営繕係の職人たちが「王家の象徴を止める国王陛下の裁可が届いていない」と拒み、取水弁に手を触れなかったためだ。
大理石で造られた彫像の周囲には、車椅子に乗られた高齢の国王陛下を中心に、大司教グレゴール猊下、ダールトン、そして宮廷の大臣たちが居並んでいた。王宮衛兵たちが周囲を取り囲み、重苦しい空気が漂っている。
「脱走した聖女と、浄化局長が自ら現れたか」
宮廷の財務官や貴族たちが、私とルシアンの姿を認めてざわめいた。夜を徹して脱出した私たちの服には泥がつき、ルシアンの金髪も乱れていた。だが、彼の手には昨夜局の伝令が受領した命令書の控えがあり、私の手には一本の通水桿と、二枚の施工図面が握られていた。
「陛下、ならびに猊下」
ダールトンが前に進み出ると、うやうやしく一礼した。しかしその声には、冷ややかな高圧感がこもっていた。
「このような早朝から御足をお運びいただき、恐縮に存じます。しかしながら、聖女様とルシアン殿下は、大聖堂の静養を抜け出し、王家の象徴である魔法噴水を停止せよと主張しておられます。患者がわずか四名という聞き書きに過ぎない噂で、二百年祭の誉れを損ない、点検口を抉じ開けようなど、王宮の面子を傷つける暴挙でございます」
大司教グレゴールも静かに頷き、憐れみと困惑の混じった目を私に向けた。
「聖女様。王女殿下の平癒を願うあなたの強いお気持ちは分かります。ですが、宮廷魔術師長も『呪いも穢れもなし』と鑑定した清らかな泉です。これ以上、騒ぎを大きくなさるものではありません」
国王陛下は深く身を沈め、厳しい眼光で私とルシアンを見つめられた。
「ルシアン。浄化局長として、説明してみよ。お前自身が完成させた噴水を、自ら疑うというのか」
ルシアンは一歩前に出ると、一切の躊躇なく頭を下げた。
「はい、父上。僕が局長として納入した噴水だからこそ、検証の義務があります。エルシアが描いた王宮内の患者分布図と設計図は、この前庭を最も強く指しています。下町からの感染ではありません。だからこそ、点検口を開けて確かめる必要があります」
国王陛下は車椅子の上で深く息を吐き出すと、手を挙げられた。
「ルシアン。説明では足りぬ。余の前で、点検口を開けて示せ」
国王の一言を受け、営繕係の職人たちがようやく動いた。
「点検口を開けろ」
ルシアンの命令のもと、職人たちが噴水台座の横にある古い石の覆い——「天顕光」と刻まれた点検口の鍵を回した。重い石蓋が取り外されると、湿った暗闇と、鉄と錆の匂いが立ち上った。
「まず、水質を計測します」
私が合図を送ると、同行していた宮廷魔術師のマグヌスが前へ出た。彼は七話で改良した魔導水質検知器を取り出し、王女のアメリーが飲んだ水差しのサンプルと、前庭の給水栓から汲んだ水に検知光を当てた。
二つのガラス管の光が、まったく同じ青緑色の波形を描いて激しく点滅した。
「……一致しました」
マグヌスが驚愕の声を上げた。
「王女殿下の水差しと、前庭の給水栓の水は、まったく同じ汚染反応を示しています!」
大臣たちの間に動揺が走った。しかし、ダールトンはすぐさま笑みを浮かべて反論した。
「同じ反応であっても、噴水から入ったとは限りません! 外部から水差しや給水栓へ直接混入した可能性もございます! 噴水を止める根拠にはなり得ません!」
「いいえ。構造と運用の記録がそれを否定します」
私は懐から魔導火のランプを取り出し、点検口の暗がりを照らした。
「大司教猊下、そして大臣の皆様。配管の接続をご覧ください」
私は羊皮紙の図面を、点検口の前に広げた。
「本管から噴水へ引き込む枝管には鉛管が使われていますが、これは長年の蓄積による慢性的な危険です。今回の急激な高熱を引き起こしたのは、その隣にあるこちらの接続です」
魔導火の光が、二本の交差した配管を鮮明に浮かび上がらせた。
噴水の溜め水をろ過して循環させるための還水管が、直接、王宮内部へ送られる上水の給水管へと繋がれていた。典型的な「交差接続(クロス接続)」だった。
営繕係の古参職人が羊皮紙の図面と現物を交互に見比べ、指で管を追った。
「この交差接続がある枝管から、前庭の給水栓へ管が戻っています。還水が上水側へ入れば、王宮内の水差しだけでなく、庭師の給水栓にも同時に届きます」
「そして、昨夜の記録があります」
立ち会っていた庭園係の職長が、羊皮紙の散水日誌を国王の前へ差し出した。
「昨夜、日没直後に前庭の散水を一斉に開始いたしました。その直後、噴水の水勢が急激に落ちております」
私は図面を指し示した。
「還水管の弁をお改めください」
古参職人が手を伸ばし、還水管に設置された逆流防止弁を工具で叩いた。重い金属音だけが響き、弁は開いた状態のまま微動だにしなかった。
「固着しています。弁が開いたまま動いておりません」
職人が告げた。私は言葉を重ねた。
「昨夜の散水によって一時的に給水側の圧力が低下しました。逆流防止弁が開いたまま固着していたため、負圧によって還水管から噴水の溜め水が上水管へと吸い上げられたのです。還水側の水を直接採取してください」
古参職人が素早く還水管のドレン口を緩め、試薬瓶に濁った水を受け取った。
瓶の中の水には、目視できる肥料の小粒と、鳥の羽が漂っていた。マグヌスがその水に検知光を当てると、ガラス管が王女の水差しと全く同じ激しい青緑色の波形を放った。
「還水側の水質が……水差し、および給水栓の汚染と百パーセント一致しました!」
マグヌスの宣言が前庭に響き渡った。
ダールトンの顔から血の気が失せ、声がピタリと止まった。もはや「外部からの直接混入」という言い逃れは、散水日誌と配管図面、そして濁った還水試料によって完全に打ち砕かれていた。
「呪いでも、下町の穢れでもない……ただの、配管の施工事故だと申すのか!?」
大臣たちのどよめきの中、王室財務院の主計官セドリックが前に進み出た。彼は携えてきた帳簿と書類を広げ、ルシアンの傍らに立った。
「事故にとどまりません」
セドリックが容赦なく一枚の納入指示書を掲げた。
「営繕庫の帳簿と照合いたしました。ダールトン殿。この指示書には、ダールトン商会の印とともに、不自然な交差配管と安価な資材を指定した追記が残されています。十二年前の工事台帳にも全く同じ商会名と接続図があり、中抜きの不正や過去の過失との因果については、検察局による今後の精査に耐え得る証拠です」
ダールトンはガタガタと震え、後ずさった。
「な、何を証拠に……! 私は王宮のために資材を納めただけでございます! 現場の施工など、職人の行き違いに過ぎません!」
周囲の大臣たちの目が、一瞬にして冷酷な色へと変わった。明確な水質データ、目の前の固着した弁、そして商会印の捺された指示書を前に、ダールトンを擁護する者は誰もいなかった。
大司教グレゴール猊下は、点検口の中の交差した配管と、エルシアの図面を交互に見つめ、激しい衝撃に震えていた。
「『穢れの祟り』ではなく……人と資材の不備が、王女殿下を苛んでいたというのか……」
猊下は私に向き直ると、震える声で尋ねた。
「聖女様……、あなたは、最初からこれを知っていたのですか。神の託宣でも、奇跡の示現でもなく……この鉄と鉛の管の中身を?」
謁見の間でも、下町の広場でも、誰もが私の言葉を「聖なる予言」か「子供の戯言」としてしか聞いてくれなかった。
だが今、目の前にあるのは、水と圧力と、間違えて繋がれた二本の管という、まごうことなき事実だった。
私は大司教の目を、そして国王陛下の目をまっすぐに見つめ、静かに、はっきりと答えた。
「はい、奇跡でも呪いでもなく、配管です」
その言葉は、もう「聖句」として翻訳されることも、十五歳の小娘の戯言として切り捨てられることもなかった。
ただの言葉として、技術の事実として、謁見の前庭に集まったすべての人々の耳に、そのまま届いた。
国王陛下は深く息を吐き出すと、車椅子の上でゆっくりと手を挙げられた。
「前庭の魔法噴水を直ちに停止し、本管との接続を遮断せよ。関係書類と点検口を封印し、下町の包囲を直ちに解除せよ」
威厳ある命が下されると、衛兵たちが動いた。
「ダールトンを拘束のうえ、検察局へ引き渡せ。十二年前からの納入記録と不正の疑いを、徹底的に調べさせよ」
「ひっ……! 陛下! お許しを、お許しください!」
ダールトンは崩れ落ち、衛兵たちによって引きずられていった。
前庭の噴水が、グググと重い音を立てて水勢を失い、やがてピタリと停止した。青白い魔導の光が消え、ただの静かな石彫へと戻っていく。
王女アメリーへの新たな汚染水の流入は、これで断たれた。あとは、医務係が清浄な水へ切り替え、手当てを続けることだ。
職人たちによって点検口に頑丈な封印が施され、前庭を包んでいた緊迫した現場がゆっくりと収束に向かっていった。
昼近く、大聖堂へ引き揚げる途中で、王宮医務係の医師から報せが届いた。
前庭の水路を遮断し、清浄な大聖堂の給水に切り替えて手当てを続けた結果、アメリー王女の熱は下がり始め、回復への確かな兆しが見えているという。
私は空を見上げた。
前世のあの嵐の夜。破裂した本管の前で、泥に塗れながら「待っていてください」と叫び、誰にも届かずに水に呑まれた、あの最期の無念。
胸の奥で、ずっと凍りついていた痛みが、温かく溶けていくのを感じた。
間に合ったのだ。
数字を示し、事実を語り、正しく配管を止めることで、今度は人々の命を守ることができた。
「エルシア」
隣に立つルシアンが、静かに私を呼んだ。
彼の肩の荷もまた、下りたようだった。局長としての実績と未来を捨ててまで、彼は事実を選んでくれた。
「君の勝ちだ」
「いいえ。私たちの勝ちです、ルシアン殿下」
私が微笑むと、ルシアンも微かに口元を緩めた。
大司教グレゴールが点検口を見つめたまま、静かに歩み寄ってきた。
「聖女様……言葉を偽り、貴女様の真実を聞こうとしなかった愚かさをお許しください。王宮全域の改修については、まず今回の大検分の記録を揃えましょう。……今度こそ、聞き違えずに」
高々と上がった昼の光が、前庭の石畳を白く染めていた。
王女アメリーの回復への兆しが見え、下町の何万もの人々も包囲の恐怖から解放された。
私は手に持った通水桿を握り直し、静かに頷いた。
*本日、王宮前庭の魔法噴水において御前検証を実施。交差接続を確認し噴水を即時全停止。下町包囲を解除。同日昼、王女の熱降下と回復の兆しを確認。*




