第八話「王女の熱——水源は、玉座の側に」
王女が倒れたという知らせは、王宮の空気を一夜で変えていた。
翌朝、王宮の謁見の間の大扉の前には、武装した衛兵がずらりと並び、ただならぬ緊迫感が漂っていた。玉座の左右には、厳しい表情を浮かべた大臣たちと、教会の高官たちが立ち並んでいる。
「下町の忌々しい穢れが、ついに王宮へ、あのアメリー王女殿下にまで達したのだ!」
宮廷の財務官や貴族たちは、私とルシアンが謁見の間に入るや否や、怒号に近い声を上げた。その中心に立っていたのは、樽水の独占販売権を持つダールトンだった。
「今すぐに下町を軍で包囲し、隔離しなければならん! 穢れの水源を、あそこへ封じ込めるのだ!」
下町の封鎖。
それは、罪のない何万もの人々を、汚染された水と病の中に閉じ込め、見殺しにすることを意味していた。
「お待ちください」
私が一歩前に出ると、ルシアンも私の隣に並んだ。
「本管全体の汚染とは考えにくいです。下町を封鎖しても、王女殿下の病は止まりません。原因は王宮の中にあります」
「お静かに、聖女様!」
ダールトンが私の言葉を遮るように手を差し向けた。
「宮廷の魔術師長様が、すでに『穢れの祟り』と鑑定されておられます。聖女様とて、病に関しては素人に過ぎますまい。祭壇の上でお祈りなさることこそが、貴女様のお務めでございます」
大司教グレゴール猊下もまた、困惑した表情で私を見つめていた。しかし、その目は「聖女が王宮の政治に口を挟むべきではない」という、頑固な拒絶の色を帯びていた。
「聖女様。王女殿下の御身が危機にある今、祈り以外の不確かな言葉は、人々の心を惑わすだけです」
誰も、私の言葉を聞こうとはしない。
王女が高熱と腹痛で倒れた夜、ルシアンは浄化局の名で前庭と侍女部屋の聞き取りを許可させ、王宮医務係の発熱者台帳を回させた。その記録をもとに、私は夜明けまで地図へ点を打った。昨夜から今朝にかけて作成した「王宮内患者分布図」だ。
私は懐から、その一枚の羊皮紙を取り出した。
「これは、王宮の中で熱を出して倒れた方々の位置を記録した地図です」
私は大司教と大臣たちの前に地図を広げた。
「アメリー王女殿下のほかに、昨日から今日にかけて高熱を出した者が三名います。王女付きの若い侍女が一名、そして前庭の魔法噴水の周辺で働いている庭師が二名。侍女は噴水の水を水差しへ運ぶ途中にその水を口にしており、庭師たちも給水栓の水を日常的に飲んでいた。全員に共通するのは、前庭で使われる水を口にしていたことです。噴水と給水栓が同じ系統か、そこで何が起きたのかは、配管を開けて確かめなければ分かりません」
ルシアンが私の隣に立ち、地図を指し示した。
「つまり、発症しているのはアメリーとその周辺の者だけだ。下町から入った穢れなら、もっと均等に王宮全体へ広がるはずだろう」
ダールトンはうやうやしく笑みを浮かべつつ、強硬に反論した。
「患者がわずか四人では、王家の噴水を止める根拠にはなり得ません。王女殿下の水差しを誰が扱い、庭師が何を飲んだかも、聖女様のお聞き書きに過ぎないのです。二百年祭の象徴である魔法噴水を止め、もし見当違いでした場合、一体どなたが責任をお取りになるおつもりですか?」
「いいえ。共通の曝露源があります」
書記の修道士の一人は「共通の曝露源」という言葉を、「身分を問わず、同じ試練が与えられたという聖女様の託宣」と会議記録に書き換えた。王女と庭師を同じ痛みの側へ置く慈悲深い教えだと受け取ったらしく、彼は震える手で目元をぬぐっている。
私は「違います。前庭で使われる水を、同じように口にした人が倒れている、という意味です」と言ったが、修道士はただ深く感涙するばかりだった。
「下町ではありません。王宮前庭の『魔法噴水』が、最も強く疑われます。奇跡ではありません。配管です。取水を止め、明朝までに噴水を開けて検査してください」
静まり返った謁見の間に、大臣たちの嘲笑が響いた。
「魔法噴水だと? あれは二百年祭のために、浄化局が新しく増設した王宮の誉れだぞ」
「宮廷魔術師長が呪いなしと太鼓判を押した聖なる泉だ。それを毒だと? 十五の子供の絵図遊びで、王家の噴水を止めろと申すか」
彼らの目に宿っているのは、崇拝の裏返しとしての、徹底的な「侮り」だった。
聖女としての権威など、王宮の面子と政治の前では、ただの十五歳の小娘の戯言として剥ぎ取られてしまう。
「猊下、聖女様は祟りの穢れに当てられ、心を乱しておられるようです」
ダールトンが大司教に耳打ちする。グレゴール猊下は、深くため息をつき、私に憐れみの目を向けた。
「聖女様。あなたは少々、下町の調査でお疲れが溜まっているのでしょう。大聖堂東翼の客室でお休みになり、王女殿下の平癒のために静かに祈りを捧げなさい」
「猊下! 噴水を止めなければ、また新しい犠牲者が——」
「衛兵。聖女様をお送りしなさい」
大司教の冷淡な声が響いた。私は左右から衛兵に腕を掴まれ、謁見の間から引きずり出された。
ルシアンが何かを叫ぼうとしたが、彼の前に宮廷の大臣たちが立ちはだかり、その声を遮った。
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大聖堂の東翼、意匠が凝らされた豪華な客室に、私は事実上閉じ込められていた。
「静養」という名目でありながら、重い木彫りの扉の外には甲冑を着た門番が二人立っており、廊下へ出ようとすれば静かに制された。バルコニーからは、遠く王宮の魔法噴水が、魔導の光を浴びて青白く輝いているのが見えた。
言葉が届かない。
どれだけ正しい数字を見せても、どれだけ論理的に説明しても、彼らは「子供の戯言」として聞き流す。あるいは「聖女の霊的な訓え」として、現実の配管から目を逸らす。
前世の、あの嵐の夜の記憶が脳裏をよぎった。
道路の陥没。破裂した本管。濁流の中で、「待っていてください」と叫んだ自分の声は、轟音にかき消されて誰にも届かなかった。
また、間に合わないのだろうか。
アメリー王女の熱は、今も上がっているはずだ。魔法噴水を止めなければ、王宮の中でさらに多くの人が倒れ、いずれは下町全体の武力隔離という最悪の結末を迎える。
悔しさと無力感に、私は爪が食い込むほど拳を握りしめた。
その時、客室の裏手に面したテラスの窓格子が、小さく金属音を立てた。
「エルシア」
聞き慣れた声が、暗闇の中から聞こえた。
窓の外を見上げると、魔導火のランプの光を遮るようにして、ルシアンが身を乗り出していた。彼の衣服は泥で汚れ、金髪が乱れていた。
「ルシアン殿下……? なぜここに」
「セシルが、裏門の交替時刻を教えてくれた。警備の隙なら、局長の権限より役に立つ」
ルシアンは窓の隙間から、細い鉄製のバルブキーと、二枚の羊皮紙を滑り込ませた。
「増設工事の提出図と、ダールトン商会の納入記録だ。営繕庫とセドリックから取った」
私は図面を広げ、魔導火の微かな光の下で凝視した。
本管から噴水へ引き込む枝管には、加工のしやすい鉛管が使われていた。これは別の危険だ。だが、アメリー王女たちの急な高熱を説明するのは、その先だった。
噴水の還水管が、直接上水の給水管へと接続されていた。典型的な「交差接続(クロス接続)」だった。
「昨夜、噴水の水勢が落ちた理由は、まだ分かりません。ただ、もし給水側の圧が落ちて還水側を下回ったなら、この接続では溜め水を吸い込む。圧の痕跡と配管の中身を、明朝確かめます」
ルシアンは窓の外へ短く指笛を鳴らした。裏門の暗がりで、待機していた局の伝令が小さく灯りを伏せた。ルシアンは窓枠から二通の封書を落とし、伝令は音もなく受け取った。
「一通は前庭の取水停止と、明朝、王宮営繕係に配管図と点検口の鍵を持たせて立ち会わせる命令。もう一通は王の侍従長へ、御前検分を求める上申だ。今夜のうちに王へ上げさせろ」
伝令が小さく頷き、暗闇の中へ消えていく。
「よし、これで届く。だから急いでここから君を出す。明朝、君が必要だ」
「……わかりました」
ルシアンは窓枠を掴む手に力を込めた。
「あの噴水は、僕が局長になってから初めて完成させた実績だ。僕の名前で、王宮へ納入された。それを汚染源だと告発すれば、僕の政治的な命は終わる。大臣たちは、僕を王位継承権から完全に除外するだろう」
私は息を呑んだ。
彼の背負うものの重さが、私の手の中の図面を通して伝わってくるようだった。十五歳の少年が、自らの未来をすべて捨てることになるのだ。
「それでも」
ルシアンは目を細め、静かに、だが決して揺るがない声で言った。
「妹の命と、僕の面子だ。天秤にかけるまでもなかろう。君の図面に、僕の名前を貸す」
彼だけは、私の言葉を「奇跡」とも「戯言」とも呼ばなかった。ただの数字として、配管の事実として、私の言葉をそのまま聞いてくれた。
「衛兵を動かせないなら、彼らが見ていない時間を使うしかない。それに、格子の留め具は古い仕切り弁と同じ四角穴だ。錆びているが、通水桿なら回せる」
私は通水桿の四角い先端を格子の留め具へ差し込み、両手で回した。錆びついた留め具が外れた。
ルシアンが二本の鉄格子を力任せに引き抜くと、私が這い出せるだけの隙間ができた。私は検分杖を先に外へ渡し、すり抜けるようにして窓枠を乗り越えた。
客室のテラスは、裏門脇の低い外壁に面していた。ルシアンが先に張り出しから地上へ降り、私の検分杖を受け取った。私はテラスの欄干から足を伸ばし、彼の差し出した腕を支えにして、最後の段差を降りた。ルシアンと並んで暗闇を走り出す。大聖堂の重い呪縛から、私の体が解放された瞬間だった。
「朝まで、侍従長の返事を待つ。来なければ、僕が王のもとへ行く」
ルシアンは走りながら言った。
「明朝、開けてみせよう」
*本日、王宮内患者分布図から魔法噴水を共通曝露源として疑う。浄化局は取水停止を命じ、明朝の御前検証を要求。大聖堂に軟禁されるも、ルシアン殿下の協力により脱出。*




