第七話「聖女の預言書——『百年ののち、我が管を検めよ』」
その日の夜、私は王都大聖堂の奥深く、地下聖遺物庫の重い鉄扉の前に立っていた。
冷え切った空気と、古い羊皮紙の甘酸っぱい匂いが鼻を突く。私の横には、大司教から立会いを許された浄化局長ルシアンが、魔導火のランプを手に静かに佇んでいた。
「聖女様、こちらです」
案内するのは、記録係の修道女セシルだった。彼女は大司教より原本の閲覧が正式に許されたのだと、興奮を隠しきれない様子で、古びた鉄の鍵を鍵穴に差し込んだ。重い金属音が静寂に響き、扉がゆっくりと開く。
埃の積もった本棚の最奥、鎖で厳重に繋がれた黒い革装の書物の上に、魔導火のランプが掲げられた。初代聖女エルネスタの「預言書」原本。
私は手袋をはめ、慎重に羊皮紙を捲った。
魔導火の青白い光の下で、美しく彩色された装飾文字の間に描かれた「挿絵」が浮かび上がる。
心臓が激しく鐘を打った。
それは、絵画などではなかった。
二本の平行線、管の接合部を示す継手、そして水流を制御する仕切り弁の断面。原本の全頁にわたって詳細な縮尺で描かれ、大聖堂の地下聖槽から王都へと伸びる、水道本管の施工図そのものだった。
「……施工図だ」
私が呟くと、ルシアンがランプを近づけ、図面を凝視した。
「これが預言書の正体か。確かに、これはただの絵じゃないな。この接合部の意匠、先日浴場の地下で見た本管の継手と全く同じ形状だ」
「はい。そして、この初代聖女様が掲げている錫杖ですが」
「奇跡ではありません。配管です。正しくは、通水桿——本管の仕切り弁を回す工具です。これの先端は、十字の形ではなく、中央に四角い穴の空いたソケットになっています。これは本管の地下仕切り弁に差し込み、回転させて水流を止めるためのバルブキーです」
セシルは目を丸くし、羽ペンを走らせた。
「通水桿……バルブキー。では、大聖堂の壁画に描かれた奇跡のポーズは、ただのバルブ操作の姿勢なのですか」
「はい。固着したバルブを回すには、体重をかけて全身で押し込まねばなりませんから、必然的にあの姿勢になります」
セシルは息を呑み、傍らに控えていた書記の修道士へ顔を寄せた。
「聞いたか! 『バルブキー』……聖女様が、水流の穢れを封じるための聖なる鍵の真名を解き明かされた! すぐに記録せよ!」
「は、はい! 『神聖なるバルブキーは、大地の底に眠る水の龍を呼び覚まし、邪悪なる濁流を平定する天の通水桿なり』と!」
違う。ただの鉄の開閉工具だ。
だが、彼らの熱心な書き込みは止まらない。私は諦めて次のページを捲った。
図面の余白には、細かな文字で「点検孔」を意味する「テンケンコウ」という注釈が書かれていた。修道士はそれを見て、「天顕光! 神聖なる天の光が顕現する聖なる穴なり!」と熱心に書き写している。頭が痛くなってきたが、私はそれを無視して最後の数ページに目を走らせた。
そこには、図面とは異なる、極めて私的な日誌が綴じ込まれていた。
使われているのは、この世界の文字ではない。
現代の、私の前世の母国で使われていた、日本語の文字だった。
息が止まった。
文字が、そのまま意味を持って脳裏に流れ込んでくる。
『私は生涯、これは奇跡ではなく技術だと言い続けた。だが、死ぬまで誰も信じてはくれなかった。ゆえに奇跡ということにした。水が届くなら、名前はどちらでもよかったから』
掠れたインクの文字が、二百年の歳月を超えて私に語りかけていた。
『大聖堂の地下聖槽は、百年に一度、継手を全面的に更新しなければならない。これは物理的な限界だ。聖句には「百年ののち、我が管を検めよ」と残した。これの本当の意味に気づき、この日誌を読んでいるあなたへ。これを直せるのは奇跡ではなく、あなたの手だ。頼みます』
指先が震えた。
視界が、急激に熱い涙で滲んでいく。
二百年前にも、同じ言葉を誰にも届かせられなかった人がいた。
それでも水を止めなかった。そのために、奇跡という名前を借りた。
私は預言書を抱きしめるようにして、台座に額を押し当てた。涙が羊皮紙の余白に滴り、吸い込まれていく。
ルシアンは何も言わなかった。ただ、魔導火のランプを静かに床へ置き、私の背中にそっと手を添えて、その震えが収まるまで黙って寄り添っていた。
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翌朝、大聖堂の会見室は、重苦しい緊張感に包まれていた。
大司教グレゴール猊下の前に、私とルシアンは、初代聖女の預言書原本を広げて座っていた。
「猊下。預言書に示された『百年ののち、我が管を検めよ』という言葉は、大聖堂の地下聖槽と王都を結ぶ本管の、物理的な点検を意味しています」
私は涙の痕の残る目をまっすぐに見つめ、言った。
「本管の継手は限界です。今度大雨が降れば、王都の半分で水が止まります。奇跡の加護を待つ時間はありません。今すぐに、本管の調査と修繕の許可をください」
大司教は、白く豊かな髭を撫でながら、預言書の施工図を複雑な表情で見つめていた。本管は「聖遺物」であり、人間が触れることは教会法で厳禁とされている。
「聖女様。しかし、本管は神の加護そのもの。それを人の手で暴くなど、教会の歴史上……」
「猊下。百年前の式次第の記録には、祈禱と行列しかありません。継手交換の支出も、人足の記録もありません」
私の言葉に、大司教の眉がぴくりと動いた。
更新の記録がないという事実。それは百年前、物理的な修繕は行われず、ただの儀式で済まされていた証拠だった。そのツケが今、本管の崩壊寸前の錆となって表れている。
「あわせて、猊下。穢れ台帳に『溶鉛』を加える裁可を」
グレゴールは預言書の余白を見たまま、ゆっくり頷いた。
「初代聖女様が遺した水路を守るための名なら、台帳に加えましょう。……わかりました。教会の伝統と預言の実行、どちらが重いかは明白です。ただし、これは単なる『工事』ではなく、二百年祭の先駆けとして、本管の清浄を確かめる『二百年目の大検分の儀』として布告いたします。聖女の御心のままに、その検分を許可しましょう」
エルシアの言葉は、またしても「儀式」へと翻訳された。
しかし、今回はそれでいい。物理的にシャベルを入れ、本管を確かめる許可が得られたのなら、名前は奇跡でも儀式でも構わない。
許されたのは、まだ検分だけだ。
それでも、土を掘り、錆びた継手を見せるところまでは進める。直すための許可は、その先で奪い取るしかない。
「ありがとうございます、大司教猊下」
私は深く一礼した。二百年前の先輩の残した言葉が、ようやく教会の壁を穿った瞬間だった。
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その日の午後、王都浄化局の実験場に、一人の老人が渋い表情で立っていた。
宮廷魔術師長マグヌス。かつて「青白の祟り」の際、「呪いなし」と鑑定したものの、結果的に鉛中毒という実態を暴かれ、面子を丸潰れにされていた魔術の権威だ。
「……聖女エルシア。私をこのような泥臭い場所に呼び出して、何の用だ。また私の鑑定に難癖でもつけるつもりか」
マグヌスの白髭が、不機嫌そうに震えていた。
「いいえ、マグヌス様。あなたの検知魔法の鑑定は、完全に正しかったのです」
私は実験台の上に、古い魔導検知器と、一本の鉛管を置いた。
「正しい? だが、あの令嬢たちは祟りではなく鉛の毒で臥せっていたのだろう。私の魔法はそれを見抜けなかった」
「それは、教会の『穢れ台帳』に、水に溶けた鉛や、目に見えない病毒が定義されていないからです。魔法は、台帳に書かれた言葉しか認識しません。定義されていないものは、存在しないものとして素通りします。だから、あなたの魔法は『呪いなし』と正しく答えたのです。ただ、そこにある物理的な毒を、視ることができなかっただけです」
マグヌスは目を見開いた。
「台帳に、定義がない……?」
「はい。そして今朝、大司教猊下より『溶鉛』を台帳に登録する裁可をいただきました。だからこそ、マグヌス様の力が必要なのです。この魔導検知器の術式を調整し、流量の測定と、溶鉛の成分を検知する『計測器』に作り替えていただきたいのです」
ルシアンが一歩前に出た。
「宮廷魔術師長。君の鑑定は、呪いなしで終わらせるには惜しい。次は、水を測れ」
マグヌスは長い沈黙ののち、置かれた鉛管を手に取り、まじまじと見つめた。
「……私の鑑定が間違いではなく、台帳の外側にあった毒を視られなかっただけだ、と。面白い。聖女エルシア、魔術師の面子にかけて、その計測器を完成させよう」
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夕刻。マグヌスは術式を書き換えた検知器を、二つの水瓶へ順に沈めた。
「左は聖槽から直接引いた清浄な水。右は、同量・同時間を鉛管に通した水だ」
検知器を沈めると、右の水瓶の時だけ、これまで沈黙していた魔導具の針が、左の零点を基準として、そこからゆっくりと離れて数値を指し示した。
「溶鉛、検知。……見えた」
さらに、水路の検査用に試作した簡易な流量計にも、水を流して試験を行った。砂時計が落ち切るまでに受け口を通った水の量を、魔導具の目盛が正確に示した。同じ圧でも、弁を絞れば目盛は落ちる。測っているのは圧ではなく、一刻に通る水の量だった。
これで、見えない毒も流量も、現場で測れる。
「呪いを見抜ける鑑定を、ここで諦めるものか!」
手元を見つめるマグヌスの目は、針から離れなかった。
祈りと計測が、同じ図面の側に並び立ったのだ。
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だが、大検分の準備のために掘削班がシャベルを手に動き出そうとしたその時、実験場の扉が乱暴に開け放たれた。
ルシアンが午前の許可状をガロ親方へ届け、浄化局名義で掘削と計測のための人足を集めていたのだ。
息を切らした王宮の使者が、青ざめた表情で立っていた。
「ルシアン殿下! 聖女様! 大変です!」
使者はルシアンの前に膝をつき、震える声で告げた。
「王宮のアメリー王女殿下が、先ほど激しい熱と腹痛を訴えて倒れられました! お召し上がりになった水が原因ではないかと、宮廷魔術師たちが『穢れの祟りだ』と騒いでおります!」
ルシアンの顔から、一瞬にして血の気が引いた。
「アメリーが……?」
灰熱に似た症状。
けれど、王女をまだ見てもいない。
私は検分杖を強く握りしめ、ルシアンの青い瞳を見つめ返した。
*本日、大聖堂の聖遺物庫にて初代聖女の設計図を解読。本管の掘削・計測を行う大検分の儀を許可された。魔導流量計の試作と、溶鉛検知器の零点確認・比較試験を完了。*




