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第六話「浴場の交差——十二年前の水を、まだ誰かが飲んでいる」

 職人街の一角にある公衆浴場「青き白鳥の湯」の前に、私は立っていた。


 普段なら熱い湯気が吹き出し、石鹸と薪の匂いが漂うはずの煉瓦造りの建物は、いまや薄気味悪いほどに静まり返っている。入り口には立ち入りを禁じる教会の木札が掲げられ、周囲には重苦しい沈黙が張り詰めていた。


「昨夜、ここで入浴した職人や客、合わせて三十七人が、今朝になって一斉に激しい熱と腹痛を訴えて倒れた」


 私の横で、ルシアンが濡れた帳面を硬い表情で見つめながら言った。


「下町の他の共同栓では、汚水が吸い込まれた形跡は三箇所だけ。そこも既にエルシアの指示で閉鎖され、被害は数人に留まっている。なぜ、この浴場だけがこんな惨状になっている」


「井戸ではない。少なくとも、本管全体の汚染とは考えにくい。公衆浴場固有の、何かがある」


 私は法衣の裾を泥除けの紐で高く括り直し、手にした検分杖を強く握りしめた。


「ガロ親方、浴場の床下を調べます。一番古い配管が通っている場所に案内してください」


 背後で腕を組んでいたガロが、無言で深く頷き、太い指で建物の裏手にある魔導ボイラー室を指し示した。


---


 浴場の地下は、這い進むのがやっとのほど狭く、湿った暗闇に包まれていた。


 カビと錆びた鉄の匂いが鼻を突く。ガロの部下が掲げる魔導火の青白い光が、複雑に入り乱れた金属管を不気味に浮かび上がらせていた。


「青き白鳥の湯は、五年前の増改築で、水を無駄にしないためにボイラーの熱で一度使った湯を濾過し、再加熱して還流させる仕組みを導入したそうだ」


 ルシアンが狭い梁に頭をぶつけそうになりながら、私の後ろに続いた。


「魔導浄化陣を組み込んだ新型の還流器だ。教会の鑑定では、還流器の呪いも穢れもなし。大司教は『浴場の主が日頃の祈りを怠ったための祟りだ』と怒っているがな」


「祈りの回数は、流体の圧力に関係ありません」


 私は編み上げた上着の裾を押さえ、上から降りてきている鉛管と、床下の粘土層に消えていく太い鉄管の交差点を凝視した。


 管と管が、一本の細い銅管と古びたバルブを介して、直接繋がっていた。


「……これです」


 私は検分杖の先端を、そのバルブに当てた。耳を杖の頭に押し当てる。


 しゅう……という、かすかな金属的な擦れ音が鼓膜に響いた。漏水音だ。バルブの内部が摩耗し、完全に閉まりきっていない。


「エルシア、何を見つけた」


「交差配管です。飲用の上水管と、使用済みの汚水を溜める還流排水管が、物理的に繋がっています」


 ルシアンは眉をひそめ、懐中電灯のように魔導火をバルブに近づけた。


「繋がっている? なぜだ。上水と排水は分けるのが鉄則だろう」


「魔導ボイラーの圧力が低下した際に、上水から直接、圧を補うために繋いだのでしょう。しかし、これが致命的な罠になります。昨夜の大雨で北部高地の継手破裂が起き、本管の水圧が失われましたね」


 私は泥だらけの配管を指でなぞった。


「その時、飲料水管の内部に強力な負圧が発生しました。一方で、浴場側の還流槽には、客が浴びた使用済みの汚水が満ちていた。閉まりきらないバルブの隙間から、汚水が飲料水管の内部へと吸い込まれたのです。この管は、湯だけでなく脱衣所の飲み水にも繋がっています。昨夜、湯上がりの客が口にした水が——」


 ルシアンの息が止まるのが、暗闇の中で分かった。


「魔導浄化陣が還流槽にあったとしても、負圧で吸い上げられた一瞬の流体すべてを浄化できるわけがありません。だから、ここだけが爆発的に発症したのです」


 私は体を起こし、開口部から這い出しながら泥を払った。


「親方、この銅管の両端を閉じてください。還流槽側のバルブも、今は開けさせないで」


 ガロは黙って頷き、人足にレンチを渡した。古い接続管は切り離されて両端を栓で塞がれ、飲用管へ向かう水の音が止まった。


「奇跡ではありません。配管です。正しくは、交差配管による逆流事故です」


 地下から流れてきた泥水が滴るなか、私たちを、ギルドの人足たちと、大聖堂から派遣されてきた司祭が不安そうに取り囲んだ。


「聖女様、床下に何があったのですか」


 司祭が震える声で尋ねる。


「コウサハイカンです」


 私がきっぱりと言うと、司祭は目を丸くし、傍らに控えていた書記の修道士に素早く耳打ちした。


「聞いたか! 『コウサハイカン』……聖女様が、邪悪なる逆流の魔を封じ込めるための、聖なる配管の接続法を示された! すぐに記録せよ!」


「は、はい! 『神聖なるコウサハイカンは、上流と下流の調和を守り、穢れを無力化する天の鍵なり』と!」


 違う。ただの配管施工ミスだ。


 しかし、私の訂正の声は、彼らの熱心な羽ペンのインクの音にかき消されていった。こうしてまた、王都の新しい「聖句」が誕生してしまったらしい。私は額を押さえて深いため息を吐いた。


---


 その日の午後、私は土木ギルドの奥にある作業場で、古い工事台帳を捲っていた。


 埃っぽい部屋には、ガロが保管していた過去数十年の水路工事の記録が山積みになっている。


「親方、この浴場の還流装置が取り付けられたのは、五年前ですね。それ以前の記録はありますか」


「ああ、ここだ」


 ガロが棚の奥から、色褪せた革表紙の帳面を引き抜いた。


「十二年前に、この浴場で一度、大きな配管の引き直しが行われている。当時はまだ魔導ボイラーじゃなく、石炭の加熱釜だったが、配管の基本設計はその時に決まったはずだ」


 私は帳面を開き、指で図面をなぞった。


 十二年前に。


 心臓が冷たく脈打った。


 図面には、今回見つかった誤接続のバルブと全く同じ位置に、細い接続管が描かれていた。そして、その工事を請け負った手配師の名前の横に、見覚えのある商会の印が押されていた。


 ——ダールトン商会。


 利権のために安価な工事を使い回し、点検もせずに放置された水管。


 あるいは、これこそが十二年前の祟りの正体。


 そして、十二年前といえば、下町で灰熱と同型の「祟り」が大流行した年だ。ルシアンの母、側妃リディアが亡くなった、まさにその年だった。


「……ルシアン殿下」


 私は呟き、帳面を抱えて立ち上がった。


---


 翌朝、青き白鳥の湯の裏手で、ルシアンは古い帳面を閉じた。


 彼は、最後の一頁を私へ差し出した。朝露に濡れた金髪は乱れ、目の下には濃い隈が浮き出ていた。


「十二年前の患者記録を、浴場の客帳と照らした。工事後の二十日間、灰熱の患者は浴場の客と従業員に集中している。母の名もある。工事の直後だ。


 母は平民出身だった。王宮に入ったあとも、息苦しい宮廷を逃れて、客のいない明け方に実家と縁のあったこの浴場を借り、湯上がりに水を飲んでいたと古い客帳にある」


 ルシアンの声は、静かだった。静かすぎて、かえって痛々しかった。


「母を殺したのは、下町じゃなかった」


 帳面の端を掴む彼の指が、白く強張った。


「僕は、ずっと間違ったものを浄めようとしていた」


 彼は空を見上げた。朝の光が、彼の青い瞳を冷たく照らしていた。


 私は彼を見つめ、静かに待った。


「……負けだな、エルシア。完敗だ」


 ルシアンは視線を私に戻し、小さく笑った。その笑みには、いつもの社交用の柔らかい皮肉はなく、ただ私を射すような技術への信頼だけがあった。


「君は、あの夜に間に合った。だが、二度目は防がなければならない。浄化局のすべてのリソースを、君の配管工事に提供する。呪いではないのなら、僕の魔法は、君の言う『計測』のために使おう」


「ありがとうございます、ルシアン殿下」


 私は彼の差し出された手を、しっかりと握り返した。


 初めて、この世界で「言葉がそのまま通じる相手」と、同じ図面の側に立てた気がした。


---


 しかし、私たちの共闘が始まった矢先、ガロ親方から重い声がかけられた。


「聖女様、殿下、来てくれ」


 夜明けまで、人足たちは浴場の裏手から境界壁へ、配管の向きを追って掘り進めていた。


 ガロに案内されて向かった浴場の敷地の境界壁の奥。


 そこには、大聖堂の地下聖槽から王都へと伸びる、最も太い「水路の本管」が露出していた。


 石造りの古い本管の継ぎ目から、泥水がしずしずと滲み出ている。継手を留めている古い金属の帯は赤く錆びつき、今にも破裂しそうなほどに膨らんでいた。


「本管の継手は、昨夜の異常より前から限界だったはずだ。雨で地盤が緩み、漏れが表に出たんだろう。今度大雨が降れば、この継手が破裂して、王都の半分で水が止まるぞ」


 ガロは錆びた帯を睨みながら吐き捨てた。


「だが、ここは教会の敷地内だ。水路の本管は『聖遺物』。職人が触れることは教会法で禁じられている。もし勝手にシャベルを入れれば、親方衆は全員絞首刑、聖女様とて一発で破門だ」


 目の前にある、今にも破裂しそうな本管。


 物理的な崩壊が目の前に迫っているのに、教会の古い法という目に見えない壁が、私たちの手を阻んでいる。


「ここまで来て、法律の壁ですか……」


 私は検分杖を握りしめ、歯噛みした。


 その日の夜、大聖堂の私の私室に、静かなノックの音が響いた。


 扉を開けると、そこには聖遺物庫の記録係である修道女セシルが、周囲を警戒するように立っていた。彼女の細い腕には、古い羊皮紙の束がしっかりと抱えられていた。


「聖女様……」


 セシルは声を潜め、私に近づいた。


「大司教様たちには内緒で、聖遺物庫の奥から、初代聖女エルネスタ様の『預言書』の原本の挿絵を写した羊皮紙を持ち出しました。この図面を、どうしても聖女様に見ていただきたいのです。本文の祈禱文と、挿絵の縮尺がどうしても噛み合わないのです。これは……ただの預言の書ではないような気がするのです」


 手渡された羊皮紙には、装飾文字の余白に、二本の平行線と見慣れない継手だけが写されていた。


 配管の図に、似ている。


 けれど、断片だけでは断言できなかった。


 私は息を呑み、セシルの顔を見上げた。


 *本日、職人街の浴場にて交差接続を確認。逆流防止措置の仮施工を完了。本管継手の致命的な劣化を発見。修繕方法、模索中。*

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