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第五話「雨の夜の逆流——警告は、水よりも早く」

 週末の夕暮れ、大聖堂の奥深くにある大司教の執務室で、私は声を張り上げて進言していた。


「猊下、お願いです。今夜からの大雨に備え、下町の末端バルブを一時的に閉鎖する許可をください。大聖堂の聖槽の水位が限界を超えています。導水路のどこかで継手が破裂して漏水すれば、末端への給水圧が一気に失われます」


 大司教グレゴール猊下は、いつものように穏やかで、そして果てしなく噛み合わない笑みを浮かべていた。


「おお……聖女様。なんと慈悲深く、民の渇きをお案じくださる。ですが、ご心配には及びません。大聖堂の聖槽は、主の祝福と聖女様の加護に満ちています。聖なる水が、下水の穢れに負けるなどということは起こり得ないのです」


「加護の問題ではありません。物理的な水圧の消失です。管内の圧力が失われれば、浸水した下町の共同栓から、側溝の汚水が一気に吸い込まれます。逆流が起きるのです」


 グレゴールは目頭を押さえ、深く感銘を受けたように嘆息した。


「なんと深遠なる霊的な喩え。外の邪悪なる誘惑に対し、心の栓を固く閉ざさねば、信仰の器に汚れが流れ込むという御託宣ですね。皆の者、今宵は心のバルブを閉め、主への祈りを捧げましょう」


「比喩ではありません! ただの物理現象です!」


「おお、ご謙遜な。さあ、祈りの時間です」


 通らない。加護の本人が「逆流する」と言っているのに、その警告は信仰という巨大なフィルターを通して、比喩的な訓えへと翻訳されてしまう。


 私は深くため息を吐き、大司教の執務室を後にした。窓の外を見上げれば、すでにどんよりとした灰色の雨雲が、王都の空を低く覆い始めていた。


---


 大雨が降り始めた夜、私は大聖堂を抜け出し、下町の土木ギルドへと走っていた。


 激しい雨水が石畳を叩き、瞬く間に路地は川のようになり始めている。雨水を吸って重くなった法衣の裾を泥まみれにしながら、私はギルドの重い木扉を押し開けた。


「教会の許可は得られませんでした。それでも今夜、下町の末端バルブを閉鎖します。手を貸してください」


 土木ギルドの作業場で、私の言葉を聞いた人足たちが一斉にざわめいた。


「無断でバルブを? 聖女様、それは教会法に触れる行為です。大聖堂の水路を勝手に操作したとなれば、破門だけでは済まないかもしれません!」


「おい、聖女様」


 親方のガロが、作業台に腕を組んで腰掛け、私を睨みつけた。


「俺たちは教会のお偉方に睨まれたら、明日から食い扶持がなくなる。あんたがどれだけ正しいと喚こうが、お上の許可がねえ工事には動けねえ」


「水圧の物理現象は、教会の都合も面子も待ってはくれません」


 私はガロの目をまっすぐに見据えた。


「今夜、導水路の継手が破裂し、水圧が失われる危険が高いのです。その時、下町の側溝から汚水が吸い込まれれば、何千人もの人々が病に倒れます。責任はすべて私が取ります。破門されるのも私一人です。だから、力を貸してください」


 ガロは眉をひそめ、人足のトトたちを見回した。


「それに、聖女様。いまバルブを閉めちまったら、今夜の下町の飲み水はどうなるんです? 水が止まったら、今日の炊き出しも、風呂の水も使えなくなっちまいますよ」


 トトの問いは、技術者としての私に鋭く突き刺さった。


 今夜の水を断つことになる。けれど、汚水を含んだ水を明日以降も飲ませるよりはましだ。夜明けまでに代替の樽を回すしかない。私は握りしめた記録簿の端を強くつかんだ。


「今夜は、ギルドに残っている飲用の貯水を西街区へ回してください。足りない分は、私が大聖堂へ戻って樽水を求めます。許可が出なければ、私の名で持ち出します。教会への説明も、処分も私が引き受けます。だから、今夜だけは水を止める許可を……いえ、一緒にバルブを締めに行きましょう」


 ガロはしばらく私を見つめていたが、やがて太い腕を頭の後ろで組み、大笑いした。


「はっ、腹を決めた化け物は嫌いじゃねえ。おい野郎ども、道具を持て! 今夜は水を止める大仕事だ。夜明けには樽を総動員して、この西街区に配るぞ。聖女様の『大清め』のお手伝いだ!」


「おお!」


 若い人足たちが声を上げ、雨の中へと飛び出していった。


---


 嵐の闇の中、私たちは複数のグループに分かれ、下町に点在する末端の給水バルブへと急いだ。


 エルシアとガロは、最も標高の低い市場裏の共同栓へと向かった。


 雨足はさらに強まり、側溝から溢れ出た泥水が路地を満たし、共同栓の蛇口の高さまで迫っていた。泥水が私のふくらはぎを濡らし、冷たさが骨まで沁みる。


 その時、不意に、水管の奥で金属が軋むような音がした。


 きん……。


 ——上流のどこかで、継手が破裂したのだと私は悟った。


 上流からの水圧が急激に低下し、管内に負圧が生じる。


 ゴボゴボ……ズウゥゥゥ……。


 まだバルブを閉めていない共同栓の口から、周囲の汚水が凄まじい勢いで吸い込まれていく。冠水した側溝の泥水が、渦を巻いて水栓の中に飲み込まれていく。


「締めなさい! 早く!」


「くそっ、錆びて固着してやがる!」


 ガロが泥水に膝をつき、鉄のレンチをバルブの頭に噛ませた。トトがそれに両手でしがみつき、体重を預ける。私の検分杖をバルブの隙間に差し込み、テコの原理で力を加えた。


 ギギギ、と鈍い音が響き、バルブが完全に閉じられた。ゴボゴボという不気味な吸引音は、一瞬で消えた。


「……間に、合いましたね」


 私はその場にへたり込み、激しい雨の中で肩で息をした。顔を濡らすのは雨水か、それとも冷や汗か分からなかった。


 ほかの共同栓はどうなったのか、まだ分からない。


 それでも、市場裏の吸引音だけは止められた。


---


 ギルドの飲用貯水を樽に移し、西街区には夜明け前に二巡だけ回せた。足りなかった家には、朝まで水を我慢させるしかなかった。


 翌朝、雨は引いたが、大聖堂の応接室には重苦しい空気が満ちていた。


「無許可で水路のバルブを操作し、王都の給水を止めたとは、いかに聖女様とて許されざる暴挙にございます」


 大司教グレゴールが、いつもの穏やかさを失った声で私を断罪していた。その背後には、教会の権威を守ろうとする司祭たちがずらりと並び、私を冷たい目で見下ろしている。


「さらに『教会の加護が不完全であったため、下水が逆流した』などという不届きな噂まで流れておりまず。これは大聖堂の、ひいては教会の面子に関わる重大な事態です」


「主計官として事実のみを報告します」


 財務主計官のセドリックが、淡々と帳面を開いて口を挟んだ。


「今朝、北部高地において本管の継手破裂が確認されました。夜明けまでに確認できた汚水の侵入箇所は三つです。下町の主要な末端は閉鎖済みで、汚染はその周辺に留まりました。もし聖女様が下町のバルブを緊急閉鎖していなければ、王都の給水網全体に汚水が逆流し、汚染範囲の拡大による復旧費用は金貨三百枚を超えていたと試算されます。また、下町の労働損失による王都の税収減も計り知れません。今回の措置は、実務上の緊急避難として妥当であると判断します」


 セドリックの冷徹な数字による弁護の前に、大司教は不機嫌そうに黙り込むしかなかった。国庫の損失を防いだという数字だけが、私を破門から辛うじて遠ざけた。しかし、教会の怒りが消えたわけではない。


 さらに、ギルドに戻ったガロから、最悪の報せが届いた。


「ダールトンの息がかかった問屋から、鉄管と予備バルブの納品を差し止めると通知があった。教会に無断で動くギルドには資材を売らない、だとよ」


「ダールトンの妨害ですか……」


「ああ。社交界でも『聖女様が泥遊びの末に、王都の水を止めた』などという嫌味な噂が回っているらしい。これで当分、水路の更新工事は進まねえな」


 教会の古い慣習と、利権を握る商人の嫌がらせ。物理的な逆流は防げたが、人間関係の澱みはさらに深く沈殿していく。


---


 その朝の会談を終えたあと、私は下町の広場で一人、図面を片付けていた。


 そこへ、配水を終えたガロ親方と人足たちが戻ってきた。


 浄化局の局員を二人連れたルシアンが、濡れた帳面を抱えて広場に入ってきた。泥だらけの長靴は、彼自身が夜通し街を回っていた証拠だった。


「局員に共同栓を回らせた。今朝の記録では、君が閉めた街区の共同栓から、汚水を吸い込んだ形跡はない」


「ルシアン殿下。なぜここへ?」


「ただの現場検分だ。それにしてもエルシア、破門の危険を冒してまで、なぜそこまでする? 大聖堂の奥で聖女として祈っていれば、泥水にまみれず、皆に崇拝されて暮らせるはずだ」


 私は、水たまりに反射する朝日の光を見つめ、静かに語り出した。


「夢を見るのです」


「夢?」


「はい。昔、激しい雨の夜に、間に合わなかったことがあります。水を待つ人たちのところへ。その結果、多くの人が泥水を飲むことになりました」


 聞き慣れない言葉にも、ルシアンは問い返さなかった。私の目に宿る本物の悔しさを、ただ静かに見つめていた。


「私は、二度とあのような無念を残したくないのです。私の手が届く場所にある命を、今度は、間に合わせたい」


 ルシアンはフッと小さく笑い、空を見上げた。


「そうか。……詮索はしない。だが、今夜は間に合った。君が閉めた街区では、汚水は入らなかった。記録がそう示している」


「……ありがとうございます、殿下」


 初めて、私の「本音」をそのまま受け止めてくれた王子の言葉に、私は小さく微笑んだ。


---


 その時、広場の向こうから、息を切らしたギルドの若い人足が走ってきた。


「聖女様! 親方! 大変です! 職人街の公衆浴場で、数十人が一斉に灰熱の症状で倒れました! あそこは井戸を使わず、直接水路から引いている場所です!」


 私はルシアンと顔を見合わせた。


 人足の話では、倒れたのは浴場の客と、そこに出入りした者だけ。


 井戸ではない。少なくとも、本管全体の汚染とは考えにくい。公衆浴場固有の、何かがある。


 私は急いで工事記録簿を開き、今日の一行を書いた。


 *本日、下町の末端バルブの緊急閉鎖完了。逆流による給水汚染を最小限に抑止。北部高地にて導水路の破裂を確認。新規患者数、検証中。*

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