第四話「青白きご婦人がた——祟りは身分を問いません」
大聖堂の応接室に差し込む朝日の光の中で、私は昨夜届いた相談の書状を読み返していた。
相談の主は、貴族街に邸宅を構えるカルバン子爵。その娘であるルクレツィア令嬢が、数ヶ月前から病に伏せっているという。
「急な高熱も脱水もないのに、顔が青白く、激しい腹痛があり、手が痺れて動かない……」
私は小さく呟き、手元の革装の工事記録簿にその症状を書き留めた。
下町で猛威を振るった灰熱——高熱と激しい下痢で人を干からびさせる病とは、明らかに異なる。熱がなく、蒼白と激しい腹痛、そして手の末梢神経の麻痺。前世の水道局員としての知識が、頭の片隅で一つの物質の名を弾き出した。
鉛。
この王国において、柔らかく加工しやすく、錆びにくい「上等な管」として引込配管に使われている重金属。そして、貴族の令嬢たちがこぞって顔に塗る、鉛白の白粉。
「これぞまさしく、下町を這い回る卑しき祟りが、ついに貴族街の清浄なる邸宅にまで及んだ証拠にございましょう。同じ頃から、近隣のお屋敷でも、よく似た顔色の悪さを訴えるご婦人がいるとか……」
私の前で、大真面目な顔で頭を下げている子爵家の家令が、手短に言った。
「お嬢様も日毎に気鬱を深め、おいたわしい限りです。どうか聖女様の御手による祝福を賜りたく……」
「わかりました。カルバン子爵邸へ伺いましょう」
私は立ち上がり、壁に立てかけていた検分杖を手に取った。
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貴族街にあるカルバン子爵の屋敷は、大理石の柱と手入れされた庭園に囲まれた、非の打ち所のない豪邸だった。
だが、その庭園を横切って屋敷へ入ろうとした私の前に、見慣れた金髪の少年が立ちはだかった。
「やあ、聖女様。こんな高貴な場所で泥遊びの打ち合わせかな?」
王都浄化局の制服を身にまとったルシアンが、人好きのする社交用の笑顔を浮かべていた。その脇には、派手な官服を着た白髭の老魔術師が、不機嫌そうに腕を組んで立っている。宮廷魔術師長マグヌスだ。
「ルシアン殿下。なぜここに?」
「祟りの調査だよ。浄化局長として、貴族街での発症は見過ごせないからね」
ルシアンはそう言うと、周囲に他の者がいないのを見計らい、声を潜めた。
「それと、ただの観察だ。検証は終わったが、君のやり方が、貴族の家でどう通るのか見ておきたくてね」
私はため息を呑み込んだ。この十五歳の王子は、賭けに負けて予算を譲った後も、私の手法を執念深く見極めようとしている。
応接室に通されると、主であるカルバン子爵が私たちを迎えた。
「おお、聖女様! よくぞお越しくださいました。マグヌス魔術師長殿にも立ち会っていただき、心強い」
マグヌスはふんと鼻を鳴らし、豪奢な杖を軽く振った。
「すでに令嬢の寝室にて、最上級の検知魔導具を用いた鑑定を終えております。結果は……呪詛なし。瘴気なし。死穢なし。完全に『清浄』である」
子爵が縋るような目を向けた。
「しかし、現に娘は病に臥せっております! 呪いがないとすれば、これは神罰、あるいは……」
「呪いの反応が出ぬのに病む。これぞまさしく、物理的な汚染などではない、霊的な祟りそのものである! 私の鑑定に間違いはない!」
マグヌスが胸を張り、尊大に言い放った。
私は内心で頭を抱えた。
魔法が万能だと思っているから、こういう結論になる。水に溶けた鉛は、教会の「穢れ台帳」に登録されていない。登録されていないものは、魔法の網を完全に素通りする。それだけのことなのに、この国では「魔法が検知しない病=霊的な祟り」と定義されてしまうのだ。
「子爵様、令嬢の部屋を見せていただけますか」
ルクレツィア令嬢の部屋はカーテンが閉め切られ、青白い顔をした少女がベッドで力なく横たわっていた。その枕元には、高級な銀の容器に入った白粉が置かれている。
やはり、鉛白だ。
「令嬢、この白粉は毎日お使いですか?」
少女はかすかに頷いた。
「はい……。貴婦人の嗜みとして、欠かさず……」
「まず、その白粉の使用を今すぐやめてください。新しい管が通るまで、飲み水も大聖堂から運ばせます。身体に入る鉛を、今日から断つ必要があります」
私の言葉に、少女は驚いたように目を見張った。私は続けて言った。
「では、次にこの屋敷の給水管を見せてください」
私の言葉に、マグヌスが眉を吊り上げた。
「水管、ですか。娘の祟りと、ただの管に関わりがあるとお考えなのですかな?」
「関係はあります」
私は地下の配管ピットへと向かった。
ルシアンは黙って私の後ろについてくる。手元には革装の帳面があり、羽ペンを握っている。私が壁の傷を測り、床の勾配を検分杖で確かめる様子を、彼は一言も発さずに書き留めていた。
地下の狭い通路に、大聖堂から引き込まれた一本の金属管が通っていた。
私は検分杖を管に当て、コツコツと叩いた。さらに爪で強く引っ掻く。柔らかく、鈍い灰色の金属粉が爪の間に挟まった。
「これ、鉛の管ですね」
「いかにも」
カルバン子爵が、誇らしげに胸を張った。
「大聖堂の聖水路から直接引いた、最も高価で錆びない上等な管です。何か問題でもございますかな?」
「この鉛の管から溶け出した澱みが、水に混ざっています。令嬢は、その水と、鉛の入った白粉を数ヶ月にわたって体内に取り入れ続けたため、身体の中に毒が溜まったのです。顔が青白くなり、お腹が痛み、手が痺れるのは、祟りではなくその鉛という金属が原因です」
私の説明に、地下室の空気が一瞬で凍りついた。
「聖女様。まさか、我が屋敷の水管に毒があると仰るのですか? あれは大聖堂の聖水路から引いた、最上等の管です。下町で流行った祟りと、同じものだとは……」
やはり、面子の壁だ。
さらに、マグヌスが冷笑を浮かべて私を指差した。
「ふん、十五の小娘の戯言だな。魔導の台帳に載らぬ毒などあるものか。我ら宮廷魔術師が二百年培った検知魔法が、ただの金属を見逃すはずがない。神聖なる聖女の権威とやらは認めてやるが、水管がどうのという小難しき講釈は、子供の絵図遊びと同じだ」
——聖女様の祝福なら賜るが、水管の講釈は小娘の戯言。
私の頭の中で、その言葉が虚しく響いた。
聖女としての私の存在は崇拝するが、私が語る「数字と物理の真実」は、十五歳の小娘の戯言として侮り、一切耳を貸そうとしない。崇拝と侮りが、同じ口から同時に吐き出されている。
私は横に立つルシアンを見た。彼は帳面にペンを走らせるのを止め、冷徹な目でマグヌスと子爵を見つめていた。
「エルシア」
ルシアンが、周囲に聞こえない声で低く言った。
「彼らは数字を読まない。君がどれだけ正しい記録を示しても、耳を塞ぐ」
「わかっています」
前世でも、理屈の通じない相手はいた。だが、ここで諦めるわけにはいかない。令嬢の身体は、毎日少しずつ毒に蝕まれているのだ。
私は深く息を吸い、検分杖を両手でしっかりと握り直した。
論理が通じないなら、彼らの「言語」を使うまでだ。
私はすっと背筋を伸ばし、法衣の袖を厳かに整えた。そして、大聖堂の祈禱で行うような、朗々と響く声を地下室に満たした。
「——大いなる主の御名において、告げます」
その声の響きに、カルバン子爵とマグヌスがびくりと肩を震わせた。
「この館の水を守る器に、目に見えぬ『澱み』が沈殿しております」
「聖女様。では、我が家の水路に、祟りが潜んでいると?」
子爵の声が低くなった。
鉛が毒だという説明は、彼の誇る上等な管を否定するものだった。けれど聖女の託宣なら、それは失策ではない。祟りを払うための儀式になる。
「子爵様が選ばれた水路を責める話ではありません。いまの器では、澱みを抱え込んでしまうのです。器を改めれば、祝福は正しく水に宿ります」
「……では、器を改めれば、娘は助かるのですか」
「身体に入る澱みは、今日から断てます。まずは古き衣を剥ぎ、白き粉を遠ざけなさい。この澱みは、通常の魔法では検知できぬ、土の深き奥底に潜む影。澱みを払い、大聖堂の清浄なる水を正しく受け入れるためには、水路の『衣』を改めねばなりません。古き衣を剥ぎ、新たな黒鉄の衣を通す儀式を執り行うことこそ、聖女の祝福を受け入れる器を調える道にございます」
「おお……!」
子爵の傍らにいた家令が、感極まったように手を合わせた。
「なんという深遠なる御託宣……! 鉛の管を剥ぎ、鉄の管を通すことこそが、祟りの澱みを払うための聖なる儀式にございますか!」
「はい」
私は努めて厳かな表情を維持した。
「鉄の管へと交換する儀式を怠り、白き粉で身を飾ることを止めねば、祝福は水に宿らず、令嬢の病も癒えぬでしょう。今すぐ鉄の管を手配し、白き粉を遠ざけ、水路の衣替えを執り行いなさい」
「は、はい! すぐに土木ギルドの職人を手配いたします!」
子爵は、敬虔な信徒の顔で平伏した。マグヌスもまた、聖女の「託宣」の前には言葉を失い、苦虫を噛み潰したような顔で黙り込んだ。
私は心の中で深くため息を吐いた。
奇跡ではありません。配管です。
そう言いたい口を強く閉じ、私は法衣の袖で検分杖を隠した。
ふと隣を見ると、ルシアンが片手で口元を覆い、肩を小刻みに震わせていた。
「……くくっ、やるな」
「笑わないでください、殿下」
私は囁き返した。
「これしか、彼らの耳を開く方法がなかったのです」
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屋敷を出て、貴族街の坂道をルシアンと二人で下っていた。
「『黒鉄の衣の儀式』か。傑作だな」
ルシアンは帳面を閉じ、悪戯っぽい笑みを私に向けた。
「儀式にしてしまえば、どれだけ高価な工事でも、貴族たちは喜んで金を払う。君は本当に、人々の『信仰』という無駄なエネルギーを使うのが上手い」
「皮肉は結構です。ただの配管交換ですから」
「知っている。だが、その便法は役に立つ」
ルシアンは少し真面目な顔になり、空を見上げた。
「アメリーにも、その儀式が必要になるかもしれないな」
「アメリー王女殿下ですか?」
「ああ。妹は最近、王宮に新しくできたあの魔法噴水がすっかりお気に入りでね。その水で毎日、温室の花に水をやっているんだ。もしあの噴水の管にも同じ『澱み』があるなら、先にその黒鉄の衣とやらで交換させたい」
「王宮の魔法噴水も、最近の増設ですね……」
私は眉をひそめた。
王宮の配管にも、加工しやすい鉛管が使われている可能性は高い。
「気をつけておきます。ですが、まずはこの貴族街で、同じ症状の令嬢たちがいる邸宅を特定するのが先決です」
「そうだ。僕も浄化局の記録から、似た症例を探す」
ルシアンはそう言うと、短い会釈をして浄化局の馬車へと乗り込んでいった。敵対していた頃の刺々しさは消え、彼は確かに私の「数字」を観察し、同じ実務の地平に立とうとしていた。
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だが、その週の週末、大聖堂の私の私室に現れたセドリックの言葉が、私の思考を完全に凍りつかせた。
「聖女様、配管更新の見積もりに必要だと頼まれていた、大聖堂の聖槽の水位記録ですが」
セドリックは財務院の青いインクで書かれた表を私の机に置いた。
「ここ数日、北部高地での降雨の影響で、聖槽の水位が急激に上昇しています。すでに限界値を超えています」
私はその水位データと、下町の末端管路の図面を交互に見つめた。
聖槽の水位が上がりすぎれば、古い導水路は水を逃がし切れない。どこかで継手が破裂して漏水すれば、末端の水圧は一気に失われてしまう。
下町は給水管の末端だ。そこで週明けの豪雨によって側溝が溢れ、浸水した共同栓にその負圧がかかれば——汚水は管の外から一気に吸引される。
物理的な、管内への汚水逆流。
「これ……逆流します」
私の手が、図面の上で止まった。
「逆流? 聖女の加護がある聖水路に、下水の汚れが流れ込むとでも?」
セドリックが怪訝そうに尋ねた。
「加護の問題ではありません。物理的な圧力の逆転です。早く、下町の末端バルブを閉めないと、下町全体が汚水で汚染されます!」
窓の外では、すでにどんよりとした灰色の雨雲が、王都の空を覆い始めていた。
私は工事記録簿を開き、羽ペンを走らせた。
*本日、青白の祟りの調査完了。カルバン子爵邸の引込管(溶鉛)の交換(儀式名:黒鉄の衣の改修)を指示。累計一箇所。週明けに豪雨の予報あり。大聖堂の聖槽の水位、限界値を超過。逆流の危険性あり。*




